その日、月都市セレネグロットに二つのニュースが流れた。大きなニュースにかき消されて、地球宛ての射出物資が軌道を外れてしまった小さなニュースは人々の記憶からすぐに薄れてしまった。
一方の大きなニュース、月都市で初めての餓死者が出たというニュースは、退屈な月の地下生活を送る人々にとっては人口に膾炙する格好の材料となった。
月都市で餓死者が出るということは、およそ考えられないことであった。
月都市の住人を見てみよう。地下トンネルや居住区の拡張、気密性の確保および空気浄化システムの維持を行う技術者。都市の運営、資源の配分、住民の安全を管理し、住人の精神的および肉体的な健康を管理する管理者。月資源の採掘や宇宙観光に従事する企業労働者。天文学者、地質学者、生物学者、物理学者など多岐にわたる研究者。新天地を求めて移住してきた開拓者、あるいは冒険家、探検家。そして、わずかばかりの、娯楽を提供する芸能人。
少なくともここ月都市セレネグロットの住人は富裕層以上であり、定期的な健康チェックも義務付けられており、餓死者が出るということは、およそ考えられないことであった。
放送局のニュース番組では、アナウンサーが事件について伝えている。
「管理局は、自殺もしくは他殺の線で捜査を行っています」
多くの人々が、降って湧いたような娯楽に目を光らせるのであった。
☆
さて、軌道安定、姿勢安定。問題はないな。積荷の薄膜プリンターも正常動作しているようだ。
ぼくは一通りの計器のチェックを済ませると、一息ついた。いや、ともあれ、ぼくは安堵した。
前方を見る。ぼくの生まれ故郷、地球が見える。地球から見る月の、四倍弱の大きさに見える。ぼくの船は、地球に向かって飛んでいる。
月都市セレネグロットは地下都市であるため、地球の姿を拝める機会は少ない。ぼくも地球を見るのは何年ぶりだろうか。もっとも、ぼくの場合は自室に閉じこもって研究をしていたから、自室の外すらほとんど見てなかったわけだけど。
ぼくの船は地球に向かって飛んでいる。でも、地球には行かない。
地球を見ると、楽しかったことよりも、悲しいことを思い出してしまう。
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月の住環境は厳しい。
重力が地球の六分の一ほどしかなく、大気がほとんどない。また、水もほとんどないため、水資源の確保も課題だ。
月表面の昼夜の温度差は激しい。月の一日は、地球の一日でいうところの二十九日半である。月は潮汐固定で同じ面を常に地球に向けたまま二十九日半で地球を公転している。新月から満月になり、再び新月になるまでが月の一日である。昼は百十度、夜はマイナス百七十度に達する。地球の寒暖差などとは比ぶべくもない過酷な寒暖差だ。
月には大気がないため、隕石が断熱圧縮による高熱で燃え尽きることなく月面に衝突する。それも問題だが、さらに厄介なのが宇宙線だ。宇宙に存在する放射線を宇宙線と呼ぶ。月には地球のような磁気圏や大気がないため、宇宙線が直接降り注ぐ。宇宙線は、人体はもちろん、コンピューターなどにも悪影響を及ぼす。
月表面の住環境が厳しすぎるため、人類が目をつけたのは溶岩洞である。日本の月探査機が百年ほど前に溶岩洞の天窓とみられる竪穴を発見したのを皮切りに、月の地下には溶岩流によって形成されたとみられる洞窟が存在することが分かった。そして、幾度にもわたる現地調査により、地下二百メートルの位置に直径二キロメートルの巨大な溶岩洞が発見されたのである。
月都市セレネグロットの名前は、ギリシア神話の月の女神セレネと、洞窟に由来する。厚さ四十メートルの玄武岩に覆われた洞窟はマイナス二十度の安定した温度を保ち、隕石や宇宙線に対する防壁ともなっている。
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積荷の薄膜プリンターが、何枚かプリントアウトを完了したようだ。直径三センチメートルほどの薄膜が出力トレイに並んでいる。
ぼくは出力結果の薄膜集積回路を単体テストする。うん、いいぞ、品質に問題はないようだ。
プリンターというものは、元々は紙などにインクを噴射したり熱で転写することで、文字や図表を出力するところから始まった。
プリンターの概念が大きく変わったのは3Dプリンターだろうか。材料を積層することで三次元構造をプリントアウトできる3Dプリンターは、月都市の建造でも使われている。月の土壌レゴリスを利用することで、地球から建築資材を持ち込むことなく地下都市の建造ができる。また、原子レベルで材料を積層すれば、電力と素材と時間の許す限りであるけど、およそ大抵のものをプリントアウトできる。
薄膜プリンターは何をする装置なのかというと、薄膜に対してプリントするわけじゃなくて、薄膜状の半導体集積回路の作成なんかに使われる。言ってしまえば、3Dプリンターの二次元版だ。
かつての半導体集積回路は珪素を基盤に作られていた。珪素を結晶化して薄い板状にスライスして、その表面を酸化させたり金属を蒸着させたり薬品で削ったりして、トランジスターや電気の通り道を生成していく。そうやって、髪の毛の十万分の一くらいの微細な電子回路を作り上げるわけだ。
人類が長らく利用してきた珪素製の半導体だけど、高密度な大規模集積回路を目指すうえで、大きな欠点があった。珪素の結晶は三次元構造なので、縦と横の平面だけでなく、どうしても厚みを持ってしまう。珪素結晶の奥の方の構造が邪魔をして、半導体回路をこれ以上は小さくできないという限界に達してしまったのだ。
そこで、厚みが原子一個分から数個分のシート状の物質、二次元物質を使って半導体集積回路を作成する研究が行われた。炭素原子を六角形に並べたグラフェン、遷移金属ダイカルコゲナイト、六方晶窒化ホウ素などを組み合わせるところから研究が始まり、さまざまな素材を用いることによって、非常に薄い半導体集積回路が作れるようになった。
薄膜プリンターによって、薄膜状の半導体集積回路を作ることができる。薄膜一枚あたりの処理能力は大したことはないけど、それを何枚も何十枚も積層することで、十分な処理能力が得られる。
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「管理局は、餓死した科学者の氏名を公表しました。なお、自殺か他殺かについては継続して捜査中とのことです」
月都市セレネグロットの人々は、月都市での最初の餓死者が科学者であったことに驚きを隠せなかった。寝食を忘れて研究に没頭し、それで命を落としてしまったのだろうか。
しかし、どこから捜査情報が漏れたのやら、頭部に脳波計らしき装置を装着したままベッドに横たわって亡くなっていたという噂が流れ、死の瞬間の脳波を記録するために自殺したのではないか、あるいは脳波を強制的に睡眠状態にして他殺されたのではないか、などという憶測を呼ぶこととなった。
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ぼくは薄膜プリンターが出力した薄膜集積回路を、メインコンピューターに接続した。
薄膜集積回路の厚みは原子数個分しかない。つまり、とても繊細なものだ。手作業で場所を移すなんて、考えたくもない。ぼくはマニピュレーターを操作して、薄膜集積回路をそっと持ち上げる。
メインコンピューターも、薄膜集積回路を積層したものだ。そこに、新しくプリントアウトした薄膜集積回路を、位置と角度を調節して乗せる。ミクロン単位の精度が求められるけど、そのあたりは機械がうまくやってくれる。
うまく薄膜集積回路を乗せることができたら、電子ビームで必要な穴を開けたり、銅原子を打ち込んで配線する。これも機械任せなので、ぼくは結果を確認するだけだ。
メインコンピューターに接続した新しい薄膜集積回路も問題なく動作している。よかった。過酷な宇宙空間ではあるけど、これならなんとかなりそうだ。
宇宙空間で電子機器を永続的に動作させようとすると、最大の問題は宇宙線だ。
電子回路は、電子の動きによって演算を行う。宇宙線は高エネルギーの放射線だ。X線やガンマ線といった電磁波のほか、陽子、中性子、電子、アルファ粒子、重粒子などの粒子線からなる。宇宙線は宇宙空間を飛び交っているし、地球にも降り注いでいる。宇宙線の粒子が電子機器の半導体デバイスに衝突すると、電子の動きを乱し、メモリー情報を誤らせたり、回路を一時的あるいは恒久的にショートさせてしまったりする。
宇宙線への対策としては、構造や材料を工夫したり、回路を改良したり、冗長化したりして電子回路自体を壊れにくくする手段がある。あるいは、電磁バリアによって宇宙線の軌道を曲げ、電子機器への入射を防いだり、壁内に水を満たして宇宙線を遮蔽したりして防御する方法もある。
さらに、宇宙線を防げたところで、微細な電気回路を長期間にわたって使い続けると、電流が流れる際に金属原子が移動してしまい、配線が断線したりショートしてしまう可能性もある。エレクトロマイグレーションという現象だ。つまり、電子回路はいつか必ず故障するものとして対策しなければならない。
そこでぼくは、メインコンピューターの集積回路を代謝させることにした。新しい薄膜集積回路を追加する一方で、古くなった薄膜集積回路を捨てていくのだ。もちろん古くなった薄膜集積回路はリサイクルする。
同様に薄膜プリンターの製造や修理を行う機器類も用意しているし、必要に応じて3Dプリンターで出力することもできる。なんなら、3Dプリンター自体を出力することもできる。
ぼくの船のあらゆるメカニズムは、新陳代謝を繰り返しながら、ずっと機能し続けてくれるだろう。
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月都市セレネグロットの娯楽は多いとは言えない。月都市の人々は娯楽に飢えていた。
歌手、コメディアン、俳優、マジシャン、ダンサーなども存在するが、その人数は数えるばかりだ。その理由は、月都市で娯楽を生成するコストが、収益に見合わないというところが大きい。つまり、地球で作った娯楽コンテンツを月都市で流すほうが遥かに安価に済むのである。
重力が地球の六分の一程度なのを利用したダンスパフォーマンスは、かつては物珍しさに好評ではあったものの、次第に飽きられていった。ダンサー自身の筋力維持の問題もあるため、ほとんど廃れていると言ってもいい。
地下都市であるため、星空を望むことも叶わない。青い地球を眺めて過ごす月生活を夢見ていた人々の最大の失望がここにあった。モニター越しに夜空を眺めるなら、それは地球でも可能なのだ。
日常的に星空を見る機会に恵まれているのは、月資源の採掘を行う企業労働者、天体観測を行う天文学者、そして月の海の横断に挑む冒険家くらいであろうか。
月都市セレネグロットは、月の海と山岳の境界に位置する。月資源の採掘は、山岳もしくは月の海の洞窟で行われるため、企業労働者は星空を見る機会に預かれるかも知れない。
月の海は、月面に存在する濃い色の玄武岩で覆われた平原である。地球から見たときに黒く見えるのが月の海だ。かつて天文学者のヨハネス・ケプラーはここに水があると信じて海と呼んだが、実際には水があるわけではなく、平坦な地形が続くだけである。
現在でも地球で運用されているアルマ望遠鏡は、チリのアタカマ砂漠に建設された電波干渉計である。標高五千メートルの高地砂漠に設置した可動式高精度パラボラアンテナをひとつの電波望遠鏡として活用することで、視力でいえば一万二千に相当する高い分解能を有する。
そのアルマ望遠鏡の後継とされる望遠鏡が、月都市セレネグロットに近い月の海にて設置が進められている。アルマ天文台が高地砂漠に設置された理由のひとつが観測の妨げになる水蒸気が少ないということであったが、月の海ならばそれを上回る好条件が得られる見込みである。
この望遠鏡が稼働すれば、月都市の天文学者が肉眼で星空を見る機会はむしろ減るだろう。
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衝突警報によって、ぼくは飛び起きた。どうやらぼくは眠っていたらしい。
地球に近づいてきたせいだろうか、ぼくの船に地球を周回するデブリのひとつが衝突したようだ。ぼくは船体の気密チェックを行う。問題ないようだ。問題がないと分かったところで、思わずぼくは笑っていた。
デブリの衝突によって、船体に穴は開かなかったものの、ちょっとした回転モーメントが与えられてしまったようだ。ぼくはスラスター制御で船体の回転を抑える。軌道には問題はないようだ。
船体の回転を抑えたところで、ぼくは子供の頃を思い出す。ぼくは眠るのが怖くて母に泣きついたことがある。
ぼくが眠ると、ぼくは意識を失う。翌朝目覚めたぼくは、果たして前日の夜に眠りについたぼくと同一人物なのだろうか。それとも、コンピューターの電源を落として再起動したみたいに、ぼくの記憶を辿って起動した別人が、ぼくの振りをして生きていくんだろうか。
ぼく自身が消えてしまう不安に襲われて、ぼくは母に泣きついた。
今になって考えれば、取るに足りない不安だ。睡眠にはいくつかのステージがある。レム睡眠では脳は覚醒時に近い活動をしており、意識は夢を見るわけだけど、論理的な思考や自己認識は制限される。ノンレム睡眠で深い睡眠に入ると意識はほぼ停止し、外部からの刺激への反応はほぼなくなる。とはいえ脳が停止するわけではなく、脳は身体の修復や記憶の整理を行う。
つまり、睡眠しても脳の電源が落とされることはなく、翌朝にはちゃんとぼくが目覚めるというわけだ。
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月都市セレネグロットの数少ない娯楽のひとつが、重力ジムである。
月の重力は地球の六分の一程度であるため、長期滞在者の筋力や骨密度の低下が深刻な健康被害を生む。それを防ぐためには日常的な筋力トレーニングが欠かせない。
重力ジムは月の竪穴に設置された、高さ二百メートルもある建造物である。縦に細長いすり鉢状をしており、この施設が回転することにより遠心力を発生させ、月の重力と合わせることにより、地球と同等の重力を発生させる。
一部の富裕層はこの重力ジムに住居を構えているが、大多数の人々は週に数度ほどこの重力ジムに通うことで筋力を維持している。
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「でも、すれ違いなんて、なんか寂しいわね」
妻の声が聞こえたような気がして、ぼくは目を覚ました。
妻がここにいるわけがない。いや、妻はもうどこにもいない。
研究にばかり没頭していた仕事人間のぼくは、もっと妻とたくさんのことを話せばよかったと、今でも後悔している。
妻の言葉とともに、妻の最期の日を思い出す。
あの日、ぼくは妻との結婚記念日のお祝いのために、定時に帰宅すると約束をしていた。
研究所を出る直前、ふと閃いたことがあり、それを確認するために、妻に「三十分だけ遅れる」と連絡したぼくを、ぼくは許せない。
人が生きる時間は長くない。大切な人とともに過ごせる時間は長くない。その大切な三十分を、ぼくはちょっとした閃きの確認なんかのために使ってしまった。
三十分ほど遅れて家に向かう途中、救急車のサイレンを聞いた。それが妻のための救急車だと、その時のぼくは思いもしなかった。
家に帰ると、妻はいなかった。用意されたケーキと、妻の手料理。ケーキの横に置かれたロウソクの本数は、ぼくたちが結婚してからの年数には一本だけ足りなかった。
そして、ぼくは病院からの連絡によって、妻が事故死したことを知らされた。
妻は、ぼくの帰宅が三十分遅れると知り、ケーキに立てるためのロウソクを近所に買いに出たようだった。妻はそのロウソクを握ったまま、天国に旅立ってしまった。
あの日、ぼくが三十分遅れなかったら。
悔やんでも悔やんでも、妻は帰ってこなかった。
ぼくは、ぼくを許せない。
永久に許すことはない。
☆
月都市で初めての餓死者が出たものの、その後の情報が続かず、人々の記憶から徐々に薄れつつあった頃に、続報があった。
「射出異常で軌道を外れた地球宛ての射出物資の送り主が判明しました」
あの日、軌道を外れてしまった地球宛ての射出物資、その送り主は、餓死した科学者その人だったのである。
人々は興味を取り戻した。餓死した科学者は、地球に何を送ろうとしていたのか。軌道を外れた射出物資はどこへ行ってしまったのか。
射出物資の品目については、すぐに明らかとなった。3Dプリンターや薄膜プリンターをはじめとする工作機械である。これは月都市で科学者が使用していたものであると確認され、おそらく地球に送り返した後に科学者本人も地球に転居する心積もりだったのだろうと推察された。
なお、射出物資の行方であるが、こちらは調査中である。電磁カタパルトで加速されて射出された物資は、通常であれば地球の周回軌道に到達する。大気圏突入および減速を行うのは高度な制御が必要となるため、受取業者が周回軌道で物資を確保し、軌道エレベーターで地上に下ろす運用がなされている。
地球宛ての物資の射出は多額の費用がかかる。積荷の工作機械を地球で購入するほうが遥か安価に済む。工作機械は目眩ましの偽装で、実はもっと重要な何かが積まれていたのではないか。あるいは科学者を殺した何者かが乗っているのではないか。人々は妄想を膨らませた。
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妻が亡くなったあと、ぼくはよくない考えに囚われた。
妻の脳から、妻のすべての記憶を取り出して、コンピューターに保存しておきたい。そうすれば、妻があの日、何を考えていたのか、最期の瞬間に何を思ったのかが分かるかも知れない。
だけど、ぼくの中の科学者としての理性が、そんな愚かな考えを踏み留まらせた。夫婦であっても、他人の記憶を覗き見などしてはいけない。
それに、人間の脳の記憶をすべてコンピューターに移して、その上で意識というプログラムを走らせたところで、それは元の人間の記憶を持っているだけの別人だ。決して本人ではありえない。
たとえば、ぼくの記憶をすべてコンピューターに移したら、ぼくは永遠に生きていけるだろうか。目の前のコンピューターが「じゃあ、元の肉体は要らない」と言ってぼくを廃棄処分しようとしたら、ぼくはそれを受け入れられるだろうか。それはつまり、ぼくの記憶を持った他人がぼくを殺すだけだ。それは恐怖でしかないだろう。
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「射出異常で軌道を外れた地球宛ての射出物資ですが、射出パラメーターの改竄が認められました」
射出パラメーターの改竄、それはつまり、誰かが意図的に射出物資の軌道を外させたということである。
人々の興味を引いたのは、そのこと自体ではなく、それを行った誰か、それが科学者本人のコンピューターからの不正操作だったことである。
科学者が自ら不正操作を行って射出物資の軌道を外させたのだろうか。しかし、不正操作の時間帯が科学者の推定死亡時刻と重なることが判明し、人々はさらにこの推理ゲームに熱中するのであった。
☆
人間の記憶をすべてコンピューターに移しても、それは元の人間と同じ記憶を持っているだけの他人だ。
では、人間の意識をコンピューターに移すには、どうすればいいだろうか。
脳機能拡張には、大きく分けて二つの方法がある。
ひとつは、脳内に電極などを留置して刺激を与えることで、本来の脳機能以上の能力を発揮させようとする方法。もうひとつは、ぼくの研究でもあったのだけど、脳外に用意した補助演算装置によって、脳機能を拡張する方法だ。
後者の方法はぼく以外にも研究者がいて、大容量の記憶装置を脳外に持つことによって、莫大なお金さえ出せば、人間生き字引になることもできた。
当初は外部記憶と脳との親和性がそれほど高くなくて、脳内で文字列検索して、脳内でヒットした文書を読む、といった感覚だったのだけれども、研究が進むにつれて、学習した知識と遜色ないレベルで「思い出す」ことができるようになった。
ぼくが注力していたのは、思考能力の補助だ。この分野では、世界のトップだったと自負している。
思考能力の補助も、脳との親和性を高めるのが難しかった。脳内で電卓を叩いて結果を読み取るような補助だと、脳が賢くなったとは言えない。シームレスに思考能力を高めることが、ぼくの研究の目的だった。
脳のニューロン間結合を模したコンピューターを脳に接続し、思考の補助をさせながらコンピューター自体の疑似シナプスを学習・成長させるという研究を進めていた。
そんなときに、妻が死んでしまった。
ぼくは人間関係を断って、月に移住し、研究に逃げた。思考補助装置を繋ぎっぱなしにして、何日も、何か月も過ごした。
そしてある日、ぼくの肉体が睡眠状態にあっても、ぼくの意識があることに気づいた。
どうやら、ぼくの意識は、コンピューターだけでも維持できるようになったらしい。
その状態で、ぼくとコンピューターとの接続を切る勇気はなかった。もし接続を切ったとして、そのあと目を覚ましたぼくは、コンピューター上のぼくと同一人物なのだろうか。
どちらがぼくなのだろうか。
☆
「射出異常で地球宛ての軌道を外れた射出物資の軌道予測が出ました」
その軌道予測は、月都市の人々を失望させるものであった。
射出物資は、地球を飛び越えて、地球の重力によって加速を得た後、地球の周回軌道を離れて遥か遠くに飛び去ってしまうと予測されたのである。
地球から離れていく飛翔体を追尾捕捉して回収することは、技術的に困難である以上に、コスト面でも現実的ではない。たかが個人の所有物を回収するために莫大な費用を投じるなど、あり得ない。
つまり、射出物資の中身を直接調べるすべはなく、月都市の人々は大いに失望したのだった。
☆
「でも、すれ違いなんて、なんか寂しいわね」
妻の声が聞こえたような気がして、ぼくは目を覚ました。
実際のところ、ぼくに睡眠は必要なのだろうか。つい癖で睡眠しているつもりになっているのだろうか。
妻との会話を思い出す。あれは、ぼくたちが地球に住んでいた頃、二人で旅行に行って天の川を眺めたときだ。宇宙が好きな妻は、ぼくに天の川銀河のことを教えてくれた。
天の川は、ぼくたちが住む天の川銀河を地球から見た姿だ。天の川銀河は二千億個ないし四千億個もの恒星が集まってできた巨大な渦巻き状の天体で、その円盤に所属する地球から見ると、まるで川のように見えるらしい。
妻はさらに、天の川銀河から二百五十万光年離れたところにあるアンドロメダ銀河について教えてくれた。アンドロメダ銀河は天の川銀河よりも大きな銀河で、秒速百二十キロメートルというものすごい速度で天の川銀河に近づいてきているらしい。
秒速百二十キロメートルは、時速に換算すると四十三万二千キロメートルだ。とんでもない速度だけど、宇宙の大きさからすると、とてもとても遅いんだそうだ。
「かつては四十億年後には天の川銀河とアンドロメダ銀河が衝突してひとつの巨大銀河になるって言われてたけど、どうやら確率は五分五分くらいなんだって」
妻は少し寂しそうに言った。なんでも、さんかく座銀河や大マゼラン雲などの重力の影響なんかも考慮してシミュレーションを行うと、天の川銀河とアンドロメダ銀河が衝突する可能性は五十パーセントくらいになるらしい。
「でも、銀河が衝突したら、太陽系はめちゃくちゃになっちゃうんじゃないの?」
「アンドロメダ銀河には一兆個の恒星が含まれるし、私たちの天の川銀河には数千億個の恒星が含まれるけど、恒星同士の距離はとても離れていて、言っちゃえばスカスカなのよ。恒星同士がぶつかる可能性はとても低いらしいわ」
そして、妻は少し寂しそうに、付け加えた。
「私たちの太陽は歳を取るごとに少しずつ膨張していて、いずれは地球も灼熱の星になるって言われてる。十四億年後には地球の生命は絶滅するって話だから、四十億年後の銀河衝突は地球からは見られないでしょうね」
「四十億年後か。気の遠くなるような先の話だけど、あまり恐ろしいことにならないといいな」
そして、妻は答えて言った。
「でも、すれ違いなんて、なんか寂しいわね」
☆
「射出異常で地球宛ての軌道を外れた射出物資ですが、生命維持装置は搭載されておらず、何者かが搭乗している可能性は否定されました」
科学者を殺害した何者かが、射出物資に身を潜めて逃亡した、そんな予測はどうやら外れだったようだ。
予測軌道をもとに射出物資を探すアマチュア天文家も存在したが、コンテナ一台を光学レンズで捉えることはほぼ不可能であった。
月都市の人々が失望とともにこの件を忘れようとしたころ、科学者本人による遺書が発信された。短いビデオメッセージで、科学者自身が自らの死因について述べたものだった。ある程度の日数が経過すると、自動で発信されるようになっていた。
「皆さん、お騒がせしてすみません。ぼくの死因ですが、これからぼくの肉体は餓死することになります。ぼくの意識は、ぼくの肉体とコンピューターで境界なく存在していて、これからぼくは不要となるこの肉体をシャットダウンします。事前にこんな計画を誰かに話せば管理局に止められるでしょうから、事後連絡になってしまったことは申し訳ありません。法的には、ぼくは死んだことにして処理していただけると助かります。あと、ぼくの意識を乗せたコンピューターが、ぼくの肉体の死とともに射出される手筈となっていますが、できればぼくの行方は追わないでいただけると幸いです。最後に改めて、お騒がせして申し訳ありませんでした」
☆
そろそろ、ぼくの遺書が公開された頃だろうか。妻を死なせてしまったぼくなんて、死ねばいいと思う。後悔はない。
ぼくの船は、地球をスイングバイして、木星に向かっている。
スイングバイは、天体の重力と運動を利用して自機の運動ベクトルを変更する方法だ。
もし天体が静止しているなら、天体のそばをかすめるように飛行した場合、天体に近づくにつれて加速し、天体から離れるにしたがって減速するから、結果として速度は変わらない。
公転して移動している天体の後方をかすめるように飛行すれば、天体の公転速度くらいの加速を得ることができる。逆に、天体の公転速度はわずかに減速するわけだけど、天体のサイズと宇宙船のサイズを比較すれば、天体への影響は極めて小さいと言えるだろう。
ぼくの船は、ホーマン軌道に乗って二年半から三年ほどかけて木星に到達する予定だ。そして、木星の重力場を利用して減速し、木星の衛星ガニメデの周回軌道に乗る。
ガニメデは太陽系内の衛星の中でも最も大きく重い惑星だ。木星を七日と三時間で公転している。地球の月と同様に潮汐固定で同じ面を常に木星に向けているから、一日の長さは七日と三時間だ。ガニメデは金属資源が豊富で、水の氷もあるから資源やエネルギー源には困らないだろう。放射線の少ないカリストも候補だったけど、むしろ放射線の多いガニメデのほうが人類は進出しづらいだろう。
十四億年後には、ぼくたちの太陽は膨張して、金星の公転軌道を飲み込み、地球は灼熱の星になるだろう。木星近辺の環境がどうなっているかは分からない。それまでには、ぼくはぼくの意識を乗せているコンピューターを拡張しながら、太陽圏外、できれば天の川銀河圏外に出ていくための宇宙船を建造するつもりだ。時間は、そうだな、時間はたっぷりある。
目下のところ、最大の冒険になるのが、ガニメデへの着陸だ。月から地球へ向けて物資を射出するためのコンテナに過ぎないこの船が、どれくらいの衝撃に堪えられるかは分からない。
「でも、すれ違いなんて、なんか寂しいわね」
ぼくは妻の言葉を思い出す。
ぼくは、天の川銀河を公転するひとつの星となって、天の川銀河とアンドロメダ銀河の行く末を見守る。
どうか、妻が願ったように、すれ違いなんて起こらなければいいんだけども。