逃げ水
※この物語は全てフィクションです。実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
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茹だるような暑い夏の日、私はそこでどうして立ち止まって道の向こうを見てしまったのか。
熱波によりあたためられた地面が空気を屈折させ、遠くに存在しない歪んだ水が陽炎のように見える〝逃げ水〟として光の幻想を見せている。しかし、それはただの逃げ水ではなかった。私にはそこに二人の人間が見えた。
一人の人間が殴られている。もう一方は容赦なく拳を撃ち付けていく。事件ではないか、私は道の向こうへ渡ろうとしたが、車が通り過ぎると逃げ水の向こうの二人は消えていた。一瞬で〝消えて〟いたのだ。まるで蒸発したように。
熱波から来る幻覚だろうかと思っていたが、その後も見えた。同じ場所で夏の容赦なく照り付ける晴れた日に。何度も。見ようとしなくとも視線が向いてしまう。その二人の輪郭は徐々にはっきりと見えるようになっていった。それは信じられないものだった。殴られている男は私の親友で、殴っている男は、私だった。
親友は郷里に住み農家をしている。学生時代には音楽の趣味が合いよく遊び、彼の妻とも共通の友人で、休みに里帰りをすると真っ先に酒を持って会いに行く。そんな彼に対して暴力を振るう、幻覚にしても性質の悪いものだった。
そんなある日、彼が上京すると言うので観光案内をして欲しいと連絡があった。私は、あの逃げ水の光景を思い出してしまい本来であれば断りたい気持でいっぱいだったが、そんな狂った光景を理由に断れる訳もなく迎え入れた。
渦巻くのは逃げ水の光景だ。深層心理が見せる幻影ではない、あれは自然が見せる蜃気楼の一種で何もかもが出鱈目だ。彼が駅に着いて観光名所を案内する。彼はカミさんも連れてきてやればよかったかな、と言いながらはしゃいでいた。何てことはない、いつもの親友の姿がそこにあった。私は一気に胸を撫で下ろした。
夜には彼と呑み、久々に話が盛り上がった。居酒屋から出て鼻歌交じりに歩いている。すると、些細な事を彼がついてきた。俺のカミさんに惚れていただろう、と。
彼があまりにしつこく絡んでくるので、水でも飲んで落ち着いた方が良いと言ったが、そこから口論になった。最初は子供の喧嘩じみたものであったが、彼が私の仕事についての尊厳を軽んじる発言に血が上った瞬間、私は彼の顔面に向かい拳を撃ち付けていった。一瞬で、あの逃げ水の光景と全く同じものになっていった。
遠くから叫び声が上がる。野次馬が集まり、巡査が自転車でやってきた。サイレンが響き近付いてくる。地面に落ちた彼は動かない。全てが終わった。朝陽がさしてきて、気が付けば、ここはあの逃げ水の向こうの道だった。
すべてを失って十数年振りに塀の外に出たら茹だるような暑い夏であった。私はあてもなく歩き回る、そこで立ち止まったのは偶然ではない。道の向こうを見る。
揺らめく地面の上に一人の男が居る。こちらに向かって嗤う。何かを喋っているのかも解らなかったが伝わった。それは嘲笑が含まれている。
私はダンプカーが向こうに見えて来るのを待って道の向こうへと走り出した。いや、ダンプカーへ向かって走って行った。けたたましいクラクションと間に合わなかったブレーキ、身体に衝撃が伝わり宙を舞う。アスファルトにぐしゃりと鈍く砕け落ちる音が響いた。
遠ざかる意識の中で逃げ水の向こうの男の顔が、私のものと確認して眼を閉じた。これで終わりのない逃げ水の悪夢から、逃れられたのだから、それでいい。