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ためらい

 託宣を聴き終えると、父が、おもむろに口を開いた。

大御巫(おおみこ)様。そろそろ、これの元服をと、考えております。いかがでしょうか」

「もう、そのような御歳で――子供の成長というものは、まこと、早いものでございますね」

 慈しみ深い面立ちが、こちらに向く。

 優しい微笑み。しかし、その瞳は、何かを見透かすような(つよ)さがあった。居住まいを正して、相対する。大御巫は、小さく頷くと、父に告げた。

「よろしいでしょう。(うら)の結果が出ましたら、お知らせ差し上げます」

「有難く存じます。よろしく頼みます」

 父とともに、頭を下げる。暗澹たる思いで、床の木目を見つめた。


 常とは異なり、若竹(わかたけ)を竹垣の外に待たせて、板戸を押し開ける。

 気もそぞろになる芳香。思わず、尾が揺らめく。

 この四年、折々の参拝日を、指折り数えて、待ち望んでいた。それもこれも、白梅(しらうめ)に会えるからだ。

 他愛ない話をして、庭の樹々や草花を愛でる。ただそれだけで、幸せだった。かけがえのない、大切なひとときだった。

 元服しても、忍び込めはするだろう。しかし、白梅もいずれ、成巫(せいふ)する。

 互いに子供でなくなった、その時――露呈すれば、白梅は、社にいられなくなる。化身できない身では、生きる(すべ)など、ほぼ皆無に等しい。

 春の麗らかな日差しに輝く、白い姿。近づけば、可憐な顔に、柔和な笑みが広がった。

「ごきげんうるわしゅうございます、青星(あおぼし)様」

「白梅様、ごきげんよう」

 いつもと変わらない挨拶。髪を上げれば、もはや叶わない光景。

 淡くわななく息を飲み込む。(まど)かな赤い瞳を見つめる。小首を傾げる、愛らしい振る舞い。決然と、口を開いた。

「――お願いがございます」

 瞬く、長い純白の睫毛。ほのかな声が応じる。

「わたくしにできますことなら、何なりと」

「あなたを――妻にむかえたいのです」

 ずっと、ともにいられる方法。

 たとえ力を失っても、東宮妃ならば、全く問題にはならない。即位までには、まだ時がある。じっくりと、立后の筋道を立てておけばいい。

 血色の滲んだ赤い唇が、はっと震える。

 その柔い膨らみに口づけたら、どんなにか甘かろう。抱き締めて、その白い肌に鼻をうずめたら――。

 無意識に、一歩踏み出す。

 途端、白梅が(きびす)を返した。唖然として、(ひさし)の几帳から覗く、(あこめ)濃色(こきいろ)の長袴の裾を見つめる。

「お許しくださいませ、青星様……いいえ、東宮様。わたくしは、巫子(みこ)となる者。妃として入内(じゅだい)するなど、到底無理にございます」

「あなたに不自由はさせません。わたしが必ず守ると、ちかいます」

 純白の尾が、萎んで縮こまる。微かな声が、こぼれて告げる。

「……どうか、わたくしのことは……一時の戯れと、お捨て置きくださいませ」

「……たわむれ、などと……」

 どうして言えようか。

 優しい微笑みも、恥じらう愛らしさも――白梅のあらゆる全てに、心躍らぬことはないというのに。これほどに、焦がれてやまないというのに。

 視界が滲む。喉が震えて、声がかすれる。

「……あなたにとって、この四年は、たわむれほどの価値しかなかったのですね。まことに、心の声が聴こえているのなら……わたしがどれほど、あなたを恋慕っているか、知っているはずでしょうに――」

 ただ、日々をともに在りたい。それだけのことが、どうして叶わないのだろう。

 白梅は、(まこと)の伴侶で、間違いなく、よき妃となれるのに。傍にいてくれたら、どれほど心強いだろうに。

 ――これほどにも、恋しくてたまらないのに。

「ああ、おうらみします、白梅様! わたしには、ただあなただけと、願っていましたのに!」

 弾けて絶叫する。駆け出すまま、板戸を引き開け、似姿を放り出す。

「――東宮様……!」

 若竹の呼び声。引き離して、森へと分け入る。

(白梅! 白梅っ! ああ、どうして……!)

 遠く、悲泣に吠える。ひたすらに、冷たい樹々を駆け抜けた。


 板張りの床に、染み込んでいく雫を見つめる。

 涙が、止まらなかった。四年もの間、ずっと恋慕ってきた、かの心を、酷く傷つけたのだ。止まるはずがない。

 しかし、ありのままを語るわけにはいかなかった。青星はまだ東宮で、己もまた、修練中の斎子(いむこ)である。軽率な発言は、控えなければならない。

 泣きじゃくり、恋しさに身を震わす。もし、高貴な姫であったならと、空しい願いが、胸を苛む。

(……でも、数多いる姫君と(けん)を競うなど、わたくしにはとても……)

 青星の語る、絢爛豪華で雅な暮らし。

 只者並みに、憧れは募っても、静かな日々に慣れた身では、遠く感じられた。所詮は、卑しい己が身だった。

 心を振り絞って、ただただ泣く。このまま枯れてしまえばいいとさえ思う。

 と、呼び声が、鼓膜をかすめる。玲瓏に響く音色。耳を立てれば、心に、深く聴こえてくる。

「――吾子(あこ)よ。吾子よ。吾が元へ」

 廂から出て、簀子縁へと進む。

 まばゆい空に、燦然と輝く尊い姿が、浮かんでいた。

「……大御神(おおみかみ)様……」

 美しい、という言葉だけでは足りないほどに、貴い景色。

 慈しみ深い声が、優しく語る。

「おお、吾子よ――なんと哀れな。高天原(たかまのはら)豊葦原(とよあしはら)も、成り余れる処を持つ者は、まこと、勝手極まりなきものよ。繊細な乙女心を解しもせず、あのように、むやみに喚き散らすとは」

 泣き濡れた心の声が、胸に立ち上る。

 明らかに、言動を間違えた。もっと、よく立ち振る舞えていたら、笑い合って、別れられたかもしれないのに。

「吾が愛でたる子よ。ほれ、吾が(かいな)で暖めてやろう」

 光輝く細腕が伸び、柔らかく豊かな胸に収まる。白い指先が、はらはらとこぼれゆく雫を、丁寧に拭っていく。

「そう泣くでない。――考えてもみよ。そなたらは、大御巫と帝となる者。折々に顔を合わせ、語らうこともできよう。いかなる争いにも巻き込まれず、ただ心のみ、通わせられるのだ。なんと清く、美しきことよ」

 凛々しい、あの笑顔。心の華やぐ、あの涼やかな声。

 この社でなら、誰憚りなく、言葉を交わせる。託宣ののちの、ほんの一時(いっとき)でも、心を温め合えたら。

 皓々と照る瞳を見つめる。喜びに潤んだ視界で、尊い顔を拝する。

「まこと、愛らしき微笑みよ」

 満足げな笑み。なめらかで暖かな手が、頬に触れる。

「日々、健やかに過ごせ――いとしき吾子よ」

 柔らかな唇が降り注ぐ。

 光る息吹きとともに、尊い力が、身の内に染み渡っていく。満たされて、歓喜に打ち震える。

「吾は、常にそなたを見守っている。それもこれも、そなたを愛でるゆえ。ゆめゆめ忘れるでないぞ」

 おもむろに、貴い姿が遠のいていく。

 心地よさに溶けながら、輝く美しい光を見送った。


 丸まったまま、ぼんやりと樹々を眺める。新芽の萌え出た枝が、今は橙色に染まっている。

 もう、このまま、いずこかへ逃げてしまおうか。

 狩りさえできれば、喰うには困らない。縄張り荒らしは掟破りだが、己だけなら、なんとかなるだろう。衣も、家も、獣の姿なら不要だ。

 そう、車を()く、(くろ)い者共のように。読み書きも、言葉を話すこともせず、生涯、獣の姿で暮らす賤民。

(……いっそ、だれかに飼われてしまおうか)

 あの玄い狼達の中には、重い咎によって、宮中を追放された貴族もいると聞く。雇われるために、毛色を変える染料まで売っている、と。

 そうして、密かに、家族を匿うこともあるらしい。

 買う金はなくとも、働き手のほしい飼い主は、きっと賄うだろう。その借金を返しながら、命尽きるまで、過ごせればいい。

 ふと、若竹の遠吠えが聞こえる。強く伸びやかな発声。はぐれた者を呼ぶ時の音色だ。これでもう、何回目だろう。

 ずっと、探してくれている。それも、()(かみ)の社での化身という、禁忌を犯して。

 その忠誠には、せめて報いてやらなければならない。発つならば、別れを告げてからだ。

 ただ、無駄に吠えたせいで、喉がからからだった。それに、まだ練習が足りなくて、頼りないのだ。届くかは、微妙なところだった。

(……父上のように、立派にできたら……)

 群れの先頭に立ち、鼻面を高く掲げて奏でる様は、まさに豊葦原(とよあしはら)の頂点に座す者の風格だ。帝自ら出かける秋の御狩(みかり)は、その威容を、あまねく知らしめるためにある。

 また、ひと啼き。確実に、近づいている。匂いも追いつつ、進んでいるのだろう。

 若竹が吠えて、父が痕跡を嗅いで――そんな、詮のない想像が、頭に浮かぶ。

 あの父が、わざわざ道理を踏み外してまで、探すわけがない。替えは、いくらでもいるのだから。

 頭をもたげ、鼻面を空に向ける。

 微かに漂ってくる、闊達な匂い。それ以外は、小鳥のさえずりさえも、生き物の気配は、何ひとつ感じられなかった。

(……ここは、なんと冷たいのだろう……)

 清らかだが、潔白で、一点の穢れも赦されない。そんな命など、あるはずがないのに。

 可憐で控えめな微笑みが、心に浮かぶ。

 確かに、白梅ならば、当てはまるかもしれない。

(もはや、会うこともない……あの、喜びに満ちたひとときは――)

 悲しく、鼻を鳴らす。あれほど啼いたのに、切なさは増すばかりだ。一体、何を思い違えていたのだろう。

 近くで、若竹の呼び声が聞こえる。

 喉を振り絞り、かろうじて、あおと吠える。情けない音色だが、この距離ならば、届くはずだ。

 はたして、灰銀の狼が現れた。荒い呼吸を繰り返しながら、駆けてくる。

『――東宮様!』

 慮るひと吠え。よく知った、夏の日向の匂い。

 途端、安堵が全身を包む。窺うように寄ってきた鼻に、鼻を擦りつける。甘えて啼きながら、鼻面を必死に舐める。

『若竹っ……若竹……!』

 されるがまま、若竹は、何も吠えない。ただ、腰を下ろして、そっと鼻面を差し出した。

 大きく口を開け、甘噛みする。それだけで、冷えた悲しみが、和らいでいった。離れて再び、鼻面を擦り寄せ、ひたすら舐める。

 思うさま、ひとしきり終えると、若竹が静かに啼いた。

『御無事で、誠にようございました。主上(おかみ)も、ご心配されておいでにございます。宿所に戻りましょう』

 たまらず、子供のような啼き声を出す。

 優しい色を宿す、梔子色(くちなしいろ)の眼。おもむろに腰を上げると、先導する頼もしい尻尾に、ついていった。


 初夏の爽やかな風が、廂を吹き抜ける。頬をさする、瑞々しさ。しかし、東宮の居所であるこの薫風舎は、冷気に包まれていた。

 父の静かな顔と、相対する。用向きは知っていたものの、いささか緊張する。

「元服の日取りが決まった。添臥(そいぶし)は、左大臣の一の姫とする」

「承知いたしました。よろしくお取り計らいいただき、誠にありがとうございます」

 耳は立てたまま、尾をきっちり腰に巻きつけ、礼をする。

 父は、ただ頷いて、日づけを告げた。そして、控えている東宮宣旨に、万事よろしく頼むと、淡々と言い置くと、あっという間に立ち退いた。

 すっくと天を衝く、白銀の尾。威厳に満ちた、しかし冷たい背中。

 今さら、親子の情など、期待していない。それでも、おぼろげに心がざらついた。

 温まりもしなかった(しとね)に座る。東宮付きの各々が、所定の位置につく。柔和な声が、上機嫌に語る。

「まこと、めでたきことにございます。御髪(おぐし)をお上げになられた御姿を拝見できると存じますと、楽しみで仕方のうございます」

薫宣旨(かおるのせじ)――そなたは、まこと大げさだな」

「当然にございましょう。主上と(さき)后宮(きさいのみや)様は、それはそれは、仲睦まじくあらせられました。その御忘れ形見をお育て申し上げたのですから、喜びもひとしおにございます」

 ほっと、顔が緩む。

 この乳母(めのと)は、いちいち大事(おおごと)に話すが、あえてなのだと、最近はわかるようになってきた。

 都には、慕ってくれる者達が、数多いる。その思いに寄り添うことこそ、己の為すべきことなのだ。

 生まれた瞬間から、確約されていたも同然の妃。

 ずっと、所詮は政の道具だと、思っていた。しかし、せっかく夫婦(めおと)となるのだ。睦まじくあっても、いいのではないか。

(よき夫となろう……父上と母上のように――みなの心が、はなやぐ仲に……)

 薫風が、柔らかく頬を撫でる。(きた)る秋の口が、実り多くあるよう、穏やかに願った。

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