4 陽炎のゆらめき
吉良朝葵:大学三年生
久万桐人:大学四年生、朝葵と同じ学部・ゼミの先輩
望月叶:大学三年生、朝葵の親友、朝葵と同じ学部・ゼミ
佐々山暁人:大学四年生、朝葵たちと同じ大学の医学部、桐人の従兄
日高悠一郞:朝葵たちと同じ民宿に泊まっている客
「ね、どう思う?」
「うーん……」
日高は話し終えると、「ごめんね、少し疲れちゃったから」と部屋に引き上げていった。
食堂に残された朝葵たちは、まだ日高の話を飲み込めず、顔を突き合わせて考え込んでいた。
人魚に姉の顔がついていた? なんとも奇妙な話である。考えれば考えるほど、朝葵の頭はぐるぐると混乱してきた。
「女の人の顔に魚の身体って……それは人魚って呼ぶのかい。むしろ人面魚じゃないか」
不満げな顔で口をとがらせ、暁人が言う。暁人は話の内容よりも、人魚の定義が気になるらしい。
桐人が真剣な顔で応じる。
「いや、日本の古い文献に出てくるものは、だいたいそうだぞ。魚身人面と言ってな」
「なんだよ、それ。響きがもう怖いんだけど。意味わかんないし」
「じゃあ画像、出してみましょうか」
叶がスマホで検索した画像を見せると、暁人はあからさまに顔をしかめた。鯉のような魚の身体に、角の生えた般若のような顔がついている、有名な絵である。
「うう……かわいくない。僕は認めないぞ。人魚ってのは普通、上半身は人間だろ。それも、きれいな女性じゃないと」
「それは西洋から入ってきたイメージだ。あきらめろ。下半身だけが魚の人魚が出てくるのは、大体江戸以降だ」
「いいよ、もう。僕は専門外だし。僕の専門は人魚じゃないもん。可愛い人間の女の子だ」
「アホか。医者になるなら、人間全般を専門にしろ」
よく知る従兄弟どうしだからか、桐人は普段より饒舌だった。楽しそうに話していると言えなくもないが、成人男性である暁人が頬をふくらませるのを見ていられず、朝葵は口を挟んだ。
「まあ、日高さんが見たのが人魚として、ですね。どうして、お姉さんの顔だったんでしょうか?」
「そこだ」
桐人の視線がまっすぐに朝葵に向けられた。なぜか、鼓動が早くなり、顔が熱くなる。
「せ、先輩には、なにか考えがあるんですか?」
声が震えた。心なしか、叶と暁人の視線が痛い。
けれど、桐人はそんなことには気づかぬ様子で、いつもの落ち着いた調子で言葉を続けた。
「まず、この島の伝説から考えてみよう」
「伝説……そうでしたね」
「この島の伝説は、エビス神に関わるものだ」
桐人の説明が始まった。朝葵は、桐人の話を聞くのが好きだった。
低く、よく響く声。決して強い自己主張はしないのだが、不思議と説得力があり、心にしみわたる。桐人には少し生きづらそうな癖もあるのだが、朝葵は特に気にならなかった。
朝葵は、自分でも顔が広いと思う。そのぶん、人間関係に疲れてしまうことも多かった。
桐人とは、朝葵がゼミの見学に来たときからのつきあいだ。朝葵が困っているときには、桐人はいつもさりげなく手を差し伸べてくれた。悩んだときには、静かに話を聞いてくれた。
一緒にいると、なぜか心が落ち着く。時々見せる穏やかな眼差しが、たまらなく嬉しい。朝葵にとって桐人は、そんな存在だった。
――ただ、あくまで尊敬する先輩であって。
恋愛経験のない朝葵ではあるが、この気持ちが恋愛感情であるとは、とうてい思えなかった。そう言うたびに、叶は決まって渋い顔をするのだが。
◆
次の日の昼食後、朝葵は二階の廊下で日高と行き合った。日高は白いTシャツにハーフパンツ姿で、ゆうべまで伸びていた無精髭はきれいに剃られていた。
「今日は、もう出かけられるんですか?」
朝葵が声をかけると、日高は頭を掻きながら、少し照れくさそうに笑った。
「実はね、ゆうべ君たちに話をして、いろいろと思い出したことがあったんだ。今日は改めて、あの岩場を見てみたくなってね」
「例の潮だまりのところですか」
「そう。あのときは暗かったからね。明るいほうがいいと思って。いつもの時間じゃ薄暗いしね」
日高は、窓にちらりと目をやった。外では、真夏の太陽が容赦なく照りつけている。窓から差し込む光が薄暗い木造の廊下を白々と切り取り、そこだけが場違いな明るさを宿していた。
「確かにそうですね。昨日のお話、なんだか不思議で……驚きました」
「ふふ、変な話だったろう? てっきり笑われるかと思っていたんだけど、君たちが真剣に聞いてくれたから安心したよ」
「いえいえ、とても貴重なお話でした。実は私たち、大学で各地の伝承なんかを研究するもので……。特に久万先輩なんかは、こういう話に目がなくて」
「なるほど。確かに彼が、一番真剣な顔をしていた気がしたね」
――一番真剣だったのは間違いないけど、表情に関しては、いつもと変わらない顔だったんじゃないかな。
朝葵は心の内でそうつぶやきながらも、黙って日高に笑みを返した。
日高は、もう一度窓の外に目をやると、朝葵を振り返ってにっこりと笑った。
「じゃあ、僕はそろそろ出かけるね。今日はさすがに早く戻ると思うから、わざわざ呼びに来てもらわなくても大丈夫だよ」
「わかりました。お気をつけて」
「ありがとう」
ひらひらと手を振ると、日高は下へ続く階段へと消えていった。
朝葵は妙な気分だった。さっきの日高の様子は、昨日までのやつれた印象とはまるで異なっている。階段を下りていく足音すらも、迷いが晴れたような軽やかさがあった。
本来の日高悠一郞は、今日のように気さくで明るい人間なのかもしれない。そんなことを思いながら、朝葵は窓から外を覗いた。
道から照り返す陽射しが眩しく、朝葵は思わず目を細めた。明るい陽光の中で砂浜へと歩いて行く日高の後ろ姿は、陽炎に溶けるように揺らめいていた。
ぱしゃん。
どこかで、水を打つような鋭い音が響いた。その瞬間朝葵は、胸の奥に冷たい水が流れたような、ひやりとした感覚を覚えた。
――それが、生きている日高を見た、朝葵の最後の記憶となった。
ここまでお読みいただいてありがとうございます。次のお話も、引き続き楽しんでいただければ幸いです。