1 日高悠一郞
暗い始まりですが、お付き合いいただければ幸いです。
吉良朝葵:大学三年生
久万桐人:大学四年生、朝葵と同じ学部・ゼミの先輩
望月叶:大学三年生、朝葵の親友、朝葵と同じ学部・ゼミ
佐々山暁人:大学四年生、朝葵たちと同じ大学の医学部、桐人の従兄
──生きていくのが、面倒だ。
この考えにとりつかれてから、仕事ができなくなった。朝になっても寝床から起きられず、せいぜい上司に欠勤の連絡を入れるのが精一杯になった。
コップ一杯の牛乳で腹がいっぱいになり、トイレに行くのすら、身体が重くて億劫になる。天井を見つめて一日過ごし、感情は動かないのに、なぜか涙だけは止まらなかった。
そんなことを一週間続けていたら、会社から医者に行くよう指示された。重い身体を引きずって精神科に行き、医者に言われるままに返事をしていたら、休職の診断書を渡された。
期間は一カ月。病名はうつ病。よくわからないまま、診断書を握りしめて嗚咽した。
だが、皺だらけの診断書を会社に送ってしまうと、不思議とあきらめに似た気持ちが湧いてきた。
――どうせ治らない。期待するだけ無駄だ。それなら、やりたいようにやろう。
気づけば身体が動いていた。キャリーケースに適当に着替えを詰め、ATMで金を下ろせるだけ下ろし、その日のうちに離島行きの船に乗っていた。
◆
沈みゆく夕陽は、波間を赤く染めながら姿を消そうとしている。薄暗い砂浜を歩いているのは、自分ひとりだけだ。
じゃり。
靴の隙間で砂がきしむ。人生に纏わりつく鬱陶しさとは、この砂のようなものだ。望んでもいないのに、勝手に入り込み、邪魔をする。人生は、そうしてだんだんと不快なものになっていく。
――ああ、もう、しんどいな。
こうしていても、何も解決などしない。
それはわかっているのだ。だが、鈍くなった頭では、ちっとも答えは出ない。
靴など脱ぎ捨てて、裸足で走っていけたらどんなに楽だろう。
しかし、その後はどうする? 砂だらけの足は? 放り出した靴は? 結局現実に戻って、靴を拾いに戻り、足を洗わないとならないのだ。
だから今、自分はただ砂浜をさまようしかできない。後先を、考えてしまうから。
砂は遠慮なく、靴の中を侵食していく。ならばいっそのこと、動けないほど靴を重くしてくれればいい。そして、じりじりと近づいてくる、この黒い海にさらわれてしまいたい。
それなのに、海は自分をからかうように近づいては去っていく。自分自身だって、足元に寄る波を無意識に避けているのだ。
──意気地無し。
砂も海も、自分で何とかしろと言う。歩き続けることも、歩みを止めることも、お前の自己責任なのだからと。
「日高さあん」
澄んだ明るい声がした。振り返ると、砂浜から少し上がった道の方から、女の子が笑顔で手を振っているのが見えた。
彼女の名前は吉良朝葵という。大学生で、自分と同じ民宿にグループで泊まっている。ショートカットで、可愛らしい小動物のような、くりくりとした目が印象的な子だ。
彼女の声は、ずぶずぶと地の底まで沈んでいくような、陰鬱な自分の妄想を途切れさせた。気がつけば、太陽はもう海に隠れようとしていた。
「女将さんが、『遅くなったけど、もうすぐ夕飯にしましょう』って」
「呼びに来てくれたの。悪かったね」
「いいえ、日高さん、たぶんここだろうと思ったんで」
彼女は屈託なく、あははと笑う。確かに、自分の居場所を見つけることは容易いだろう。
ここに来てからというもの、自分の日課は決まっている。夕方まで部屋にこもり、人気がなくなったころに浜辺に出て、ひたすら波打ち際を歩き続けているのだ。
この小さな島では、変わり者は目立つ。宿に居座り続け、珍妙な生活をしている自分のことは、島にいる者全員がよく知っていた。
「すぐ行くよ」
砂浜と道の境目で、靴の中の砂を捨てた。彼女は何も言わず、その動作が終わるまで待っていてくれた。靴を履き直すと、僕は彼女の隣に立った。
「じゃあ、行きましょうか」
彼女は微笑んで、歩きながら、今日はイカの刺身とタイの煮つけらしいですよ、と教えてくれた。実のところ、さほど食欲はない。腹が減る感覚は、まだ戻っていない。
「そうなんだ、楽しみだね」
説明する気力もないから、ぎこちない笑顔を作って答える。彼女も分かっているのか、曖昧な笑みを返した。聡いこの子は、黙って歩く自分にそれ以上話しかけることはしない。
「吉良」
民宿の中から、背の高い男が現れた。彼女の顔が、ぱっと明るくなる。彼の名前は久万桐人。彼女と同じグループの大学生で、一つ上の学年らしい。
「久万先輩、迎えに来てくださったんですか」
「僕が代わりに行こうかと思ったんだが、遅かったな。悪い。」
久万は僕の方を向き、笑顔を作ろうとしたのか、口の端を少しだけ動かした。
「日高さん、どうぞ。もう準備できているので。」
彼は表情が乏しく、淡々と話すので、一見無愛想に見える。しかし、自分が見たところでは、グループのリーダーとして色々と気を回しており、そんなに悪い印象はなかった。
何より、隣にいる彼女は、彼に好意を持っているようだった。本人が自覚しているかどうかは分からないが、彼に向ける視線は、信頼以上のものを感じさせた。
――君たちだけでも、うまくいくといいな。
自分には、もうこんな青春は訪れまい。若く親切なふたりの幸せを、心の中でそっと祈った。
久万に案内され、宿の玄関を抜けて畳敷きの食堂に入ると、彼の言った通り、テーブルにはすでに夕食が準備されていた。
食堂には、学生が二人座っていた。一人は佐々山暁人といって、久万の従兄らしい。久万とは違って愛想の塊のような男だ。顔立ちも整っていて、学校ではさぞかし人気があるのではないかと思われる。
もう一人は、望月叶という女子学生だ。少し気の強そうな顔立ちだが、きれいに整えられた内巻きのボブヘアーが、印象を少しばかりやわらかくしていた。
佐々山が顔を上げ、僕たちを認めると片手を挙げた。屈託ない笑顔である。
「吉良ちゃんたち、おかえりー。ありがとね」
「ただいまです。日高さんもいますよ」
後ろの自分に気づき、望月が腰を上げた。
「じゃあ、みんな揃ったから、私ごはんよそおうかな。日高さんは少なめでいいですか?」
「すまないね」
「叶、ありがと。私運ぶね。先輩と日高さんは座っててくださいね」
女子学生たちは僕たちに指示すると、女将のところに行っててきぱきと立ち働きはじめた。久万と佐々山は顔を見合わせ、決まり悪そうに座っている。「俺たちは茶でも入れるか」と、久万がポットに手を伸ばした。
民宿の女将は、この感じの良い学生たちをすっかり気に入っているようで、女子学生たちと楽し気に雑談しながら汁物をよそっていた。
特に有名なものもない島である。彼らが来る前は、自分しかこの宿には泊まっていなかった。前払いで料金は払っているものの、女将は変な客をどう扱っていいのか困っているようだった。こちらも悪いと思いつつも、説明するのが面倒だった。
学生たちがやってくると、この宿の雰囲気は変わった。特に、この吉良という女の子は、人と打ち解けるのがかなり早いようだ。昨日あったばかりの自分ですら、彼女にはつい心の内を話してしまいそうになる。
皆が席に着き、手を合わせて「いただきます」と言う。久万以外の学生たちは、にこにこと美味しそうに食べていた。
彼らの空気につられ、自分も出された食事を少しずつ、口に運ぶことができた。食べ終わった後は、いつもの通りちびちびとビールを飲んだ。
「このイカおいしーい。」
「お魚がやっぱり最高だね。叶に連れてきてもらってよかったあ」
「えへへ、感謝しなさい、感謝」
食堂は女の子たちの明るい会話で満ちていた。佐々山はときどき会話に加わり、久万はほとんど喋らないながらも、輪の中には入っているようだ。
自分の食事を終えると、僕は席を立った。盗み聞きをするつもりはなかったが、ふと、彼らの会話が耳に入った。
「この島ってね、人魚がいるんだって」
ここまでお読みいただいてありがとうございます。次のお話も、引き続き楽しんでいただければ幸いです。