5 人魚の嘆き
吉良朝葵:大学三年生
久万桐人:大学四年生、朝葵と同じ学部・ゼミの先輩
望月叶:大学三年生、朝葵の親友、朝葵と同じ学部・ゼミ
佐々山暁人:大学四年生、朝葵たちと同じ大学の医学部、桐人の従兄
日高悠一郞:朝葵たちと同じ民宿に泊まっている客
日高は戻らなかった。
夕食の時間になっても姿を現さず、部屋に帰ってきた様子もなかった。
昼に感じた冷たさが、嫌なざわめきとなって朝葵の胸に広がっていく。朝葵は桐人たちに、昼に日高と交わした会話を伝えた。
女将とも相談し、朝葵たちは岩場へ向かった。夕方で海風が強くなっており、日高が言っていた場所は、砂浜からだと大岩を乗り越えなければならないため、岩壁の上を目指すことになった。
迫る夕闇の中、朝葵たちは黙って歩いた。昨日までの日高の様子を思えば、最悪の結末が全員の頭に浮かんでいたに違いなかった。誰も言葉を発せず、足取りだけが早まっていった。
目的の場所にたどり着いたとき、海風はさらに強まり、誰もいない岩壁に波音が重く響いていた。
「この下だな」
桐人が身をかがめ、岩場の縁から潮だまりを覗き込んだ。暁人が隣でライトを持ち、下を照らす。後ろにいた朝葵は、桐人の背中が一瞬こわばったのを見逃さなかった。
桐人は暁人を手招きし、下を指さした。覗き込んだ暁人もまた、肩をこわばらせる。桐人がいつもより低い声で言った。
「……暁人、急いで女将さんの所へ行って、人を呼んでもらうように頼んでくれないか」
桐人の声には、抑えきれない動揺がにじんでいた。暁人は頷くと、振り返りざまに駆け出していった。
ただごとでないことが起きている。二人の様子からはそう感じられ、朝葵は桐人の隣に寄ると、身を乗り出して下を覗いた。
「ああっ……!」
叫びが喉を突いた。
「吉良、やめておけ」
桐人がすぐに肩を押さえ、朝葵を後ろへと引き戻す。いつも表情を崩さない桐人だのに、その横顔は明らかに青ざめていた。よろめく朝葵を叶が慌てて抱きとめ、「何があったの」と震える声で尋ねた。
朝葵の目に映ったのは、潮だまりにうつ伏せて倒れる男の姿だった。
白いTシャツ、膝丈のハーフパンツ。昼に見たばかりの服装。
――日高さん。
生きているはずはなかった。
海風に吹かれても微動だにせず、腕も足もすっかりと血の気を失っていた。
そして何より異様だったのは、日高の首が潮だまりに沈んでいることだった。
黒い水がすっぽりと頭を呑み込み、それはまるで――
「朝葵、朝葵、大丈夫?」
叶が心配そうに、朝葵の身体を揺らす。今見た光景が、脳裏に焼き付いて離れない。
『でも――姉さんは、身体しか帰ってこなかった』
日高の言葉が蘇る。あの水面の下に、本当に日高の頭はあるのか。それとも……。
涙が零れる。震え出す朝葵を、叶がしっかりと抱きしめた。
次の瞬間、海のほうからぱしゃん、と小さな水音が弾けた。それに続いて、潮を煮詰めたような生臭い匂いが漂う。気づけば日は沈みかけており、ひんやりとした夜気が近づいてきていた。
刹那、獣の咆哮のような声が、黄昏の空気を裂いた。
朝葵は叶と顔を見合わせた。桐人もまた、驚きを隠さずに海を凝視している。悲哀に満ちたその叫びは、鋭い刃のように朝葵の胸を貫いた。
――お姉さんの人魚が、啼いている。
弟の死を怒り、嘆いているのだ。朝葵には、そうとしか思えなかった。
人魚の慟哭は、やがて暗い波音にかき消されていく。それを、朝葵たちはただ呆然と聞いていた。
どのくらい時間が経ったのだろう。へたりこんだ朝葵の耳に、暁人の声や大勢の人の足音が届いた。暁人が、人を呼んできたのだ。
朝葵は、身体の力が抜けるのを感じた。霞む視界に叶と桐人をとらえながら、朝葵の意識は、暗い海の底へと沈んでいった。
◆
それからのことを、朝葵はよく覚えていない。
気がつけば、宿の布団に寝かされていた。目を開けると、こうこうとした明かりの下で、心配そうに自分を覗き込む、叶と女将の顔が見えた。
「大丈夫? 朝葵」
「……うん」
叶が朝葵の手を握る。その温もりに、薄れていた意識が少しずつ戻ってくるのを感じた。女将は安心したように小さく息を吐き、そそくさと部屋を出て行った。
「大丈夫だよ……。私、気を失っちゃったの?」
「そうだよ。久万先輩が、ここまで運んできてくれたんだから」
「え、そうなの……?」
これは、とんでもない迷惑をかけてしまった気がする。しかし、今のぼんやりとした頭では、それ以上は考えられなかった。
叶は申し訳なさそうに続けた。
「朝葵、ごめんね。明日帰る予定だったけど、延期になりそう」
「延期……? どうして?」
「海が荒れてるし、もう夜だから、今日は船が出せないんだって。その……私たち、警察が来るのを待たないといけないから」
警察には、島の人がすでに通報していた。だが船が出せないので、到着は明日になるという。発見者である朝葵たちは、警察の事情聴取に協力しなければならない。
「じゃあ、日高さんは……」
「……現場を保存しないといけないし、夜で引き上げるのも難しいから……。警察が来るまでは、あのままにしておくらしいの」
叶もうつむき、悲痛な表情を浮かべている。朝葵の目から、涙がこぼれた。日高は、あんな場所で、たった一人で、悲惨な姿のまま、今も放っておかれているのだ。
最後に話したときの、日高の笑顔が浮かぶ。気さくで、たぶん、優しい人だった。
「朝葵、泣かないで。朝葵が悪いんじゃないよ」
「わかってる、だけどね」
――どうして、あんなことになっちゃったの。
叶は、泣き出した朝葵におろおろとしていた。叶を困らせたくないのに、涙が止まらない。
最後に日高に会ったのが、自分だった。
あの後、日高は死んだ。
あのとき、もっと何かできたのではないか。
窓から見えた、消えてしまいそうな背中を、朝葵が声を上げて呼び止めていれば――
海で聞いたあの慟哭は、まだ耳の奥にこびりついて離れない。
そのとき、入り口の引き戸をノックする音がした。叶が返事をすると、戸が静かに開いた。
「吉良、大丈夫か」
桐人だった。朝葵の泣き顔を見て、一瞬戸惑った表情を浮かべる。叶に促されて腰を下ろすと、桐人は気遣うような眼差しを朝葵に向けた。
「……せんぱい」
きっと今の自分は、ぐしゃぐしゃの顔をしているに違いない。涙がつうっと頬を伝い落ちると、桐人が眉をひそめた。おそらく、心配してくれているのだ。
「……先輩、ごめんなさい」
「ん?」
「先輩のほうが大変だったのに……。運んでもらったりして……」
「ああ、なんだ、そんなことか。気にするな」
「でも」
言葉を続けようとした朝葵に、桐人がわずかに微笑み、「大丈夫だ」と言った。
その穏やかな低い声が、優しい音楽のように朝葵の胸に沁みた。張り詰めた気持ちがじんわりとゆるんでいく。
いつしか、朝葵の涙は止まっていた。
その様子を見て、叶がほっとした表情を浮かべ、微笑みながら言った。
「……朝葵、ちょっと先輩と話す?」
朝葵は、黙ってこくりと頷いた。叶は「じゃあ、私は席を外しますね」と言い、部屋を出ていった。
二人きりになると、しばらくどちらも言葉を発しなかった。最初に口を開いたのは、桐人のほうだった。
「……驚いただろう」
「……はい」
「見ない方がいいと、早く言うべきだった。俺が悪かった」
桐人が頭を下げた。朝葵は慌てて身を起こすと、首を横に振った。
「起きて大丈夫なのか」
「大丈夫です。……先輩のせいじゃない。私が悪いんです。……予想できていたのに」
「……」
岩壁から覗いたときの、うつ伏せの日高の姿が蘇る。頭を海に呑まれた、動かぬ身体。
――どうして、あんな風にしてしまったんだろう。
先程まで自分を支配していた、狂おしいほどの罪悪感が、再び胸に押し寄せてくる。朝葵は思わず胸に手を当てた。心臓が押しつぶされそうな感覚に、息が浅くなっていく。
桐人は、そんな朝葵をじっと見つめていた。その真剣な表情に、朝葵の鼓動がさらに早くなった。
「……吉良。今回のこと、自分のせいだと思っているんだろう」
「え……」
図星を突かれて言葉に詰まる。
「違う。吉良のせいじゃない」
桐人は、迷いなくきっぱりと言い切った。
「予測なんか、つかなくて当然だ。いつもより元気そうに見えたと、吉良自身が言っていただろう。それなのにこんなことになるなんて、誰にもわかるわけがない」
「でも……、でも、あのとき、私が……」
――何ができたというんだろう。
ただ、もう二度と日高と話せないという事実が、悲しくてたまらない。それだけなのかもしれない。
桐人はふたたび朝葵を見据えると、はっきりと言葉を重ねた。
「いいんだ。断言してもいい。今回のことは、吉良のせいじゃない」
「先輩……」
また、ぽろっと涙がこぼれた。しかし、今度の涙は、なんだかあたたかかった。
「……ありがとうございます」
「明日は落ち着かないだろうから、今夜はできるだけ休んだ方がいい」
「はい」
そこまで言うと、桐人はふっと目を細め、あきれたような顔をした。ちらりと横目で入り口を見やると、顔は向けずに声をかけた。
「そこの二人も、中に入ってきたらどうだ」
引き戸が静かに開いた。そこには、ばつの悪そうな顔をした、叶と暁人が立っていた。
ここまでお読みいただいてありがとうございます。次のお話も、引き続き楽しんでいただければ幸いです。