9 思索の果て
吉良朝葵:大学三年生
久万桐人:大学四年生、朝葵と同じ学部・ゼミの先輩
望月叶:大学三年生、朝葵の親友、朝葵と同じ学部・ゼミ
佐々山暁人:大学四年生、朝葵たちと同じ大学の医学部、桐人の従兄
日高悠一郞:朝葵たちと同じ民宿に泊まっていた客
暁人と叶はまだ二人で盛り上がっていたから、朝葵は食事を口に運びながらも、動かない桐人の様子をちらちらと窺っていた。
――何を、考えているのかな。
桐人の胸中には、考えることは山ほどあるに違いなかった。でも、桐人が反応したのは暁人の言った『骨』のこと。それから、朝葵が見た『人魚』だった。
さっきは恐怖にすくむばかりだったが、もしあの人魚が日高の姉だとすれば、いったい朝葵に何を訴えかけようとしたのだろう。そもそも、なぜ彼女は人魚になってしまったのか。
砂浜に流れ着いた身体――その頭部はなぜ失われた? 海に呑まれたのか、魚にでも食われてしまったのか。
そして、あの日。日高は何を確かめるために、あの潮だまりへ向かったのだろうか。
朝葵がそんなことを考えているうちに、暁人が桐人の様子に気づいた。暁人は驚いてコップを置き、桐人に声をかける。
「おいおい。もう終わったんじゃなかったのか。桐人、お前が僕を連れて帰るんだ。僕が連れて帰るのは聞いてないからな」
朝葵は慌てて、暁人をなだめた。
「まあまあ、先輩。少し様子を見ましょう。たぶん、もうすぐ終わりますよ」
「本当かなあ」
朝葵は桐人の顔を見た。眉を寄せていた桐人の表情が、わずかにほどけていくのがわかる。おそらくもう少しで、孤独に深く沈み込むような、彼独特の思索から抜け出すだろう。
朝葵はここ一年で、何度も桐人のこの"癖"に遭遇してきた。長い沈黙に付き合っていくうちに、おぼろげではあるが、その終わりを朝葵は感じ取れるようになってきていた。
叶も首をかしげ、疑わしげにしている。
「そうなの? じゃあ、朝葵にまかせるけど……」
「まあ、なんとなくね。だめだったら、佐々山先輩お願いしますね」
「ええ~」
そのとき、桐人の手がすっとテーブルに伸び、水の入ったコップを掴んだ。
「あ」
桐人はコップを口に運び、ぐびりと喉に水を流し込む。コップを置いたとき、初めて桐人は三人の視線に気づいたようだった。少しだけ眉を下げ、申し訳なさそうな表情になる。
「……すまない。またやってしまった」
「いえ、それは大丈夫ですけど」
「そうだぞ。連れて帰ってくれないかと思ったじゃないか」
暁人は軽口を叩いたが、すぐに座り直し、やや真剣な表情に変わる。
「……ま、いいや。終わったってことは、お前さ、何か結論出たんだろ。話してくれよ」
「…………」
桐人は黙ったまま視線を落とした。今は思索に沈んでいるのではない。むしろ、戸惑いの色が濃かった。
「……わかってるだろう。俺の、いつもの妄想みたいなものだ。人にわざわざ話すようなことじゃない」
「そんなの、わかんないだろ。ここまで来たら何でも聞きたいよ。わけのわからないことばっかりだ」
「しかし」
「……先輩、私からもお願いします」
朝葵はじっと桐人を見つめる。桐人は困ったように口を開きかけ、また閉じる。三人の視線が重なり、ついに桐人は大きくため息をついた。
「……わかった。ただ、別に確かな証拠があるわけじゃない。言いふらすな。それだけは守ってくれ」
◆
「今回のことには、いくつかの疑問がある」
桐人の低い声が、狭い座敷を満たす。時刻はもう一時を回り、客はまばらになっていた。厨房はもう晩の仕込みに入っているのか、包丁や鍋の音が響いてくる。
「ひとつは、なぜ日高さんが、あの島で"お姉さんの顔をした人魚"を見たのか、だ」
「……お姉さんの身体が、あの島に流れ着いたからでしょうか」
朝葵が言うと、桐人がゆっくりと頷いた。
女将もそう語っていたし、調べたら、ネットに該当する記事が残っていた。首なし死体が発見されたということで、一時はSNSでも話題になったらしい。中には現場まで行き、写真を投稿する者までいた。
「誰だって、身内を失ったら正気でいられないものだ。ましてや、普通でない状態で発見されたんだ。……半年経っても、気持ちの整理がつかなかったのは無理もない」
桐人の低い声の中には、沈痛さがにじんでいた
「……これはあくまで俺の想像だが、日高さんの心の状態には、お姉さんのことが大きく影響していたんじゃないかと思う。日高さんは、お姉さんに最後に会ったとき、秘密を打ち明けられ、お願いをされていた」
『お母さんたちには内緒ね。はずかしいから』
「その言葉を守ろうとして、日高さんは最初、姉の旅行を隠していた。連絡が途絶えても、交際相手との旅行中だからと信じて、しばらくは様子を見てしまった」
桐人は小さくうつむき、続けた。
「……おそらく、違和感はあったはずだ。いつもは人の世話ばかりして、自分のことは後回しの姉と、一切連絡が取れなくなったのだから」
桐人はそう話している間、あえて朝葵から目をそらしているように見えた。
朝葵には理由がわかっていた。重なるのだ。日高と姉との関係が、朝葵と日高に……。
叶が口を挟む。
「まあでも、普通、彼氏と旅行中だったら親や兄弟に連絡したりしないですよ。言われてても、楽しくて忘れちゃう人も多いんじゃないかな」
「その通りだ。日高さんの対応は、そんなにおかしいことじゃない」
桐人は、朝葵に視線を向けた。そこには、いつもの優しい眼差しがある。
「だが、悲しいできごとが起きた中で、責任感の強い人ほどが自分を責めてしまうのはよくあることだ。日高さんは、自分の判断で捜索開始が遅れたことを、ずっと気に病んでいたんじゃないだろうか」
そうかもしれない、と朝葵は思う。
桐人の言葉で救われたものの、やはり自分に何かができたのではという思いは、胸の奥でくすぶっている。
こんな思いに日々苛まれれば、心は簡単に病んでいくだろう。愛する姉を亡くした日高は、半年間どれほどのつらさを抱えていたのだろうか。
「……日高さんのせいではないのに」
ぼそりと言う桐人の声が、朝葵に届く。桐人の優しさがじわりと感じられた。
桐人は叶たちのほうに向き直り、話を続けた。
「そうして、日高さんは島にやってきた。どういう思いでいたのかはわからないが、お姉さんが流れ着いた砂浜を、ひたすらに歩いていた。そうしてあの夜、人魚を見たんだ」
朝葵は岩礁にいた人魚を思い出し、背筋がすっと冷える。あの夜聞いた咆哮は、なおも耳にこびりついている。
「正直、ただの見間違いということはありうる。あのへんの岩は濡れて黒いから、それが鱗のある身体に、ライトに照らされたデコボコ部分が、一瞬顔に見えただけかもしれない。……何と言っても、そのころの日高さんの精神状態は、普通じゃなかった。」
『構わなかったから』
夜中に岩を登るのも、その上で眠ってしまうのも危なっかしい行動だ。それこそもう何かあってもいいと、そのときは思っていたのだろう。
「姉のことばかりを考えていた人の、病的な状態における錯覚だとすれば、一応理屈は成り立つ」
暁人が口をとがらせる。納得できないという顔つきだ。
「お前、宮司さんにもそんなこと言ってたな。本気でそう思っているのか」
桐人は少し黙り込んだ。やがて、静かに言った。
「……まあ、これは、よそ向けの話だ。」
ここまでお読みいただいてありがとうございます。まとめに入ってまいりました。次のお話も、引き続き楽しんでいただければ幸いです。