元勇者候補、書類仕事に埋もれる
アルフェン王国の王宮では、今日も山のような書類が王女シエル=アリステアの執務机を埋め尽くしていた。
「税収報告書、道路整備計画、農業政策の見直し案、教育制度改革提案…」
シエルは一つ一つの書類に目を通しながら、承認印を押していく。彼女の手際は素早く、的確で、まさに優秀な行政官そのものだった。
だが、その表情には明らかな退屈そうな色が浮かんでいる。
シエル=アリステアは、アルフェン王国の第一王女にして、かつては「魔王討伐の運命を背負う勇者候補」と呼ばれていた。金色の髪と碧い瞳を持つ美しい女性で、文武両道に秀でた完璧な王女として国民からの信頼も厚い。
だが今の彼女の仕事は、魔王討伐とは程遠い地味な政務処理だった。
「王女様、次はこちらの案件です」
執事のアルバートが新たな書類を持ってやってきた。彼は王室に長年仕える老練な執事で、シエルが幼い頃から彼女の教育に携わってきた。
「商工会からの税制優遇措置の申請書と、港湾施設の拡張に関する予算申請書、それから…」
「分かりました」
シエルは溜息を隠しながら、書類を受け取った。どれも重要な案件だが、どうしても心が躍らない。
窓の外を見ると、城下町では平和な日常が繰り広げられている。商人たちが活気よく商売し、子供たちが楽しそうに遊び回り、老人たちがのんびりとベンチで談笑している。
確かに美しく、平和で、理想的な光景だった。
だが、シエルにとってはそれが物足りなさの象徴でもあった。
「アルバート」
「はい、王女様」
「私は…本当にこれでいいのでしょうか?」
アルバートは書類を置くと、シエルの方を振り返った。彼女のこの種の質問を聞くのは、これが初めてではなかった。
「何をお悩みですか?」
「私は元勇者候補だったのですよ? 魔王を倒し、世界を救う運命を背負っていたはず。なのに今は…」
シエルは手にした書類を見下ろす。
「税務処理と予算審査ばかり」
「しかし王女様、政務も立派なお仕事です。国民の生活を支える重要な—」
「分かっています」シエルは手を振った。「理屈では分かっているんです。でも…」
彼女は立ち上がり、窓辺に向かった。
「時々思うんです。もし魔王討伐の使命が本当にあったなら、私はどんな人生を送っていたのだろう、と」
実際、シエルが「勇者候補」として選ばれたのは十歳の時だった。古い予言書に記された条件に合致する王族として、神殿の神官たちから「魔王を倒す運命の子」として祝福を受けた。
それから十年間、彼女は勇者として必要な教育を受けてきた。剣術、魔法、戦術、そして何より「正義の心」を育むための厳格な訓練。
だが、いくら待っても魔王討伐の機会は訪れなかった。
魔王アーク・ヴァルヘイムが転生してきてからも、彼は一度として人間の領域を侵犯したことがない。それどころか、最近では魔王軍の兵士たちが観光案内や社会奉仕活動に参加している始末だった。
「王女様は確かに勇者候補でいらっしゃいました」アルバートは慎重に言葉を選んだ。「しかし、それは戦争があった時代の話です。今の平和な時代には—」
「平和な時代には、勇者は必要ない」シエルは苦笑した。「それは分かっています。でも…」
彼女の心の奥には、どうしても消えない想いがあった。
本当は戦いたかった。
魔王と対峙し、剣を交え、正義のために戦う。そんな運命に憧れていた自分がいた。危険で困難な道のりかもしれないが、少なくとも自分の存在意義を実感できる生き方だった。
「最近、魔王について調べているそうですね」
アルバートの言葉に、シエルは振り返った。
「…隠し事はできませんね」
「お隠しになるつもりもないでしょう? 図書館の司書から報告を受けました。魔王に関する文献を頻繁に閲覧されているとか」
シエルは苦笑した。確かに最近、図書館で魔王について調べることが多くなっていた。
「学術的興味ですよ」
「本当に?」
アルバートの鋭い視線に、シエルは観念した。
「…半分は本当です。魔王アークについて知りたいんです。どんな人物なのか、どんな考えを持っているのか、そして…」
「そして?」
「なぜ戦わないのか」
それが、シエルにとって最大の疑問だった。
魔王軍は確実に最強の軍事力を持っている。そして魔王アーク自身も、史上最強クラスの力を有していると言われている。その気になれば、この大陸の全てを支配することは可能だろう。
なのに、なぜ彼は行動を起こさないのか。
「もしかすると」シエルは窓の外を見つめながら呟いた。「彼も私と同じ気持ちなのかもしれません」
「同じ気持ち?」
「力があるのに、使う場所がない。運命があったはずなのに、それを果たせない」
シエルの推測は、驚くほど的確だった。だが、彼女自身はそれに気づいていない。
その時、執務室の扉がノックされた。
「失礼いたします」
現れたのは、王国近衛騎士団の団長ランドール卿だった。五十代半ばの堂々とした体格の男性で、長年王室を守り続けてきた忠実な騎士だ。白髪混じりの髪と口髭を蓄え、深い皺が刻まれた顔には、数多くの経験を積んだ武人の風格が漂っている。
「ランドール卿、お疲れ様です」
「王女様も、お疲れ様でございます」
ランドールは一礼すると、いつもとは少し違う表情を見せた。何か言いたげな、だが躊躇しているような表情だった。
「何かありましたか?」
「実は…少々気になることがございまして」
ランドールは居住まいを正した。
「昨夜、街で奇妙な動きを察知いたしました」
「奇妙な動き?」
「はい。詳細はまだ不明ですが、普段見かけない人物たちが、何やら密会を行っているような様子でした」
シエルとアルバートは顔を見合わせた。
「どのような人物たちですか?」
「服装から判断するに、商人や職人ではありません。もっと…組織的な何かを感じました」
ランドールは長年の騎士の経験から、街の異変を敏感に察知する能力を持っていた。平和な時代が続いているとはいえ、職業的な本能は衰えていない。
「地下組織…でしょうか」
シエルが呟くと、ランドールは頷いた。
「可能性はあります。この300年間、表立った反政府組織は存在しませんでした。しかし、完全に根絶されたわけではないかもしれません」
「なぜ今になって?」
「それが分からないのです」ランドールは困った表情を見せた。「久しぶりに騎士としての勘が働いているのですが…理由が思い当たりません」
実際、ランドールにとって最近の日常は、騎士として退屈極まりないものだった。
王室の警備といっても、実質的な脅威は存在しない。彼の主な仕事は、観光客との記念撮影や、式典での儀礼的な警備だった。
昨日も、街を訪れた観光客から「本物の騎士さんと写真を撮らせて」と頼まれ、剣を持ったポーズで写真に収まった。観光客は喜んでくれたが、ランドール自身は複雑な気持ちだった。
この剣は、何のために鍛え上げられたのだろう。
この技術は、何のために磨かれたのだろう。
彼もまた、シエルと同じような虚無感を抱えていた。
「調査を続けてください」シエルは決断した。「何か分かったら、すぐに報告を」
「承知いたしました」
ランドールが去った後、シエルは再び窓辺に立った。
「地下組織…」
もしかすると、久しぶりに何かが動き始めるのかもしれない。そう思うと、シエルの心は微かに躍った。
だが、その気持ちを自分でも持て余していた。平和が脅かされることを喜ぶなど、王女として、そして人として正しいことではない。
でも、どうしても心の奥で小さな期待が芽生えている自分がいた。
「私は…どうかしているのでしょうか」
アルバートは何も答えなかった。だが、その表情には理解と同情が浮かんでいた。
優秀で完璧な王女として生きてきたシエルが、初めて見せる人間らしい葛藤だった。
その頃、王国の別の場所では、もう一人の「元勇者」が全く違う一日を送っていた。
アルフェン王国の冒険者ギルド──今は「市民サービスセンター」という名前に変更されている──の中で、ミラ・セイランは子供たちを相手に魔法の授業を行っていた。
「はい、みんな〜。今日は初級魔法の『光球術』を練習しましょう」
ミラは手のひらに小さな光の球を浮かべて見せた。30代前半の女性で、腰まで届く長い黒髪と、どこか憂いを帯びた深い瞳が印象的だった。
かつて彼女は「Sランク冒険者」として名を馳せていた。魔法剣士として数々の困難なクエストをこなし、「最強の魔法剣士」と呼ばれた時期もあった。
だが今は、子供向けの「魔法体験教室」の講師として働いている。
「ミラ先生〜、うまくできません〜」
7歳くらいの女の子が、手のひらで魔力を練っているが、光がちらちらと点滅するだけで安定しない。
「大丈夫よ、マリちゃん。最初はみんなそうなの」
ミラは優しく微笑みながら、女の子の手を取った。
「魔法は力じゃなくて、イメージが大切なの。暗い夜道を照らす暖かい光をイメージして…」
ミラが手を添えると、女の子の手のひらに安定した光球が現れた。
「わあ! できた〜!」
「すごいじゃない。才能があるわよ」
子供たちの喜ぶ姿を見ると、ミラも自然と笑顔になった。この仕事は確かにやりがいがある。未来を担う子供たちに魔法の基礎を教え、彼らの可能性を引き出すことは意義深い仕事だった。
だが、同時に物足りなさも感じていた。
「先生、本当の冒険ってどんなものなんですか?」
突然、10歳くらいの男の子がそんな質問をしてきた。
「本当の冒険?」
ミラは少し考えた。本当の冒険…昔は確かにあった。命がけの戦い、未知の領域への探索、強大な魔物との死闘。
「昔はね…」ミラは遠い目をした。「もっとスリリングで、危険で、でも同時にとても充実していたの」
「どんな風に?」
子供たちが興味深そうに身を乗り出す。
「魔物の森を探索したり、古い遺跡を調査したり、時には悪い魔法使いと戦ったり…」
「すごーい! 僕も冒険者になりたい!」
「でも今は冒険者っていないんでしょ?」
子供たちの素直な質問に、ミラは言葉に詰まった。
確かに、今の時代に「冒険者」という職業は存在しない。ギルドは市民サービスセンターになり、かつてのクエストは「市民からの依頼」として、迷子の猫探しや引っ越しの手伝いなどに変わっていた。
「そうね…今は平和だから、昔みたいな冒険は必要ないのよ」
「つまんない〜」
子供の一人がそう言うと、他の子供たちも同調した。
「僕たちも魔物と戦ってみたい!」
「ダンジョンを探検したい!」
「宝物を見つけたい!」
子供たちの純粋な憧れを聞いていると、ミラは胸が締め付けられる思いがした。
彼らが憧れているのは、かつての自分の日常だった。命をかけた戦いに身を投じ、未知なるものに挑戦し、自分の限界を試す日々。
危険で困難だったが、確実に「生きている」実感があった。
「でも、平和な方がいいのよ」ミラは自分に言い聞かせるように言った。「危険な冒険なんて、本当は無い方が…」
その時、教室の扉が開かれた。
「失礼します」
現れたのは、ギルドマスターのバルドだった。50代の初老の男性で、かつてはAランク冒険者として活動していた。今は市民サービスセンターの所長として働いている。
「バルドさん、お疲れ様です」
「ミラ、授業の途中で悪いが、少し相談がある」
バルドの表情は普段とは違い、どこか緊張していた。
「子供たち、今日の授業はここまでにしましょう。宿題は光球術の練習よ」
「え〜、もっとやりたい〜」
「明日また続きをやりましょうね」
子供たちを見送った後、ミラはバルドと二人きりになった。
「何か問題でも?」
「実は…奇妙な依頼が来ているんだ」
バルドは一枚の書類を取り出した。
「街で不審な集団の目撃情報があって、調査を依頼されたんだが…」
「不審な集団?」
「詳細は不明だが、どうも組織的な動きをしているらしい。ランドール卿からの依頼だ」
ミラは書類に目を通した。確かに、普通の「迷子の猫探し」とは違う種類の依頼だった。
「久しぶりに…本格的な調査案件ですね」
「ああ。正直、こういう依頼は何年ぶりかだ」
バルドも複雑な表情をしていた。平和な時代には、こうした「謎めいた案件」はほとんど発生しない。
「どうする? 受けるか?」
ミラは少し考えた。
この依頼を受ければ、久しぶりに「本当の調査」ができる。推理し、探索し、真実を突き止める。まさに昔の冒険者らしい仕事だった。
でも、それは同時に平和が脅かされているということでもある。
「…受けましょう」
結局、ミラは依頼を受けることにした。
理由は建前上「市民の安全のため」だったが、本音を言えば、久しぶりに「本気で考える仕事」ができることへの期待があった。
「分かった。気をつけて調査してくれ」
「はい」
依頼書を受け取りながら、ミラは自分の心の変化に気づいていた。
何か大きなことが起こりそうな予感。そして、それに対する微かな期待。
平和を愛する気持ちと、変化を求める気持ちが複雑に絡み合っていた。
「…もし世界がまた動き出したら、その時は…」
ミラは小さく呟いた。
「もう一度、私に剣を握らせてくれる?」
誰に向けた言葉かは分からない。運命に対してか、世界に対してか、それとも自分自身に対してか。
だが、確実に言えることは、彼女の中で何かが変わり始めているということだった。
同じ頃、アルフェン王国の大聖堂では、静寂の中で一人の女性が深い祈りを捧げていた。
アルマ=フレイ──王国の神官長にして、地球の神「イデア」の代理人。
20代後半の美しい女性で、腰まで届く銀髪と澄んだ青い瞳を持っている。白い神官服に身を包み、常に穏やかな微笑みを浮かべている彼女は、多くの信者から慕われていた。
だが今夜の彼女は、いつもとは違っていた。
「イデア様…昨夜のあの光は、一体…」
アルマは祭壇の前で膝をつき、深く頭を下げていた。
昨夜、祈りを捧げていた時に体験した現象を思い出す。突然、眩いばかりの光に包まれ、頭の中に響いた声。
それは確実に「イデア」からのメッセージだった。
地球の神イデアは、この世界の異世界転生システムを司る存在だった。転生者たちを管理し、世界のバランスを保つ役割を担っている。
アルマは幼い頃からその存在を感じ取る能力があり、神官として彼の意志を人々に伝える役目を果たしてきた。
だが、昨夜のメッセージは今までとは全く違うものだった。
『世界が停滞している』
『変化が必要だ』
『準備をせよ』
断片的で、抽象的で、しかし確実に重要な意味を持つメッセージ。
「準備…何の準備でしょうか?」
アルマは再び祈りを始めた。いつもよりも深く、集中して、イデアとの交信を試みる。
その時だった。
再び光が聖堂内に満ちた。昨夜よりも強く、明瞭な光。そして、頭の中に響く声。
『アルマ』
「はい、イデア様」
『この世界は300年間停滞している』
「停滞…?」
『争いがなくなったことで、転生システムの効率が著しく低下している』
アルマは困惑した。イデアが言う「転生システム」とは、地球から死者の魂をこの世界に送り込み、新たな人生を与えるシステムのことだった。
その目的は、魂の成長と進化を促すこと。困難や試練を通じて、魂をより高次な存在へと導くことだった。
しかし、平和すぎる世界では試練が存在しない。結果として、転生者たちは成長の機会を失い、システム全体の目的が達成されなくなっていた。
『魔王と勇者の対立構造は、システムにとって重要な要素だった』
「でも、争いは多くの犠牲を…」
『犠牲と成長は表裏一体だ。完全な平和は、完全な停滞を意味する』
イデアの論理は冷徹だった。個人の幸福よりも、システム全体の効率を重視している。
『準備を始めなさい』
「何の準備を?」
『魔王討伐イベントの再起動だ』
アルマは息を呑んだ。
「再起動…ですか?」
『300年間封印していた争いのシステムを、再び稼働させる』
「しかし、それでは多くの人が…」
『それが必要なのだ。停滞よりも混乱の方が、システムにとって有益だ』
光が徐々に薄れていく。イデアの声も遠ざかっていく。
『72時間後に、正式な神託を下す。その時まで、心の準備をしておきなさい』
そして、光は完全に消えた。
アルマはしばらくその場に座り込んでいた。
イデアの意志は絶対だった。神官である彼女には、それに逆らう選択肢はない。
しかし、同時に人間としての良心も持っていた。300年間続いた平和を破ることの重大さを理解していた。
「多くの人が犠牲になる…」
でも、それがイデアの意志であり、転生システムの要求でもある。
アルマは立ち上がり、祭壇に向かって深く頭を下げた。
「イデア様のご意志に従います」
彼女の声は震えていた。決意と迷いが複雑に絡み合った、苦しい決断だった。
聖堂の外では、相変わらず平和な夜が続いている。街の人々は、自分たちの運命が大きく変わろうとしていることを知らない。
アルマは窓から夜空を見上げた。星々が静かに瞬いている。
「72時間後…」
それは、この世界にとって運命の分岐点となる。
300年間続いた平和の終焉。そして、新たな混乱の始まり。
アルマは深く息を吸い、心を落ち着けようとした。神官として、イデアの代理人として、やるべきことがある。
たとえそれが、多くの人の幸せを奪うことになったとしても。
その夜、エルンスト三世国王は執務室で一人、書類に目を通していた。
「娘の件が気になるな…」
最近のシエルの行動について、彼なりに心配していた。
エルンスト三世は温厚で理想主義的な国王として知られている。若い頃は勇者として活動していたが、討伐すべき対象がいなくなったため、平和的に王位に就いた。
平和を愛し、争いを嫌う彼にとって、現在の世界情勢は理想的なものだった。
しかし、娘のシエルが最近見せている変化には、父親として不安を感じていた。
「魔王への関心が強すぎる…」
シエルが図書館で魔王について調べていることは、エルンストも把握していた。学術的興味ならば問題ないが、それ以上のものを感じ取っていた。
「まさか、戦いを求めているのではないだろうな…」
エルンストは若い頃、自分自身も勇者として戦うことへの憧れを抱いていた。だからこそ、シエルの気持ちも理解できる部分があった。
しかし、父親として、そして国王として、娘が危険な道に進むことは阻止したかった。
「平和が一番なのだ」
彼は自分に言い聞かせるように呟いた。
確かに、平和な世界は素晴らしい。戦争の悲惨さを知っている彼にとって、現在の状況は奇跡のようなものだった。
でも、なぜだろう。時々、この平和に疑問を感じることがある。
あまりにも完璧すぎて、あまりにも静的すぎて、何かが欠けているような気がするのだ。
「いや、そんなことを考えてはいけない」
エルンストは頭を振り、執務に集中しようとした。
だが、その夜、彼は奇妙な夢を見た。
昔、勇者として活動していた頃の夢。仲間たちと共に冒険し、困難に立ち向かい、自分の力を試していた頃の夢。
危険で困難だったが、確実に「生きている」実感があった時代。
目が覚めると、彼は複雑な気持ちになっていた。
平和を愛する国王として、そんな夢を見ることは正しくない。
でも、人間として、その夢は懐かしく、どこか心地よかった。
「シエルの気持ちも…分からなくはない」
父親として、彼は娘の心境を理解し始めていた。
そして同時に、自分自身の中にも似たような想いがあることに気づいていた。
平和への感謝と、変化への憧れ。
その複雑な感情は、この世界の多くの人々が共有するものだった。
300年間の平和は、確実に人々の心に影響を与えていた。
そして今、その長い平和に小さな亀裂が生まれ始めていた。
まだ誰も気づいていない、微細な変化の兆し。
だが、確実に世界は動き始めようとしていた。
魔王城では、最強の魔王が虚無感に苛まれている。
王国では、元勇者候補が政務に埋もれながらも戦いへの憧れを抱いている。
冒険者ギルドでは、元最強の魔法剣士が子供たちに魔法を教えながら、過去の栄光を懐かしんでいる。
神殿では、神官が世界を変える神託に困惑している。
そして、街の影では謎の組織が密かに活動を始めている。
それぞれが異なる立場で、異なる想いを抱きながら、同じ空の下で生きている。
交わることのない平行線のような人生。
だが、運命はやがて彼らを一つの物語に収束させることになる。
まだ誰も知らない、大きな変化の前夜。
300年間続いた平和の最後の夜。
明日もまた、いつもと変わらない一日が始まると、誰もが思っていた。
しかし、世界の歯車は既に動き始めていた。
そして、その歯車を回しているのは、遠く地球からこの世界を見守る存在──転生管理システム「イデア」だった。
イデアにとって、この世界の平和は単なる実験の一段階に過ぎなかった。そして今、その実験は新たなフェーズに移行しようとしていた。
「効率が低下しています」
次元の狭間に存在するシステム空間で、イデアは冷静に状況を分析していた。
「転生者たちの成長率が停滞。これは好ましくない状況です」
イデアの本質は、魂の成長と進化を促進することだった。そのために、困難や試練、そして選択を転生者たちに与える必要があった。
しかし、300年間の平和により、その機能が十分に発揮されていない状況が続いていた。
「魔王アーク・ヴァルヘイムの活動停止率:98%」
「勇者候補シエル・アリステアの戦闘経験値:ゼロ」
「その他転生者たちの冒険経験:最低水準」
データは明確だった。このままでは転生システムの目的が達成されない。
「修正が必要です」
イデアは決断した。
「魔王討伐イベントを再起動します」
神官アルマへの神託は、その第一段階だった。72時間後には正式な世界システムの変更を実行する予定だった。
「予測される犠牲者数:許容範囲内」
「予測される成長促進効果:大幅向上」
「総合評価:実行推奨」
イデアにとって、個人の感情や平和への憧れは考慮すべき要素ではなかった。システム全体の効率と目的達成だけが重要だった。
「カウントダウンを開始します」
「魔王討伐イベント再起動まで:71時間23分12秒」
時は刻一刻と進んでいく。
誰も知らない間に、世界の運命が決定されていく。
そんな中、当事者たちは今夜も平和な眠りについていた。
魔王アークは城の寝室で、相変わらず虚無感を抱えながら眠りについた。明日もまた、退屈な一日が始まるのだろうと思いながら。
王女シエルは王宮のベッドで、魔王についての様々な憶測を巡らせながら眠りについた。いつか彼と対峙する日が来るのだろうかと考えながら。
ミラは自宅で、久しぶりの調査依頼について思いを馳せながら眠りについた。もしかすると、何か大きな変化の前兆なのかもしれないと期待しながら。
アルマは神殿の自室で、イデアの神託の重さに苦悩しながら眠りについた。72時間後に下される正式な神託が、世界にどんな影響を与えるのかを案じながら。
それぞれが異なる想いを抱き、異なる立場で、同じ夜を過ごしている。
まだ彼らは知らない。
自分たちの運命が、間もなく大きく交錯することになるということを。
そして、その交錯が世界全体の運命をも左右することになるということを。
でも、それを知るのは明日以降のこと。
今夜はまだ、300年間続いた平和の最後の夜。
静寂と安らぎに包まれた、穏やかな夜。
だが、確実に何かが動き始めている。
見えない歯車が、音もなく回り始めている。
そして、その歯車が完全に動き出した時、この世界は一変することになる。
魔王は再び魔王として。
勇者は再び勇者として。
世界は再び、混沌と秩序の狭間で揺れ動くことになる。
しかし、それが本当に良いことなのか、悪いことなのか。
それを判断するのは、まだ早すぎる。
ただ一つ確実に言えることは、変化の時が来たということ。
そして、その変化は誰にも止められないということ。
イデアの意志により、世界は動き出す。
72時間後に。
【第2話 完】