地下組織、暗躍始める
その夜、アルフェン王国の地下深くに広がる古い下水道の一角で、秘密の集会が行われていた。
石造りの古いアーチ型天井の下、薄暗い空間に松明の炎が揺らめいている。その不安定な光に照らされて、黒いローブを身に纏った二十数人の人影が大きな円を描いて座っていた。
顔は皆、深いフードで隠されており、互いの正体を知る者は組織の幹部クラスのみ。しかし、彼らには確固たる共通の想いがあった。
現在の世界への深い不満と、根本的な変化への強烈な渇望。
「同志たちよ」
円の中央に立つ男が、重く響く声で口を開いた。彼の声は低く威厳に満ちており、長年にわたって組織を統率してきた指導者の風格を感じさせる。その男こそが、地下組織「ギアス教団」の最高指導者であり、300年間の平和に最も強い疑問を抱き続けてきた人物だった。
「我々が長年待ち望んできた時が、ついに到来した」
集まった教団員たちの間に、緊張と期待の入り混じった静寂が流れる。この日のために、彼らは何年もの準備を重ねてきた。
「300年間続いた『偽りの平和』に、我々の手で終止符を打つのだ」
指導者の言葉は熱を帯び、地下空間に反響していく。
「見よ、この世界の現状を。人々は戦うことを忘れ、困難に立ち向かうことを諦め、ただ惰性で日々を過ごしている。これが真の平和と言えるだろうか?」
教団員の一人が、小さく頷く。確かに、街を歩いていても人々の表情には活気がない。安全で快適だが、どこか生気を欠いた日常が続いている。
「人間は本来、困難に立ち向かい、試練を乗り越えることで成長する存在だ。戦争は確かに悲惨だが、同時に人間の可能性を最大限に引き出す触媒でもあった」
指導者は歩きながら語る。その足音が石の床に響き、教団員たちの心臓の鼓動と重なっていく。
「この300年間で、我々は何を得た? 確かに死傷者は減った。しかし、同時に失ったものも多い。技術革新のスピードは鈍化し、芸術や文学の発展も停滞している。何より、人々の心から『向上心』という最も重要な要素が失われつつある」
データに基づいた冷静な分析だった。ギアス教団は単なる狂信的な組織ではない。彼らなりの論理と根拠に基づいて行動している。
「戦争の時代には、一人の発明家の創造性が戦況を左右し、一人の芸術家の作品が人々の心を支えた。危機感こそが、人間の真の創造力を引き出すのだ」
教団員の中には、元軍人、元冒険者、学者、商人など、様々な背景を持つ者がいた。彼らは皆、現在の世界に何らかの物足りなさを感じていた人々だった。
「しかし、我々は無意味な破壊を望んでいるわけではない」指導者は手を上げて強調した。「我々の目的は『建設的な緊張』の創出だ」
「建設的な緊張?」若い教団員の一人が質問した。
「そうだ。全面戦争ではなく、人々が成長できる程度の困難と緊張感を世界に取り戻すことだ」
指導者は懐から一枚の地図を取り出し、床に広げた。エルトリス大陸の詳細な地図で、主要都市や軍事拠点が細かく記されている。
「そのために、我々はまず『触媒』を動かす必要がある」
指導者の指が地図上の一点を指した。大陸の中央に位置する巨大な要塞のような建物。魔王城だった。
「魔王アーク・ヴァルヘイムを目覚めさせる」
その言葉に、場の空気が一変した。教団員たちの間に、畏怖と興奮が入り混じった緊張が走る。
「魔王を? しかし、彼は我々人間の敵では…」
「それは古い考え方だ」指導者は微笑んだ。「魔王アークは確かにこの大陸最強の存在だが、同時に現在の状況に最も不満を抱いている人物でもあるはずだ」
指導者の分析は鋭かった。情報収集の結果、魔王アークが日々退屈そうにしていることは把握していた。
「考えてみろ。最強の力を持ちながら、それを発揮する機会が一度もない。魔王として君臨しながら、その存在意義を実感できない。彼もまた、現状に苛立ちを感じているはずだ」
確かに説得力がある推測だった。どんなに強い力を持っていても、それを使う場がなければ意味がない。アークの苦悩は、ある意味で理解しやすいものだった。
「我々の提案は単純だ。魔王アークと『協力』するのだ」
「協力?」
「そうだ。敵対するのではなく、共通の目的のために手を組む」
指導者は地図上に赤い線を引き始めた。魔王城と王国の主要都市を結ぶライン。
「魔王軍と王国軍の間で、『演出された衝突』を起こす。誰も死なない程度の、象徴的な戦闘だ」
「それで何が変わるのですか?」
「全てが変わる」指導者の目が光った。「300年ぶりの『魔王軍vs王国軍』の衝突。その報告が大陸全体に広まった時、人々の心に何が起こると思う?」
教団員たちは黙って考えた。
「緊張感が戻る」一人が答えた。
「危機感が芽生える」別の者が続けた。
「そして、それに対処するための創意工夫が始まる」指導者が結論づけた。「軍事技術の革新、外交戦略の見直し、民間防衛の強化。停滞していた全ての分野が、一気に活性化するのだ」
計画は理論的で、実現可能性も高いように思えた。
「しかし、本当に魔王が協力してくれるでしょうか?」
「その確率は高い」指導者は自信を示した。「我々は魔王アークの心理状態を詳細に分析してきた。彼は確実に変化を求めている」
実際、ギアス教団の情報収集能力は相当なものだった。魔王城の内部情報、四天王たちの動向、さらにはアークの日常的な行動パターンまで把握していた。
「ただし」指導者の表情が厳しくなった。「もし魔王が我々の提案を拒否した場合は、『第二段階』に移行する」
「第二段階とは?」
「魔王が自主的に動かないなら、動かざるを得ない状況を作り出す」
具体的な内容は明かされなかったが、教団員たちは背筋に寒気を感じた。第二段階は、おそらくもっと過激で危険な計画なのだろう。
「いずれにせよ、今夜が最初の重要なステップとなる」指導者は立ち上がった。「『第一接触』の時だ」
教団員たちも一斉に立ち上がる。
「我々の目的地は魔王城。そして、対話相手は最強の魔王アーク・ヴァルヘイムだ」
指導者は黒いフードを深くかぶった。
「300年間の停滞に終止符を打つため、我々は今夜、歴史を動かす」
二十数人の黒装束が、地下の闇から表の世界へと向かった。彼らの目的地は、エルトリス大陸の中心に聳える魔王城。そして、その城で退屈な日々を過ごしている最強の魔王。
運命の歯車が、ついに音を立てて回り始めた。
同じ時刻、魔王城では珍しく全員が起きていた。
アークは玉座の間で、巨大な窓から見える夜景を眺めながら物思いにふけっていた。今日の四天王会議で話し合った内容が、どうしても頭から離れない。
ゼレフが報告した組織的な世論操作。グリムが感じ取った街の雰囲気の変化。ビビの生徒たちが口にした戦争の噂。そして、自分自身の心の中で確実に変化している感情。
「俺は…本当は何を望んでいるんだ?」
この問いかけを、彼は今日だけで何十回繰り返しただろうか。
平和を守りたいのか、それとも変化を求めているのか。魔王として戦うべきなのか、それとも現状を維持すべきのか。理性では平和の価値を理解しているが、感情では刺激と変化を求めている自分がいる。
矛盾した感情の間で、アークは苦悩していた。
玉座の間の重厚な扉が、軽くノックされた。
「魔王様、失礼いたします」
セバスチャンが現れた。その表情は、いつもの冷静さに加えて、微かな緊張を含んでいた。
「どうした?」
「城の警備兵から緊急の報告が入りました」
「報告?」
久しぶりに聞く「緊急報告」という言葉だった。この3年間、魔王城で緊急事態など一度も発生していない。
「不審者の接近を確認したとのことです」
「不審者?」
アークは振り返った。これも久しぶりに聞く言葉だった。
「はい。複数の人影が、城の正門に向かって歩いてきているそうです」
「何人くらいだ?」
「約二十名。全員が黒い服装で、顔を隠しています」
「武装は?」
「表立った武器は確認できませんが、何らかの魔法的な装備を携帯している可能性があります」
アークは立ち上がった。ついに来たか、という思いと、どこか期待に似た感情が胸の奥で混ざり合った。
「四天王を呼んでくれ」
「はい、すぐに」
セバスチャンが去った後、アークは再び窓の外を見た。確かに、遠くに小さな光がゆっくりと城に向かって移動しているのが見える。松明の光のようだった。
数分後、四天王が謁見の間に集合した。皆、緊急召集の雰囲気を察して、いつもより真剣な表情を浮かべている。
「黒装束の集団が城に向かっている」アークが簡潔に報告した。「おそらく、ゼレフが察知していた組織の関係者だろう」
「ついに動きましたね」ゼレフが分析的に呟いた。「私の予測通りです。彼らの世論操作が一定の効果を上げたと判断し、次の段階に移行したのでしょう」
「どうする〜?」リュシアが興奮気味に言った。「久しぶりの戦闘? それとも侵入者排除?」
彼女の声には、明らかに期待が込められていた。毎日の料理配信も楽しいが、やはり元紅蓮の将としての血が騒ぐのだろう。
「いや、まだ戦闘と決まったわけではない」アークは慎重だった。「まずは相手の目的を確認しよう」
「魔王様」グリムが進言した。「300年間、このような事態は一度も発生していません。相手の意図は完全に不明ですが、最悪の事態を想定して対処すべきです」
「そうですね〜」ビビが腕を組んだ。「でも、もし戦うなら筋肉で解決できるかも〜?」
「ビビ、今回は筋肉では解決できない問題かもしれない」
アークは決断した。
「俺が直接会って、相手の要求を聞こう」
「危険です」グリムが即座に反対した。「相手の正体も目的も、そして戦力も不明です。魔王様が直接対応するリスクは大きすぎます」
「しかし、代理人を送るわけにもいかない」アークは反論した。「相手が本気で魔王との対話を望んでいるなら、俺が出るべきだ」
実際、アークの心の奥では、微かな期待があった。ついに現れた「何か」に対する期待。退屈な日常に変化をもたらしてくれるかもしれない存在への期待。そして、久しぶりに「魔王らしい」決断を下す機会への期待。
「四天王は城内で待機していてくれ。何かあったら、すぐに駆けつけるように」
「承知いたしました」
四天王たちは一斉に頭を下げたが、その表情には明らかな心配が浮かんでいた。特にグリムとゼレフは、この状況を楽観視していない。
「魔王様」ゼレフが最後に進言した。「相手は確実に何らかの準備をしてきています。油断は禁物です」
「分かっている」
アークは玉座の間を出て、城の正門に向かった。廊下を歩きながら、彼は自分の心境を整理しようとした。
緊張しているのか、期待しているのか、それとも両方なのか。
300年ぶりの「来客」との面会。それがどんな結果をもたらすのか、まだ誰にも分からなかった。
魔王城の正門前。
巨大な黒い鉄製の門の前に、二十数人の黒装束が整然と列を成して立っていた。彼らは武器を構えるでもなく、攻撃的な魔法を詠唱するでもなく、ただ静かに、しかし威厳を持って待っていた。
月明かりに照らされた彼らの姿は、まるで異世界からの使者のように神秘的で、同時にどこか不穏な雰囲気を纏っていた。
やがて、重厚な鉄の門がゆっくりと開かれた。軋む音が夜の静寂を破り、城内から一人の人影が現れた。
魔王アーク・ヴァルヘイム。
黒髪に赤い瞳を持つ青年。外見は二十代前半の人間と変わらないが、その存在感は圧倒的だった。彼が現れた瞬間、周囲の空気そのものが変化し、大気中の魔力濃度が急激に上昇する。
鳥たちが一斉に飛び立ち、虫の鳴き声が止まった。自然界の生物たちが、本能的に異常な力の存在を感じ取ったのだ。
これが、エルトリス大陸最強の魔王の真の姿だった。
「俺が魔王アークだ」
その声は平静で落ち着いていたが、底知れぬ力を秘めていた。言葉の一つ一つが、まるで重い鉄球のように黒装束の集団に届く。
「用件を聞こう」
短い言葉だったが、その中には圧倒的な威圧感と、同時に対話への意志が込められていた。
黒装束の集団の中から、一人の男が前に出た。他の者たちよりもやや背が高く、その立ち居振る舞いから指導者的な立場にあることが分かる。
「お初にお目にかかります、魔王様」
男は深く、丁寧に頭を下げた。その態度は敬意に満ちており、敵対的な雰囲気は全く感じられない。
「我々は『ギアス教団』と名乗る組織の者です」
「ギアス教団?」
アークは眉をひそめた。聞いたことのない名前だった。
「はい。現在の世界情勢に深い憂慮を抱く者たちの集まりです」
男の話し方は丁寧で知性を感じさせ、狂信的な組織の印象とは程遠かった。
「我々がこの夜、魔王様の元を訪れた目的は、決して敵対や破壊ではありません」
「では何だ?」
「魔王様との『対話』です」
「対話?」
アークは意外な展開に戸惑った。魔王城を襲撃しに来たのではないのか。それとも、何らかの要求を突きつけに来たのか。
「はい。我々は魔王様と敵対するつもりは全くありません。むしろ、可能であれば『協力』をお願いしたいのです」
「協力?」
この言葉は、アークにとって完全に予想外だった。
「魔王様、失礼ながら一つお尋ねします」男は一歩前に出た。「この300年間続いた平和について、魔王様はどのようにお考えでしょうか?」
突然の質問に、アークは少し考えた。これは彼が最近ずっと自問自答していることでもあった。
「…退屈だ」
正直な感想が、思わず口をついて出た。
「やはり」男は満足そうに頷いた。「我々も全く同じ想いです」
「同じ想い?」
「はい。魔王様、あなたは間違いなくこの大陸最強の力をお持ちです。しかし、その圧倒的な力を発揮する機会が全くない。それは非常にもったいないことだと思いませんか?」
男の言葉は、アークの心の奥深くに響いた。まさに彼が日々感じていることを、的確に言い当てられた気がした。
「力とは使われてこそ意味を持ちます。どんなに強大な力も、発揮されなければ存在しないのと同じです」
「…続けろ」
「人間は困難に立ち向かうことで成長します。魔王も同じはずです。真の戦いこそが、真の力を引き出すのではないでしょうか?」
確かにその通りだった。アークは転生以来、一度も全力で戦ったことがない。自分の真の実力がどの程度なのか、実は正確に把握できていなかった。
「この300年間で、魔王様は何を得られましたか?」男は続けた。「安全で快適な生活? 確かにそれも価値あるものです。しかし、魔王として、一人の存在として、それで満足できるでしょうか?」
アークは答えられなかった。満足していないからこそ、こうして夜な夜な城の屋上で空を見上げているのだ。
「我々も同じです」男の声に熱が込もった。「この300年間の平和は確かに多くの利益をもたらしました。死傷者は減り、生活は安定し、技術も発展しました。しかし、同時に失われたものも多いのです」
「失われたもの?」
「向上心です。創造性です。困難を乗り越えることで得られる達成感です」男は拳を握った。「人々は安全で快適な生活に慣れすぎて、挑戦することを忘れてしまいました」
アークは黙って聞いていた。
「戦争は確かに悲惨です。しかし、戦争の時代には一人の発明家の創造性が戦況を変え、一人の芸術家の作品が人々の心を支えました。危機感こそが人間の真の能力を引き出すのです」
論理的で、一定の説得力がある話だった。
「君たちは具体的に何を提案しているんだ?」
「世界に『適度な緊張』を取り戻すことです」
男は明確に答えた。
「全面戦争ではありません。誰かを滅ぼしたり、大量の犠牲者を出したりすることでもありません。しかし、完全な平和状態でもない。人々が成長できる程度の困難と緊張感を提供するのです」
「具体的には?」
「魔王軍と王国軍の間で、限定的な衝突を演出します」
男は懐から小さな地図を取り出した。
「例えば、国境付近での小規模な衝突。あるいは、魔王城周辺での威嚇行動。実際の被害は最小限に抑えながら、『魔王軍の活動再開』という情報を大陸全体に広めるのです」
「それで何が変わる?」
「全てが変わります」男の目が輝いた。「300年ぶりの『魔王vs勇者』の構図の復活。その報告が各国に届いた時、人々の心に何が起こるでしょうか?」
アークは考えた。
「緊張感が戻る」
「その通りです。そして緊張感は創造性を刺激します。軍事技術の革新、外交戦略の見直し、民間防衛の強化、経済活動の活性化。停滞していた全ての分野が、一気に動き始めるのです」
提案は意外に理論的で穏健だった。全面戦争ではなく、「演出された緊張」。
「なぜ君たちがそれを提案する?君たちに何の利益がある?」
「我々の利益は『世界全体の活性化』です」男は即答した。「停滞した社会では、個人の成長にも限界があります。変化と挑戦があってこそ、真の可能性が花開くのです」
アークは沈黙した。相手の提案を受け入れるべきかどうか、判断に迷った。
確かに魅力的な提案だった。久しぶりに「魔王らしい」ことができる。この退屈で虚無的な日常から脱却できるかもしれない。
しかし、同時に多くのリスクもある。本当に「限定的」な衝突で済むのか。エスカレートして全面戦争になる可能性はないのか。
「時間をもらえるか?」
「もちろんです」
男は穏やかに微笑んだ。
「我々は急いでおりません。この計画は何年もかけて練り上げたものです。魔王様には十分にご検討いただきたい」
「連絡はどうする?」
「我々の方から、再び連絡いたします」男は懐から小さな鈴を取り出した。「これを鳴らしていただければ、我々が参ります」
アークはその鈴を受け取った。小さく、軽く、どこか不思議な温かみがある。
「一つだけ確認したい」アークは鈴を握りながら言った。「もし俺が君たちの提案を断ったら?」
男の表情が一瞬、硬くなった。
「その時は…別の方法を検討することになります」
「別の方法?」
「魔王様が自主的に動かれないなら、動かざるを得ない状況を作り出すことも可能です」
その言葉には、微かな脅迫的なニュアンスが含まれていた。
「しかし、それは我々の本意ではありません」男は慌てて付け加えた。「可能な限り、平和的かつ協力的な解決を望んでいます」
「分かった」
アークは鈴をポケットに入れた。
「検討させてもらう」
「ありがとうございます」
男は深く頭を下げ、他の教団員たちも続いた。
「それでは、我々はこれで失礼いたします」
そう言うと、黒装束の集団はまるで影のように、静かに夜の闇に消えていった。まるで最初からそこにいなかったかのように、音もなく。
アークは一人、正門の前に立ち尽くしていた。
「協力…か」
魅力的な提案だった。しかし、本当にそれが正しい選択なのだろうか。
ポケットの中の鈴が、微かに温かい。
アークの心は、これまで以上に大きく揺れていた。
城に戻ったアークは、すぐに四天王を再度召集した。謁見の間に集まった四人は、皆アークの表情から何かが起こったことを察していた。
「どうでした?」リュシアが最初に尋ねた。その声には興味と心配が入り混じっている。
「思っていたのとは全く違った」
アークはギアス教団との会話を詳しく報告した。教団の思想、具体的な提案、そして彼らが求める「協力」の内容について。
四天王たちは、それぞれ異なる反応を示した。
「協力の提案、ですか」ゼレフが最初に口を開いた。その声は冷静で分析的だった。「興味深い戦略です。直接的な敵対ではなく、共通の利益を前面に出している」
「でも信用できるの〜?」リュシアが疑問を呈した。「急に現れて『協力しましょう』なんて、怪しすぎない〜?」
「確かに疑わしい点は多い」グリムが同意した。「300年間も地下に潜んでいた組織が、なぜ今になって行動を起こすのか。何らかの裏があると考えるのが自然です」
「でも〜」ビビが腕を組んで考えた。「もし本当に筋肉で解決できるなら、戦争しなくても済むかも〜?」
「ビビ、今回は筋肉では解決できない複雑な問題だ」アークは苦笑した。
「そうなの〜?」
アークは立ち上がり、窓辺に向かった。外の風景は相変わらず平和そのものだが、今夜の出来事で何かが確実に変わった気がする。
「正直に言う」アークは振り返った。「彼らの言っていることにも一理ある」
「一理?」グリムが眉をひそめた。
「この平和が確かに停滞を生んでいることは事実だ。俺たちも含めて、みんな退屈している」
「しかし魔王様」グリムが慎重に意見を述べた。「確かに現状には問題があります。しかし、戦争という手段が適切でしょうか? 多くの無実の人々が巻き込まれる可能性があります」
「彼らの提案は全面戦争じゃない」アークは反論した。「『演出された衝突』だ。実際の被害は最小限に抑えるという」
「それでも危険です」グリムは譲らなかった。「一度始まった衝突が、想定通りに制御できる保証はありません」
「グリムの言う通りです」ゼレフも同意した。「私の分析では、この種の『限定的衝突』が全面戦争に発展する確率は約40%です」
「40%?」リュシアが驚いた。「結構高いじゃない〜」
「はい。両軍とも300年間戦闘経験がありません。いざ衝突が始まれば、感情的になって制御を失う可能性は十分にあります」
ゼレフの分析は的確だった。平和に慣れた軍隊ほど、実際の戦闘では予測不可能な行動を取りやすい。
「でも」アークは窓の外を見つめながら呟いた。「このままでいいのか?」
その言葉には、深い苦悩が込められていた。
「魔王として転生して3年。一度も戦ったことがない。一度も真の力を発揮したことがない。これが俺の人生で良いのか?」
四天王たちは黙った。アークの苦悩を理解していたからだ。
「俺たちだって同じだろう?」アークは四人を見回した。「リュシア、君は毎日料理配信で火事を起こしている。本当にそれで満足か?」
「え〜、それは〜」リュシアは困った顔をした。「楽しいけど、時々昔の戦場が懐かしくなることもあるかも〜」
「グリム、君は農業に情熱を注いでいる。それは素晴らしいことだ。でも、騎士団長として戦っていた頃を思い出すことはないか?」
グリムは答えなかった。しかし、その沈黙が答えだった。
「ゼレフ、君は引きこもって世界平和論を語っている。でも、策略家として敵と知恵比べをしていた頃の方が、生き生きしていたんじゃないか?」
「…否定はできません」ゼレフが小さく答えた。
「ビビ、君は筋トレに夢中だ。それは君らしくて良い。でも、戦場で敵と力比べをしていた頃を忘れたわけじゃないだろう?」
「う〜ん」ビビは頭を掻いた。「確かに、昔はもっと強い相手と戦えたなぁ〜」
アークは再び玉座に座った。
「俺たちは皆、現在の生活に一定の満足は感じている。でも、同時に物足りなさも感じている。それが現実だ」
「しかし」グリムがもう一度進言した。「だからといって戦争を選択することが正しいとは限りません」
「戦争以外に選択肢はないのか?」アークは自分に問いかけるように言った。「平和と戦争の間に、第三の道はないのか?」
「第三の道?」
「そうだ。完全な平和でもなく、全面戦争でもない。何か別の形で、俺たちが充実感を得られる方法は」
四天王たちは考え込んだ。
「魔王様」リュシアが手を上げた。「例えば、お祭りとか競技大会とかじゃダメなの〜?」
「お祭り?」
「そう〜。魔王軍と王国軍で、戦争ごっこみたいな競技をするの〜。本当に戦うわけじゃなくて、スポーツみたいに〜」
「それは面白いアイデアですね」ゼレフが乗り気になった。「実際の戦闘技術を競いながら、誰も傷つかない」
「筋肉大会〜!」ビビが興奮した。「それなら私の得意分野だ〜!」
「しかし」グリムが冷静に指摘した。「果たしてそれで十分でしょうか?ギアス教団が求めているのは、もっと根本的な変化のような気がします」
確かにその通りだった。お祭りや競技大会では、社会全体の緊張感を高めることは難しい。
「難しい問題だな」アークは頭を抱えた。
その時、ゼレフが重要な指摘をした。
「魔王様、一つ気になることがあります」
「何だ?」
「ギアス教団は『もし協力を拒否したら別の方法を取る』と言ったそうですが、具体的にはどのような方法でしょうか?」
アークは思い出した。確かに、教団の指導者はそのような含みを持たせた発言をしていた。
「詳しくは言わなかった。ただ、『動かざるを得ない状況を作り出す』と」
「それは脅迫に近いですね」グリムの声が硬くなった。「もし魔王様が拒否した場合、彼らが何らかの強硬手段に出る可能性があります」
「例えばどのような?」
ゼレフが分析を始めた。
「可能性として考えられるのは、偽旗作戦です。魔王軍の仕業に見せかけて王国軍を攻撃し、両軍の衝突を強制的に引き起こす」
「あるいは」グリムが続けた。「魔王城や王国に対するテロ攻撃。それを相手側の仕業だと宣伝することで、報復の連鎖を生み出す」
「怖い〜」リュシアが震えた。「そんなことされたら、本当に戦争になっちゃう〜」
「そうです」ゼレフが頷いた。「つまり、我々は選択を迫られているのです。ギアス教団との協力か、彼らとの対立か」
「第三の選択肢として」グリムが提案した。「彼らを先制攻撃で無力化することも可能です」
「でも、それって結局戦争じゃない〜?」リュシアが困惑した。
「確かに」アークも同意した。「どの道を選んでも、平和は終わりそうだ」
謁見の間に重い沈黙が流れた。
「魔王様」最終的にゼレフが口を開いた。「この件について、王国側に情報を提供することも検討すべきではないでしょうか?」
「王国に?」
「はい。ギアス教団は王国にとっても脅威です。情報を共有することで、連携して対処できるかもしれません」
「でも王国軍って、私たちの敵じゃないの〜?」リュシアが疑問を呈した。
「形式上はそうですが」グリムが答えた。「実際には300年間、一度も交戦していません。共通の脅威に対しては協力する価値があるでしょう」
アークは考えた。確かに、ギアス教団は魔王軍と王国軍の両方にとって脅威だった。
「しかし、王国側が信頼してくれるだろうか?」
「それは分からない」ゼレフが正直に答えた。「しかし、試してみる価値はあります」
「う〜ん」ビビが腕を組んだ。「結局、みんなで筋トレして仲良くなるのが一番だと思うけどなぁ〜」
その時、玉座の間の扉が開かれた。セバスチャンが現れ、緊急を要する表情を浮かべている。
「魔王様、申し訳ございません。緊急の報告があります」
「どうした?」
「王国から使者が到着しました」
「使者?」
アークと四天王たちは顔を見合わせた。
「はい。アルフェン王国の近衛騎士団長、ランドール卿です」
「ランドール卿が? 今、この時間に?」
時刻は既に深夜を過ぎている。通常の外交であれば、こんな時間に使者を送ることはない。
「どうやら、緊急事態のようです」セバスチャンが説明した。「昨夜の件について、話があるとのことです」
昨夜の件というのは、おそらくギアス教団の魔王城への接触のことだろう。
「やはり王国側も察知していたか」ゼレフが呟いた。
「魔王様、どうされますか?」グリムが尋ねた。
アークは少し考えた。
先ほど、王国との連携について話し合ったばかりだった。そこに、まるでタイミングを合わせたかのように王国からの使者。
これは偶然なのか、それとも何かの意図があるのか。
「会おう」アークは決断した。「すぐにランドール卿を通してくれ」
「承知いたしました」
これで今夜は、ギアス教団に続いて王国の騎士団長との会談になる。
300年間何も起こらなかった魔王城で、一晩のうちに二つの重要な会談。
確実に、何かが動き始めていた。
「四天王も同席してくれ」アークが指示した。「この件は、俺一人の判断では決められない」
「承知いたしました」
数分後、謁見の間にランドール卿が通された。
五十代半ばの堂々とした体格の男性。白髪混じりの髪と口髭を蓄え、深い皺が刻まれた顔には、数多くの経験を積んだ武人の風格が漂っている。
しかし、今夜の彼の表情には、明らかな緊張と困惑があった。
「魔王様、夜分遅くに失礼いたします」
ランドール卿は正式な敬礼をした。敵対関係にありながらも、騎士としての礼儀は忘れない。
「構わない。緊急事態のようだが、何があった?」
「昨夜、魔王城に不審な集団が接触したという報告を受けました」
やはりそのことだった。
「王国としては、この件について詳細を把握したく、使者として参りました」
「なぜ王国が?」
「我々も同様の集団から接触を受けているからです」
この言葉に、アークと四天王たちは驚いた。
「王国にも?」
「はい。『ギアス教団』と名乗る組織から、『協力』の申し出を受けています」
ギアス教団は、魔王軍と王国軍の両方に接触していたのだ。
「彼らは王国に何を提案した?」
「魔王軍との『限定的な衝突』を演出し、大陸全体に緊張感を取り戻すという内容でした」
全く同じ提案だった。
「我々は当然、この提案を拒否しました」ランドール卿が続けた。「しかし、彼らは『必要とあらば、強制的に衝突を引き起こす』とも言っていました」
アークは背筋に寒気を感じた。ギアス教団は、魔王軍と王国軍の両方を同じように操ろうとしていたのだ。
「つまり」ランドール卿が結論づけた。「我々は共通の脅威に直面しているということです」
アークは立ち上がった。
「ランドール卿、率直に聞く。王国は魔王軍との一時的な協力を検討できるか?」
「それが今夜、私がここに来た理由です」
ランドール卿も立ち上がった。
「エルンスト三世陛下の親書をお預かりしています」
ランドール卿は懐から封印された書状を取り出した。
「300年ぶりの、魔王と国王の直接的な外交文書です」
アークは書状を受け取った。重みがある。物理的な重みだけでなく、歴史的な重みが。
封を切り、内容を読む。
そこには、エルンスト三世の率直な提案が記されていた。
『ギアス教団という共通の脅威に対し、一時的な休戦と情報共有を提案する』
『300年間の平和を守るため、前例のない協力を求める』
『この協力は、両軍の敵対関係を終了させるものではなく、あくまで一時的な措置である』
『詳細については、代表者間での直接交渉を希望する』
アークは書状を四天王たちに回し読みさせた。
「どう思う?」
「妥当な提案です」ゼレフが最初に答えた。「ギアス教団の脅威は確実に存在し、我々だけでは対処に限界があります」
「でも信用できるかなぁ〜?」リュシアが心配した。「300年間敵同士だったのに〜」
「信用は問題ではありません」グリムが実用的な観点を示した。「重要なのは、利害の一致です。両軍ともギアス教団の被害者になる可能性があります」
「筋肉で考えても〜」ビビが珍しく真剣に言った。「みんなで協力した方が、強い敵に勝てるよね〜」
アークは決断した。
「ランドール卿、魔王軍はこの提案を受け入れる」
「ありがとうございます」
ランドール卿は安堵の表情を浮かべた。
「では、明日の夜、詳細な会談を行いましょう」アークが提案した。「場所は中立地帯で」
「承知いたしました。王女シエル殿下も同席される予定です」
「王女が?」
「はい。シエル殿下は元勇者候補であり、この件の担当者として任命されています」
勇者候補の王女。アークは興味を持った。ついに、転生小説でよく登場する「勇者」との出会いが実現するのか。
「分かった。こちらも四天王全員が参加する」
「では、明日の夜、月が最も高く上がる時刻に、魔王城と王国の中間地点にある『調停の丘』でお会いしましょう」
調停の丘。300年前の大調停が行われた歴史的な場所だった。
「約束する」
ランドール卿は深く頭を下げ、謁見の間を去っていった。
残されたアークと四天王たちは、しばらく沈黙していた。
「まさか王国と協力することになるとは」グリムが呟いた。
「歴史的な出来事ですね」ゼレフが分析的に言った。「300年ぶりの魔王と王国の協力関係」
「でも楽しそう〜」リュシアが明るく言った。「新しい人たちと会えるし〜」
「王女様ってどんな人なんだろう〜?」ビビが興味津々だった。「強い筋肉してるのかなぁ〜?」
アークは窓の外を見た。東の空が微かに明るくなり始めている。もうすぐ夜明けだった。
一夜で全てが変わった。
ギアス教団の登場、王国との協力関係、そして明日の歴史的な会談。
「いよいよ始まるな」アークは小さく呟いた。
「何がですか?」リュシアが尋ねた。
「分からない」アークは正直に答えた。「でも、確実に何かが始まる」
300年間の平和が、ついに終わりを告げようとしていた。
しかし、それが戦争の始まりなのか、新しい平和の始まりなのか、それとも全く別の何かの始まりなのか。
まだ誰にも分からなかった。
ただ一つ確実なのは、退屈な日常が終わったということだった。
そして、魔王アーク・ヴァルヘイムの真の物語が、今まさに始まろうとしているということだった。
明日の夜、調停の丘で行われる会談。
そこでアークは初めて、元勇者候補の王女シエル・アリステアと対面することになる。
300年ぶりの魔王と勇者の出会い。
それは、この世界の運命を大きく左右する歴史的瞬間になるかもしれない。
【第4話 完】