最強魔王、暇すぎて死にそう
転生して三年になる。
綾瀬真斗今はアーク・ヴァルヘイムという名前で、この異世界エルトリス大陸の魔王として君臨している。最強の魔王として、だ。
だが、その「最強」が今、俺を苦しめている。
なぜなら戦う相手がいないからだ。
この世界、エルトリス大陸では300年前に「大調停」という歴史的な平和協定が結ばれ、それ以来戦争が完全に根絶されている。人間と魔族の争いも、国同士の小競り合いも、すべてが話し合いで解決される世界になってしまった。
おかげで、魔王である俺の存在意義が完全に失われている。
前世で読んだ異世界転生小説なら、今頃勇者が現れて俺に挑戦してくるはずだった。あるいは俺が世界征服に乗り出して、各国の軍隊と死闘を繰り広げているはずだった。
だが現実は違う。勇者は現れず、世界征服する理由も見つからず、俺はただ魔王城で日々を無為に過ごしている。
最強の力を持ちながら、それを使う機会が一度もない。これほど虚しいことがあるだろうか。
転生直後は、正直言って期待していた。異世界転生の主人公らしく、壮大な冒険や戦いが待っているのだと思っていた。
しかし、現実は想像とはかけ離れていた。
この世界では、魔王と勇者の戦いは「昔話」の中の出来事でしかなかった。現代では、魔王は「平和の象徴」として扱われ、勇者は「もう必要のない職業」として忘れ去られていた。
なんという皮肉だろう。最強の魔王になったのに、その力を発揮する場所がない。
「魔王様、お目覚めですか」
重厚な扉がゆっくりと開かれ、燕尾服に身を包んだ老執事のセバスチャンが現れた。彼は魔王城に代々仕える執事の家系で、俺が転生してきた時から世話になっている。白髭を蓄えた初老の男性で、どんな時も冷静沈着、完璧な執事としての仕事をこなしてくれる頼もしい存在だ。
ただし、最近は「仕事がなさすぎて困っている」とこぼすことが多い。魔王に仕える執事として、戦争の準備や来客の応対、外交文書の整理などを想定していたのだろうが、実際にはほとんどやることがないのだ。
実際、セバスチャンの一日は俺の世話以外にすることがない。朝の身支度の手伝い、食事の準備、城の管理…それだけだ。本来なら戦争の作戦会議の準備や、各国との外交文書の管理、魔王軍の統率支援などで忙殺されているはずなのに。
「ああ、起きてる」
俺は寝台から身を起こし、窓の外を見やった。魔王城の窓から見える景色は、いつもと変わらず平和そのものだった。遠くに見える人間の国アルフェン王国の城壁からは、のんびりとした煙が立ち上っている。きっと朝食の準備でもしているのだろう。
青い空には白い雲がゆっくりと流れ、緑豊かな平原には花々が咲き乱れている。牧歌的で美しい風景だが、魔王城から見る景色としてはあまりにも平和すぎる。
魔王城と王国の距離は、徒歩なら半日程度。戦争状態なら最前線と言ってもいい距離だが、今は観光地として人気のスポットになっている。「魔王城を遠くから眺められる絶景ポイント」として、王国の観光パンフレットにも掲載されているらしい。
毎日、観光客がやってきて記念写真を撮っている。魔王城を背景にして、家族や恋人同士で楽しそうに写真に収まっている姿を見ると、なんとも複雑な気分になる。
なんとも平和な話だ。
「本日のご予定は…」セバスチャンが革張りの手帳を開いて確認する。その手帳は分厚く、本来なら魔王の重要な予定がびっしりと書き込まれているはずのものだった。だが、セバスチャンは空白のページをめくりながら言った。「…ございません」
「そうか」
予想通りの答えだった。というより、転生してから一度たりとも「予定」なるものがあったことがない。せいぜい月に一度の四天王会議くらいだが、それも最近は「特に議題がない」という理由で延期が続いている。
前回の四天王会議は三ヶ月前だった。俺が「何か報告事項は?」と聞くと、リュシアは「配信の調子がいいです」、グリムは「キャベツの収穫量が増えました」、ゼレフは「特にありません」、ビビは「新しい筋トレメニューを考えました」と答えて、それで終了だった。
会議時間は十五分。魔王軍の最高幹部会議が十五分で終わるなど、前世の会社でも聞いたことがない。
「魔王軍からの定期報告はどうだ?」
「はい」セバスチャンは別の書類を取り出した。「敵襲報告:ゼロ件。侵入者報告:ゼロ件。挑戦者報告:ゼロ件。その他特記事項:なし。以上です」
「…そうか」
これも予想通り。三年間、一度として敵が攻めてきたことがない。いや、正確に言えば、俺が魔王になってから一度も戦闘らしい戦闘をしたことがないのだ。
魔王城の周りには一応、魔王軍の兵士たちが配置されている。だが彼らがやっているのは警備ではなく、観光客の案内や迷子になった子供の保護、たまに野生動物が城の敷地に迷い込んだ時の誘導程度だ。
昨日も、魔王軍の兵士が迷子の子供を親元に送り届けているのを見た。子供は「魔王軍のお兄さん、ありがとう!」と言って手を振っていた。兵士も嬉しそうに手を振り返していた。
微笑ましい光景だが、これが魔王軍の現実だった。
「セバスチャン、魔王軍の兵士たちは今何をしている?」
「はい。第一部隊は城周辺の清掃活動、第二部隊は観光客向けの案内業務、第三部隊は…」セバスチャンは報告書を読み上げる。「地元の小学校で『職業体験学習』の講師を務めております」
「職業体験学習?」
「はい。『魔王軍の兵士さんのお仕事』というテーマで、子供たちに武器の手入れや基本的な警備について教えているそうです。大変好評だとか」
俺は頭を抱えた。魔王軍が子供たちの職業体験講師をしている。しかも好評。
これが魔王軍の現実だった。
「第四部隊は近隣の村の農作業の手伝い、第五部隊は街道の整備作業を…」
「もういい」
俺は手を振ってセバスチャンの報告を止めた。聞けば聞くほど、魔王軍が平和すぎる活動に従事していることが分かる。
セバスチャンが朝食の準備をしている間、俺は鏡の前に立った。映っているのは黒髪に赤い瞳を持つ、いかにも魔王らしい外見の青年だった。転生前の綾瀬真斗とは似ても似つかない容姿だが、もう慣れた。
前世の俺は、どこにでもいる平凡な大学生だった。特に秀でた才能もなく、かといって劣等生でもない、典型的な「その他大勢」の一人。将来への明確な目標もなく、なんとなく就職活動をして、なんとなく社会人になるんだろうなと思っていた。
大学では情報工学を専攻していたが、特に熱心に勉強していたわけでもない。サークル活動もそこそこ、アルバイトもそこそこ、恋愛もそこそこ。すべてが中途半端で、特別な経験もない平凡な学生生活だった。
それが交通事故で死んで、気がついたらこの世界で魔王として転生していた。
最初は戸惑ったが、すぐに状況を受け入れた。なぜなら、これは前世で何度も読んだ異世界転生小説の定番パターンだったからだ。平凡な主人公が異世界に転生して、チート能力を得て大活躍する──そういう物語の主人公になったのだと思った。
実際、この身体に宿った力は間違いなくチート級だった。問題は見た目ではない。この身体に宿る圧倒的な力だ。
試しに軽く魔力を放出してみる。すると、部屋の空気がピリピリと震え、窓ガラスにひびが入りそうになる。慌てて魔力を抑えた。
この程度の魔力でも、おそらく一般的な魔法使いの全力魔法に匹敵するだろう。そして俺の本気の力は、この数百倍、数千倍に達する。
一度、城の外れの荒れ地で試してみたことがある。軽く魔法を放ったつもりだったが、直径百メートルの範囲が完全に消し飛んだ。大きなクレーターができて、しばらく草も生えなかった。
文字通り「最強」の力を手に入れていた。
だが、その力を使う機会が一度もないのだ。
「魔王様、朝食の準備が整いました」
「分かった」
俺は玉座の間へ向かった。巨大な玉座に腰を下ろし、運ばれてきた朝食を前にする。豪華な料理の数々だが、一人で食べるには量が多すぎる。
魔王城の料理は確かに美味しい。専属のシェフが腕を振るった料理は、前世で食べたどんな高級料理よりも美味だった。だが、毎日一人で食べていると、どんなに美味しい料理も味気なく感じてしまう。
前世では友人たちと学食で食べる安いカレーライスの方が、よほど美味しく感じたものだ。
玉座の間は広大で、天井は高く、壁には歴代の魔王の肖像画が飾られている。威圧感のある重厚な造りで、本来なら緊迫した軍議や重要な外交会談が行われる場所のはずだった。
しかし今は、俺が一人で朝食を食べるためだけに使われている。
「セバスチャン、四天王たちは何をしている?」
「はい。リュシア様は配信の準備をされております。グリム様は畑仕事、ゼレフ様は…相変わらず部屋に籠もっておられます。ビビ様は筋力トレーニングの指導に出かけられました」
俺は溜息をついた。四天王たちはそれぞれ自分なりに充実した日々を送っているようだ。それに比べて俺は…
「そういえば、最近四天王会議を開いていないな」
「はい。前回の会議が…確か三ヶ月前でしたか。その時も特に議題がなく、十五分で終了いたしましたが」
三ヶ月前の四天王会議を思い出す。俺が「何か報告事項は?」と聞くと、全員が「特にありません」と答えた。リュシアは配信の話、グリムは野菜の話、ゼレフは無言、ビビは筋肉の話をして、それで終わりだった。
魔王軍の最高幹部会議が十五分で終わる。これが今の俺たちの現実だった。
「転生して三年…一度も戦ってないな」
呟いた言葉が、玉座の間に虚しく響いた。
魔王城の東の塔では、今日もまた異常事態が発生していた。
「みなさ〜ん、おはようございま〜す! 今日も『リュシアの炎炎クッキング』の時間がやってきました〜」
配信ルームで、リュシア=ブラッドレイン──魔王軍四天王の一人、紅蓮の将──が今日も元気に配信を行っていた。
赤い髪をツインテールにまとめ、魔法使いローブの上にエプロンを着けた彼女は、まさに「料理系配信者」そのものの格好だった。配信ルームは最新の機材で揃えられており、複数のカメラアングル、高性能マイク、照明設備など、プロの配信者顔負けの設備が整っている。
魔王城の収入源は、実は四天王たちの副業からの収益が大きな割合を占めていた。リュシアの配信収入、グリムの農作物販売、ビビの筋トレ教室の受講料など。魔王らしからぬ収入源だが、平和な時代には必要な適応だった。
「今日は火炎系魔法で特製BBQを作ってみたいと思いま〜す。使う食材は〜…」
リュシアは手元の食材を紹介していく。新鮮な牛肉、豚肉、野菜類。どれもグリムが育てた自家製の食材だった。魔王城は意外にも自給自足体制が整っており、ほとんどの食材を自前で賄えている。
画面に表示される視聴者数は約5000人。料理系配信者としては、そこそこの人気を誇っていた。
『リュシア様おはようございます!』
『今日も火力高めでお願いします』
『昨日の配信見逃したので録画で見ました』
『リュシア様の配信を見てると料理したくなる』
コメント欄には温かいメッセージが流れている。リュシアの配信は、この世界でも人気のコンテンツになっていた。
「今日は特別な魔法陣を使ってみますね〜。これは私がオリジナルで開発した『炎熱調理陣』です〜」
リュシアは手慣れた様子で複雑な魔法陣を描き始める。彼女の魔法の知識と技術は本物で、元々は魔王軍で最も恐れられた破壊魔法の使い手だった。その技術を料理に応用した結果、通常では不可能な調理法を次々と開発していた。
しかし、戦闘魔法を料理に転用するのは想像以上に難しい。火力の調整、熱の分散、魔力の制御…すべてが戦闘時とは真逆の技術を要求される。
「はい、魔法陣完成〜。それでは点火します〜…って、あれ?」
魔法陣から立ち上がった炎を見て、リュシアは首を傾げた。
『火力強すぎwww』
『料理というより溶鉱炉』
『リュシア様の手加減って概念ないの?』
視聴者たちは既に事態を予想していた。リュシアの配信でトラブルが起こるのは、もはやお約束のようなものだったからだ。
「あれ〜? おかしいな〜」リュシアは困った顔をしている。「昔はこの程度の火加減で城一つ燃やしてたのに〜、お肉が全然焼けないよ〜?」
実際には、その「お肉」は既に炭化を通り越して灰になりかけていた。
『それ、もはや物質の状態変化の実験だろ』
『リュシア様、料理の才能皆無説』
『でも見てて飽きないから好き』
「え〜、みなさん意地悪〜」
リュシアは頬を膨らませながら、再び魔法陣を描く。今度は火力を抑えようとしたが
「えーっと、この魔法陣を少し修正して…こうかな?」
彼女が魔法陣に手を加えた瞬間だった。
ボォッ!
厨房全体が巨大な炎に包まれた。
「あ〜、やっちゃった〜」
『まーた火事かよ』
『消防署の人、出番です』
『リュシア様の配信は消防署公認の火災予防啓発番組』
その後、魔王城の消防設備(最新式で自動起動)が作動し、厨房は水浸しになった。リュシアは濡れたエプロンを絞りながら苦笑いを浮かべる。
「え〜、今日の配信はここまで〜。また明日、お会いしましょ〜♪」
『お疲れ様でした!』
『明日も楽しみにしてます』
『厨房の修理、頑張ってください』
配信を終えたリュシアは、しばらくその場に座り込んでいた。水に濡れた髪から雫が垂れている。
「はぁ…また失敗しちゃった」
独り言のように呟く。配信中は明るく振る舞っているが、実は彼女なりに真剣に料理に取り組んでいた。だが、長年戦闘魔法に特化してきた彼女にとって、「火力を抑える」ということが何より難しい技術だった。
ふと窓の外を見る。平和な風景が広がっている。
「戦争かぁ…」
その言葉が、小さく口から漏れた。
「あぁ、懐かしいなあ…昔は毎日、敵の城を燃やしたり、戦場を火の海にしたりしてた」
あの頃は、自分の力をフルに発揮できていた。敵も味方も、みんな彼女の破壊魔法を恐れ、敬っていた。戦場では「紅蓮の将」の名前を聞いただけで敵が逃げ出すこともあった。
あの頃は、確かに生きている実感があった。
「でも今はこっちの方が楽しいんだよねぇ」
そう言いながらも、その表情にはどこか物足りなそうな影があった。
配信を通じて多くの人とつながれるし、料理という新しい挑戦もできている。平和な今の生活も悪くない。
でも、時々思うのだ。本当にこのままでいいのだろうか、と。
リュシアは濡れた髪を拭きながら、厨房の片付けを始めた。明日もまた、配信がある。視聴者たちが待っている。
それが今の彼女にとっての「戦場」だった。
一方、魔王城の南に広がる農園では、この世のものとは思えない異様な光景が繰り広げられていた。
畑を耕しているのは、骨だけのスケルトンたち。種を蒔いているのは、腐った肉をまとったゾンビたち。水やりをしているのは、半透明で浮遊するゴーストたち。
普通なら悪夢のような光景だが、不思議とのどかな雰囲気が漂っている。それは、死霊たちが皆、丁寧で愛情のこもった農作業をしているからだった。
そして、その全てを指揮しているのが、黒い全身鎧に身を包んだアンデッドの騎士グリム=デザスターだった。
「今日は新しい死霊術で土壌改良をしてみます」
グリムもまた、配信を行っていた。ただし、リュシアとは違い、農業系のVチューバーとしてだった。彼の配信は『グリムの死霊農業チャンネル』という名前で、意外にも多くの視聴者を抱えていた。
視聴者数は約3000人。農業系という特殊なジャンルでありながら、この数字は驚異的だった。
『グリム様おはようございます』
『今日はどんな新技術を見せてくれるんですか?』
『グリム様の農業革命すげぇ』
『死霊術の新たな可能性を感じる』
グリムはスケルトンに指示を出しながら説明を続ける。彼の声は鎧を通して聞こえるため少しくぐもっているが、それがかえって特徴的で、視聴者たちには好評だった。
「死霊の魔力を土に注ぎ込むことで、微生物の活動が活性化され、土壌の栄養価が格段に向上します。これにより──」
彼の説明は常に理論的で、元騎士団長らしい軍事的な正確さがあった。
『理論派すぎる』
『元騎士団長だけあって説明が軍事的』
『グリム様の真面目さが農業に向いてる』
「従来の死霊術は戦闘や破壊を目的としたものでしたが、私は生命の循環という観点から新たなアプローチを試みています」
グリムは畑の一角に向かった。そこには、実験区画が設けられており、様々な作物が育てられていた。
「こちらの区画では、死霊術を使わない従来の農法で育てた野菜と、私の死霊農法で育てた野菜を比較しています」
カメラが二つの畑を映し出す。明らかに死霊農法の方の野菜が大きく、色艶も良い。
『差が歴然すぎる』
『これはすごい』
『農業革命だこれ』
「死霊農法の野菜は、通常の野菜と比べて栄養価が高く、味も格段に向上しています。また、病気や害虫にも強いという特徴があります」
グリムは収穫したばかりのトマトを手に取った。それは通常のトマトの二倍ほどの大きさで、宝石のように美しい赤色をしている。
「ん、キャベツの成長が予想以上です」
グリムは特に大きく育ったキャベツの前で立ち止まった。そのキャベツは通常の三倍はあろうかという巨大なサイズで、葉の一枚一枚が宝石のように美しく輝いていた。
「これは…素晴らしい」
アンデッドであるグリムの表情は鎧の向こうで見えないが、その声には明らかに感動が込められていた。
「魔王様にご報告せねば。今期のキャベツの収穫量が前年比300%向上しました」
『グリム様、もはや農業の方が本職だろ』
『魔王軍の食糧事情はグリム様が支えている』
配信を終えたグリムは、収穫したキャベツや他の野菜を手押し車に積み込んだ。ゾンビたちが手伝ってくれるが、グリム自身も丁寧に野菜を扱っている。
魔王城へ向かう道すがら、グリムは畑を振り返った。夕日に照らされた農園では、死霊たちが明日の準備をしている。
「かつては戦場で敵を倒すことが使命だった…」
グリムは独り言のように呟いた。
「だが今は、生命を育むことが私の使命だ」
彼にとって、この農園は新たな戦場だった。相手は害虫や病気、天候といった自然の脅威。そして彼の武器は、剣ではなく鍬であり、魔法ではなく愛情だった。
廊下ですれ違った俺に、彼は恭しく頭を下げる。
「魔王様。キャベツの育成には夜間の湿度管理が鍵なのです」
「…すごいな」
俺は何とも言えない表情でそう答えるしかなかった。
その頃、魔王城の最上階、北の塔の一室では、全く違う種類の「戦い」が繰り広げられていた。そこは完全に外界から遮断された空間だった。窓には分厚い遮光カーテンが引かれ、室内は無数のモニターとケーブルで埋め尽くされている。
その中央に座っているのが、ゼレフ=ノスフェラトゥ──魔王軍四天王の策略担当だった。
性別不明、種族不明。深いフードで顔を隠し、人との直接的な接触を極度に嫌う彼(?)は、三年間一度も部屋から出たことがない。
「戦争など非合理だ。今の世界こそ、最も最適な統治状況だろう」
ゼレフは複数のチャットルームを同時に管理しながら、世界平和論を展開していた。彼のハンドルネームは「ZeRo_EmotioN」。匿名掲示板では有名な論客として知られていた。
『でも戦いがないと刺激がなくね?』
『平和すぎて逆に不安になる』
「闘争本能? 原始的な感情に支配される愚かさの象徴だ」ゼレフは冷淡にタイピングする。「合理的思考があれば、争いなど必要ない」
彼の理論は常に論理的で、感情を排した合理主義に基づいている。多くの議論で相手を論破してきた実績があり、ネット上では「論破王」とも呼ばれていた。
『でも刺激がないと人生つまらなくない?』
『平和すぎると退化するって説もあるよ』
「刺激が欲しければ、知的好奇心を満たせばいい。学問、芸術、技術開発。平和な世界でしか実現できない刺激はいくらでもある」
ゼレフは反論しながらも、別のモニターで魔王城内の監視映像をチェックしていた。これは彼の趣味の一つで、城内の住人たちの行動パターンを分析することで、人間行動学の研究を続けていた。
アークが玉座で退屈そうにしている姿、リュシアが厨房を火事にしている様子、グリムが農作業をしている光景。そして城内の兵士たちが観光案内をしている映像まで、すべてが彼の分析対象だった。
「興味深い…魔王様の退屈指数が過去最高値を記録している」
ゼレフは独自の指標で各人の感情状態を数値化していた。アークの「退屈指数」「虚無感指数」「焦燥感指数」は、この三年間で着実に上昇していた。
『ゼロエモさん、最近の魔王軍の動向はどう思う?』
『魔王が平和すぎて暇してるって噂があるけど』
突然、魔王軍に関する質問が飛んできた。ゼレフは一瞬手を止める。
「…魔王軍は現在、最も平和的な組織として機能している。戦争よりもはるかに建設的な活動に従事している」
彼の答えに嘘はない。だが、同時に魔王アークの苦悩も理解していた。
三年間、誰よりも魔王城の状況を把握していた彼だからこそ、アークの苛立ちを数値として、データとして、そして感情として感じ取っていた。
『でも魔王って、戦うために存在するんじゃないの?』
『平和な魔王って矛盾してない?』
「存在意義とは、外部から与えられるものではなく、自分自身で定義するものだ。魔王だから戦わなければならないという固定観念こそ、非合理的だ」
理屈では正しい。ゼレフの論理に穴はない。
でも、それでも
「魔王様も…退屈そうだな」
小さく呟いた言葉は、マイクには拾われなかった。
モニターの向こうで、アークが城の屋上に向かう姿が映った。また例の「空を見ながら物思いにふける時間」の始まりだ。ゼレフはその行動パターンも把握していた。
「戦争よりは、今の方がマシだ」
そう自分に言い聞かせるように、ゼレフは再びキーボードを叩き続けた。
同じ時刻、魔王城の地下では、また別の意味で熱い時間が過ごされていた。
「はい! 腕立て伏せ、あと10回〜! 頑張って〜!」
訓練場では、ビビ・バンゴーラが筋トレ教室を開いていた。ゴリラの獣人である彼女は、その圧倒的な筋肉量と明るい性格で、多くの生徒たちから愛されている。
「ビビ先生、もう限界です〜」
「筋肉が悲鳴を上げてます〜」
「腕が上がりません〜」
生徒たちはヘトヘトになっているが、ビビは相変わらず元気いっぱいだった。
「なに言ってるの〜? まだ始まったばかりじゃない! 筋肉は裏切らないのよ〜!」
ビビは片手で1トンのダンベルを軽々と持ち上げながら、生徒たちを鼓舞する。その光景は、普通の人間には到底理解できないレベルの超常現象だった。
「筋肉は正直なの! 頑張った分だけ、ちゃんと応えてくれる! 人間関係とかお金とかと違って、筋肉は絶対に裏切らない!」
ビビの筋肉理論は、実は深い哲学に基づいている。単純そうに見える彼女だが、筋肉に関しては真の哲学者だった。
「それに、筋肉があれば大抵のことは解決できるのよ〜!」
『例えば?』という視線を向ける生徒たち。
「重い荷物? 筋肉で解決! 高いところの物? 筋肉で解決! 悪い人に絡まれた? 筋肉で解決! お腹が空いた? 筋肉で狩りをして解決!」
『最後のやつは違うような…』
「そもそも筋肉があれば、自信がつくの! 自信があれば、何でも乗り越えられる! つまり筋肉は人生の万能薬なのよ〜!」
ビビの筋肉論は極論だが、妙に説得力があった。実際、彼女の筋トレ教室に通っている生徒たちは、体力だけでなく精神力も向上している。
「はい、じゃあ次はスクワット100回〜!」
「ひぃぃぃ〜」
生徒たちの悲鳴が訓練場に響く。
「ビビ先生、魔王様に会わせてください!」
突然、生徒の一人がそんなことを言い出した。彼は街の商人で、魔王軍の筋トレ教室があると聞いて通い始めた一人だった。
「え〜、なんで〜?」
「だって、伝説の最強魔王ですよ! 一度でいいから会ってみたいです! きっとすごい筋肉してるんでしょうね〜」
「う〜ん…」ビビは困った顔をした。「魔王様は今、ちょっと忙しいから…」
実際には暇すぎて死にそうなのだが、それを言うわけにはいかない。
「魔王様の筋肉、どのくらいすごいんですか?」
「え〜っと…」
ビビは考え込んだ。確かにアークは最強の魔王だが、筋肉で強いわけではない。魔法の力で強いのだ。でも生徒たちにそれを説明するのは難しい。
「魔王様は…う〜ん、筋肉じゃなくて、別の力で強いのよ〜」
「別の力?」
「そう! 魔法とか、そういう力!」
生徒たちは少し残念そうな顔をした。
「でも筋肉の方が分かりやすくていいのに〜」
「そうよね〜」ビビも同感だった。「筋肉なら見た目で強さが分かるし、努力の結果も目に見えるし〜」
筋トレ教室が終わった後、ビビは一人で訓練場に残った。
「そういえば、最近魔王様とお話ししてないなぁ」
彼女は天井を見上げながら呟いた。天井の向こうには魔王アークがいる。
「魔王様も筋トレしたらいいのに〜。きっと気分転換になるのに〜」
ビビの脳内では、アークと一緒に筋トレをする妄想が繰り広げられていた。二人でダンベルを上げ下げして、汗を流して、筋肉について語り合う。
そんな光景を想像するだけで、彼女は嬉しくなった。
「なあ魔王様、そろそろ『筋肉で解決するイベント』来ねえかな〜?」
実際のところ、ビビは四天王の中で最も単純で、最も純粋だった。複雑な政治や戦略は分からないが、仲間への愛情は誰よりも深い。
「みんなで一緒に筋トレして、一緒に汗流して、一緒に筋肉について語る…そんな日が来ればいいのになぁ」
彼女の願いは単純だが、それだけに純粋だった。
ビビは片付けを終えると、重いダンベルを軽々と棚に戻した。明日もまた筋トレ教室がある。生徒たちが待っている。
そして、いつかアークも一緒に筋トレできる日が来ることを、彼女は心から願っていた。
夕暮れ時。俺は魔王城の最上階、屋上に立っていた。
エルトリス大陸の美しい夕景が眼下に広がっている。遠くには人間の国々、近くには魔物の森、そして平和に暮らす人々の営み。緑豊かな平原に点在する村々からは、夕食の準備を示す煙が立ち上っている。
全てが穏やかで、美しくて、平和だった。
そして、それが俺を激しく苛立たせていた。
「俺、何のために転生したんだ?」
風が頬を撫でていく。この三年間、何度となく自問してきた疑問だった。
異世界転生といえば、普通は魔王を倒すか、もしくは魔王として世界征服を目指すものだろう。少なくとも、前世で読んだ小説やアニメ、ゲームではそうだった。
主人公は困難に立ち向かい、強敵と戦い、仲間と絆を深め、最終的には世界を救うか支配するかの壮大な物語を紡ぐはずだった。
だが現実は違った。俺は確かに最強の魔王になったが、倒すべき勇者も現れなければ、征服すべき理由も見つからない。それどころか、この世界は300年間も平和が続いているという。
「最強の力を手に入れたのに…使う場所がない」
試しに手のひらに魔力を集中させてみる。黒い炎が踊り、その熱量だけで石造りの屋上に亀裂が走る。この力があれば、おそらく国の一つや二つは滅ぼせるだろう。山を吹き飛ばし、海を干上がらせ、大陸そのものを消滅させることだって可能かもしれない。
でも、それをする理由がない。
「強さを誇示する相手もいない…」
四天王たちを見ていると、みんなそれぞれに充実しているように見える。リュシアは配信を楽しんでいるし、グリムは農業に情熱を注いでいる。ゼレフは引きこもりながらも自分なりの世界平和論を語り、ビビは筋肉への愛を貫いている。
それに比べて俺は…
魔王としての役割も、個人としての目標も、何もない。ただ「最強」という肩書きだけを背負って、虚無の中を漂っている。
「みんな充実してるな…」
羨ましいとさえ思った。少なくとも彼らには、今やるべきことがある。俺だけが取り残されているような気分だった。
空が茜色に染まり、やがて紫へと変わっていく。一日がまた終わろうとしている。明日もまた、同じような一日が始まるのだろう。
変化のない日常。刺激のない平和。使われることのない力。
前世では、こんな平和な世界を望んでいたはずなのに。戦争も争いもない理想郷を夢見ていたはずなのに。
いざその中に身を置いてみると、これほど退屈で虚しいものはなかった。
「これほどの力があって、俺は…何もしないまま終わるのか?」
その時だった。
城下町の方角から、微かに光が立ち上るのが見えた。ほんの一瞬のことで、すぐに消えてしまったが、確かに何かがあった。淡い青白い光で、どこか神秘的な雰囲気を漂わせていた。
「今のは…?」
俺は目を凝らして光の方向を見つめた。だが、特に大きな変化は起こらず、街は相変わらず平和な夜を迎えようとしていた。
その光は、遠く離れた王国の神殿の方角から発せられたもののようだった。何かの魔法的な現象だろうか。それとも単なる見間違いだろうか。
俺は肩をすくめ、城の中へと戻った。きっと気のせいだろう。この世界で何かが起こるなんて、考えられない。
だが、もし俺が知っていたなら。
その光は、遠く離れた王国の神殿で、一人の神官が受けた神託の前兆だったということを。そして、300年間続いた平和が、ついに終わりを告げようとしていることを。
でも今の俺には、まだ知る由もなかった。
その夜、俺は久しぶりに夢を見た。
前世の記憶、地球で綾瀬真斗として生きていた頃の夢だった。平凡な学生生活、特に刺激もない日常、そして突然の交通事故…
夢の中で、俺は友人たちと学食でカレーライスを食べていた。安くて美味しくない学食のカレーだったが、みんなで食べると不思議と美味しく感じた。
「マサト、就職活動どうする?」
「う〜ん、まだ決めてないなぁ」
「俺はとりあえず安定した会社に入りたいよ」
「でも安定って何だろうな」
当時の俺たちは、将来について漠然とした不安を抱えていた。でも、それでも毎日が楽しかった。小さな刺激と変化があった。
友人との他愛もない会話、サークルでの活動、アルバイトでの小さなトラブル、恋愛の悩み…どれも取るに足らないことだったが、それが生きている実感を与えてくれていた。
当時の俺は、そんな平凡な日常に少し不満を感じていた。もっと刺激的で、ドラマチックな人生を送りたいと思っていた。
でも今となっては、あの平凡な日常の方が、よほど充実していたように思える。
目が覚めると、もう朝だった。
「また同じ一日が始まる…」
窓の外を見ると、いつもと変わらない平和な風景が広がっている。でも、なぜだろう。今日は何かが違うような気がした。
空気が微妙に変わったような、世界が少しだけ動き出したような、そんな予感があった。
昨夜見た光のことを思い出す。あれは一体何だったのだろうか。単なる見間違いだったのか、それとも…
その予感が当たっているかどうか、俺にはまだ分からなかった。
だが、確実に言えることが一つある。
この平和な世界で、最強の魔王として君臨する俺の物語は、まだ始まったばかりだということだ。
そして、この世界のどこかで王国では元勇者候補が政務に追われ、神殿では神官が謎の啓示に困惑し、地下では平和に疑問を抱く者たちが密かに動き回っている。
300年間続いた平和の歯車が、ついに軋み始めようとしていた。
変化の時が、すぐそこまで来ていた。
【第1話 完】