再会 一の節
「――ちちうえっ!」
廂から飛び出てきた幼子を抱きとめる。その勢いのまま抱え、愛くるしい顔を見上げる。
「健やかであったか、東宮よ」
「ははうえと、あそんでいましたの」
「左様であるか――それは、よきことだ」
初星が、にこにこと、満面の笑みを湛える。頭を撫でれば、ぎゅっとしがみついてくる。いとおしく、頬を寄せる。
進み出た姿に、目を落とす。
「まあ、主上。重うございましょう」
「よいのだ。こうして抱けるのも、今のうちであるゆえな」
しかし、早いもので、もう四歳だ。さすがに、腕にずっしりくる。御簾をくぐって、廂に入ると、膝の上に乗せた。
隣に腰を下ろした后に、声をかける。
「万事、不便はないか?」
「お気遣い賜り、ありがとうございます。主上と東宮様と離れることは、寂しくはございますが――」
元服、そして婚儀から七年。桔梗は今、懐妊している。明後日、出産のために、里下がりをする予定だった。
「朕も寂しく思う。よくよく身体を厭って、また元気な姿を見せてくれ」
そっと手を伸ばし、華奢な手に触れる。柔らかなぬくもり。黄金色の瞳が、幸せに微笑む。
「ねえ、ちちうえ! おにわであそびましょう!」
初星が、身を震わせ、光をまとう。ぴょんと、子狼が飛び跳ねる。
「東宮よ。むやみに化身するものでないぞ」
苦笑しつつも、獣の姿になる。急かす我が子に応じながら、秋の淡い日向へと、歩んでいった。
丸まった腰をさする。苦しく呻く声。障りのないよう、小さく呼びかける。
「母上様。どこか痛うございますか?」
「大丈夫ですよ――白梅、そろそろ主上が、着御なされる頃でしょう……わたくしのことは構いませんから、支度をなさい」
「でも……」
ここ数ヵ月、母は、月のものが重かった。
多少の痛みは、誰にでもあるものだが、起き上がれないほどとなると、何かの病を疑ってしまう。
しかし、この真神の社には、雄子ならば、限られた者しか立ち入れない。薬師に診てもらうためには、敷地の外へ赴くしかなかった。
再三、出社の許可を都から得るよう、頼んだものの、母は頑なに聞かなかった。己の宿命は、よく知っていると言って。
痛みに耐える声が、優しく、しかし強く諭す。
「神々は、必ずや、あなたを〈要〉の巫子とお定めになられるでしょう。わたくしの亡きあと、大御巫となって、主上をお助けまいらせる者は、あなたなのですよ。しっかりなさい」
「母上様、そのような……!」
まだ、学ぶべきことは、たくさんある。何よりも、乳飲み子の頃よりずっと、育ててくれた母なのだ。
大切で、かけがえのない、唯一の存在。逝ってしまうなど、あまりにも早すぎる。
衣擦れの音がして、顔を上げる。斎子の雌童が、礼をして告げる。
「間もなく着御の由――先触れが、届きましてございます」
母の、厳しく促す声。逡巡して、どうにか決意を固める。
「ありがとう、山吹。支度を手伝ってくれるかしら」
「承りましてございます」
母に衣をかけ直し、腰を上げる。揃えを掲げた山吹の前に立ち、神事のための衣へと着替えていった。
扉の開いた瞬間、衝撃が走った。
微かに香ってきていた、芳しい匂い。気のせいでは、なかったのだ。
「大御巫様は、お身体が優れず、臥せっておいでにございます。この白日巫が、名代を務めさせていただきます」
結い上げた、純白の髪。白い肌に透ける、頬と唇の赤。真朱の瞳。
子供の頃も愛らしかったが、今は、ひたすらに美しい。歓喜に震える喉を抑えて、言葉を発する。
「左様でございましたか……ご容態は、如何ほどに?」
「お気遣い、誠に痛み入ります。御心配を賜るほどではございません」
本当に、そうだろうか。あの、釘を刺してきた大御巫さえいなくなれば――白梅を、我が物にできるのではないか。
そっと呼びかけられて、はっとする。瞳の奥に宿った怯え。強ばった顔を緩める。
「……失礼いたしました。知る者に、似ていたもので――どうぞ、始めてください」
安堵した表情。白梅は、威儀を正すと、宣言した。
「それでは、神々をお招き奉ります」
そうして、おもむろに立ち上がり、袖を翻す。
神々に捧げる舞い。美しく清らかな、その光景。漂う、濃密な芳香。腰から、疼く感覚が、背筋を這う。
あの、結った純白の髪。どれほど長く、豊かであろうか。
指で梳き、撫でて、鼻をうずめられたら――そのまま裳の小腰を解いて、重ねた衣に分け入ったら。腰紐をほどき、この腕に抱けたら。
さらりと、裳裾が床に擦れる。毛羽立った尾から、力を抜く。
(……何を……考えているのだ、私は――桔梗も、初星も、いるではないか……)
もはや、幼き日の思い出だ。たとえ、白梅が真の伴侶だったところで、行くべき道は、決して交わらない。
それなのに、疼いてやまない。熱に冒されたように、渇きに飢える。
(父上……どうか、お導きください……私が、過たぬように……)
白梅が、舞い終えて、再び座す。必死に祈りながら、落ち着かない心地で、託宣を聞いた。
都から届いた文を読んで、安堵する。無事に乗りきったようだ。
冬は、どうしても火事が発生しやすくなる。特に、今年は、乾いた風が吹き、大火となる、との占が出ていた。
報告には、事前に見回りを強化したことで、被害は最小限に抑えられたと、綴ってある。焼け出された者も、少なからずいるが、蓄えも万全だ。早急に、手当てが出るだろう。
「うまく、いったようですね」
寝床に臥したままの母が、淡く微笑む。応えつつ、二枚目へと進む。
「ええ、もうこれで、大丈夫でございましょう。暖かな風に変わって、春に向かうと、占も示していますし――」
読み進めて、はたと止まる。息を呑んで、字面を追う。母が、心配そうに尋ねる。
「……白梅? どうしましたか……?」
「主上が……御自ら功績を讃えたいと、仰せであると――都に参れ、との御聖旨にございます……」
かたかたと、手が震える。青星の意図が、嫌というほどわかった。
母は、もはや、床から起き上がることができなくなっていた。緩やかに、しかし刻々と、その命は削られていっていた。
あの秋以来、名代として、ずっと青星に相対してきた。大御巫は大病を患っていると感づくには、十分だ。
そして、母が参上できない以上、名代として、赴かなければならない。
社から出れば、あまねく全ては、帝の意のままだ。もし、忍び込まれても、獣の感覚に欠ける己は、気づけない。
顔を合わせる度に聴こえてくる、心の声。
恋慕う切なさと、燃え盛る熱情。まだ子供だった頃に見た夢の――唯一わからなかった感情が、今ならわかる。
(……ああ、嫌っ……わたくしは……わたくしは……)
まばゆく輝く尊い光。〈要〉の巫子である母にすら、朧気にしか見えない、あの美しい姿。
愛でたる吾子よ、と呼びかけられる、喜びに溢れたひとときを、どうして手放すことができよう。
そっと、痩せた手が、膝に触れる。はっとして、視線を上げる。
「――白梅。都へ、お行きなさい」
「でも、母上様っ……」
張りのなくなった面立ちを見つめる。
もう、いつ儚くなってしまうか、わからないのだ。そんな母を、置いていけるはずがない。
しかし、穏やかに、きっぱりと、母は告げた。
「あなたの、宿命を……果たすのです――よいですね」
青星を導き、豊葦原を、永久に富み栄えさせる。過てば、命なき呪われた地となる。
己の為すべきこと。涙を飲み込んで、宣言する。
「承知いたしました、大御巫様。行ってまいります」
母が、優しく頷く。その病み衰えた顔を見つめて、せめてこの冬を、大切に過ごそうと誓った。
出社の許可が下りたのは、年の明けた頃のことだった。
供に選んだ山吹が、迎えの車を、しげしげと眺める。
「まことに、玄いのでございますね――」
首輪で繋がれた、玄の狼。心の声すら、単純明快だ。獣と変わらない様子に、思わず目をそらす。
「――さあ、行きましょう。二日とはいえ、遅れてしまっては、申し訳ないわ」
元気のよい返事を聞いて、石段を下りる。
恭しく礼をする従者に応対し、車へと乗り込んだ。