2 人魚と出会った話
吉良朝葵:大学三年生
久万桐人:大学四年生、朝葵と同じ学部・ゼミの先輩
望月叶:大学三年生、朝葵の親友、朝葵と同じ学部・ゼミ
佐々山暁人:大学四年生、朝葵たちと同じ大学の医学部、桐人の従兄
日高悠一郞:朝葵たちと同じ民宿に泊まっている客
「あ、あの、何か?」
朝葵は思わず声を上げた。
食事を終えて席を立った日高が、何を思ったのか、突然ぐるりと振り向いたのだ。
痩せて落ちくぼんだ目が、じっと朝葵たちの方を見つめている。何か気に障ったのかと思ったが、怒っているようにも見えない。むしろ、驚きで固まっているようだった。
一緒に話していた叶たちも戸惑い、会話を止めて日高を見返した。食堂に沈黙が広がり、湿った潮風が、古い窓枠をきしませた。
朝葵たちの困惑に気づいたのか、日高ははっとして頭を掻き、力なく笑った。
「いや、ごめん。人魚と聞こえたから……つい」
「あ、はい。人魚の話してました……けど」
意外だった。確かに妙な話題ではあるが、この人が自分たちの会話に興味を示すなんて。
朝葵たちが宿についたとき、女将に「妙なお客さんがいるけれど、気にしないでね」とそっと耳打ちされた。
やつれた顔に陰鬱な表情をやどした、二十代後半くらいの男性。無精髭を生やし、ラフな服装はさらに着崩れていた。この島で客が楽しめるのは釣りくらいだが、宿を出る日高はいつも手ぶらだった。休暇を楽しみに来た客には到底見えず、何か事情があるのは察することができた。
釣りどころか、日高は何にも興味を持っていないように見えた。女将の用意するおいしい食事も、楽しげに箸を動かす様子はちっともない。最初は、自分たちがうるさいせいで不機嫌なのかと気を揉んだが、砂浜をさまよう日高を見たとき、そんな感情すら日高にはないのだとわかった。
――この人、死ぬんじゃないかしら。
不謹慎かもしれないが、朝葵はそう思ってしまった。痩せた身体を引きずるように砂浜を歩く姿には、生きる執着というものが見られなかった。
この人は、波にさらわれることを願っているのではないか――
「日高さんは、人魚の話に興味がおありなんですか?」
桐人の声に、朝葵ははっと我に返った。
穏やかだが、芯の通った声。気がつけば、桐人はさりげなく朝葵たちの前に出てきていた。
「うん、興味があるというかね」
「俺たちはこの島に人魚の伝説があると聞きまして、その話をしていたんですが……。もし、何かご存じなのでしたら」
桐人の言葉に、日高は申し訳なさそうに、ふふ、と笑った。
「僕はこの島は初めてでね。伝説のことはよく知らない……。ただ、人魚と聞いて驚いてしまっただけなんだ」
「そうでしたか……」
表情は変わらなかったが、桐人の声には若干の残念そうな響きがあった。おそらく、人魚についての新しい情報が得られなかったからなのだろう。
桐人は、不思議な話に目がない男なのだ。
朝葵たち四人は、同じ大学の学生である。朝葵と叶、桐人は同じ学部で、桐人が一つ上の先輩である。暁人だけは、医学部に籍を置いている。
今回の旅行は、宿の女将が叶の親戚で、「夏休みに遊びにおいで」と誘われたのがきっかけだった。女友達だけでもよかったのではないかと思うが、叶が変な気を回して桐人に声をかけた。
『この島ねえ、人魚の伝説があるらしいんですよう』
叶の思惑通り、桐人は伝説に興味を示し、あっさりと同行を承諾した。桐人の従兄である暁人は人数合わせで呼ばれたのだが、叶には別の思惑もあるに違いない。
桐人は続けた。
「じゃあ、こういった話題が元々お好きなんですか?」
「そうじゃないんだ、僕は……」
日高は一息つくと、意を決したように言った。
「この島で、人魚に出会ったんだ」
◆
「へ!?」
「ちょっと、佐々山先輩ったら」
暁人が思わずすっとんきょうな声を上げ、その背中を叶がぱあんと気持ちのいい音を立ててはたく。親友の叶は、先輩である暁人のことが気になっているはずだが、遠慮というものがまるでない。
「叶ちゃん、いたたた」
「大きな声出すからですよ」
わちゃわちゃとした二人の掛け合いを背中で聞きながら、桐人は話を続けた。心持ち、身体が前のめりになっているようにも見える。
「この島で、人魚に会ったと……?」
「うん、その通り」
日高は弱々しい微笑を浮かべて答えた。朝葵には、日高が冗談を言っているようには見えなかった。
「詳しく聞かせていただけますか?」
すると、日高は少し驚いたように眉を上げた。
「……信じるのかい、こんな話」
「ええ、ぜひ」
こうなった桐人は止められない。朝葵たちは目配せを交わし、お互いに覚悟を決めた。
「よろしくお願いします」
三人の声が揃ったことで、日高はほっとしたように表情を緩めた。
「……そうかい。じゃあ、話させてもらおうかな。正直、一人じゃ受け止めきれなくてね」
そう言って日高はゆっくりと座布団を引き寄せ、その場に腰を下ろした。十畳ほどの食堂はしんと静まり返り、厨房からは女将が食器を洗う音だけが響いていた。
◆
「ここに来て、一週間くらいした日だったかな」
来たばかりのときはあまりに身体が重くて、動くことすらできなかった。けれど人間というものは、ずっと寝ていても身体が痛くなり、楽にはならない。苦痛から逃れるようにして、外へ出るようになった。
人目を避け、夕方から浜に出る。時折通る人が好奇の視線を向けてくるが、どうすることもできない。歩きながら波の音に集中すれば、ほんの少しだけ楽になれた。
「その日は夕方に起きられなくて、暗くなってから外に出たんだ」
街灯もほとんどない島である。早起きの島民たちは寝る準備に入り、次々と家の明かりが消えてゆく。
「意外と悪くないな、って思ったよ」
苦笑して、日高は続ける。
誰もいない――そのことに、思いがけず安堵している自分がいた。誰の視線も気にせず歩けることが、こんなに楽だとは思わなかった。
スマホのライトを頼りに夜道をたどる。足音が砂利を踏みしめ、夜気に溶けていく。やがて視界が開け、砂浜に出た。
海の濃い香りが夜風に乗り、胸の奥まで流れ込んでくる。ぎらついた太陽に灼かれていたときより、不思議と息は軽かった。海に近づきすぎないように気をつけながら、いつものように砂浜を歩いた。
気づけば、いつの間にか東の端まで来ていた。そそり立つ岩山が、自分の視界をふさいでいる。この島は東に行くほど高さを増し、岩壁となって海へと落ち込む。その下には岩礁が広がり、干潮が近い今の時刻は、無数の岩が海面から顔を出しているはずだった。
なぜか、そのとき目の前の岩を登ってみようと思った。
「夜中に? 危なくないですか」
朝葵が思わず言うと、日高はさらりと「構わなかったから」と返した。
「ちょっとだけ、違う景色が見てみたかったんだ」
胸の高さまである岩をよじ登り、下を覗き込む。海の浸食で岩壁は深くえぐれ、背の低い岩がいくつも波に洗われていた。岩壁の近くは潮だまりになっているのか、水面は揺れもせず、夜を閉じ込めたように真っ黒い。
そこがいやに気になって、もう少し近くに寄ろうと思ったが、隣の岩は手が届かないほど高く、あきらめるしかなかった。
結局、何にも変わらないんだな――そう思い、岩の上で座り込んだ。しんとした闇の中に、波が岩をなでる音が規則正しく響く。それを聞いているうちに、だんだんと頭がぼうっとしてきた。
はっと鼻を刺す匂いがし、目を覚ました。どうやら、岩の上で少し眠り込んでいたようだ。落ちなかった自分に感心しつつ、潮だまりに目をやった。
水位が、わずかに上がっている。
だから潮の匂いが濃くなったのか――そう思ったとき、下に見えていた黒い岩の一つがゆっくりと形を変えた。
――動いた?
次の瞬間、ぱしゃん、と小さな水音が聞こえた。穏やかな波音とは異質の、鋭く湿った音。岩の一部がうねり、水面を叩いた。同じ音がもう一度響き、つんと鼻を刺す生臭い匂いがさらに濃くなる。
――岩じゃ、ない。
何だ、あの影は。生き物か? それとも……まさか人間なのか?
確かめなければという思いに突き動かされ、震える手でライトを影のほうに向けた。
光に照らされた影は、ぴたりと動きを止める。
さすがに、心臓が跳ねるような感覚がした。
浮かび上がったのは、生気のない女の顔。思わずスマホを取り落としそうになったが、驚いたのはそれだけではなかった。
女の顔は、半年前に死んだ姉にそっくりだったのだ。
ここまでお読みいただいてありがとうございます。次のお話も、引き続き楽しんでいただければ幸いです。