月の綺麗
こう、誰かとテーブルを挟んで食べたり飲んだりそういったコミュニケーションが久しぶりになってしまう生活習慣だったわけだ。だから僕は人に正面が切れない。目なんか合わせようとして1秒ももたないで逸らしてしまう。そんな姿が相手に嫌な気持ちを与えることなど十分分かっていたのだけれど、時間の許す限り何度となく試してしまうのは諦めが悪いのか、もはや失敗することが気持ちよくなってきているのか、きっと後者であることを分かりきったうえでの迷いによって、この不毛な行動を繰り返すことを自分勝手に肯定しているのだった。そのせいだった。テーブルの向こうに座っている相手の左目が強力なエメラルドグリーン。左目には、眼球の代わりによく磨かれツヤツヤとした宝石が埋め込まれていることに気が付くまでだいぶと時間を使ってしまい、意識のフォーカスを会話へと移してみれば、内容のほとんどが目にはまってしまったというエメラルドについて話していたのだった。その瞬間、僕はこうして今日一つの仕事を失うのだと予感した。僕の態度に怒って立ち上がり去っていく依頼未遂の男の背中が急速に縮んでみえる。話し合いの場としての喫茶店さえも男の収縮に巻き込まれ、この場の僕以外は点になって消えてしまった。
そんなことに巻き込まれながらも僕は難なく帰宅することに成功していた。体感ではほんの五秒ほどのはずだったが、時計を確認するとどうやら3時間はかかってしまっていた。まあそれはいい。何時間だろうと一日かかろうと、ああいう科学で未解明の力に出くわしてもとりあえず帰ることができる。そんな能力こそがこの仕事には要りようなのだった。いつか弟子をとったら今日のことを教えよう。しかし今どき師弟制度ってどうなのだろう。むしろ胡散臭いというか、歌舞伎みたいに根拠なく近寄りがたい雰囲気が売りにできるのならいいのだけれど、僕の仕事は今日みたいに人と会って話すわけだから、残念だけど弟子をとる夢は無しにするしかないようだ。
そう考えて、服の内側からポケットサイズの無地のメモ帳を取り出す。その中のやることリストにある、「弟子をとる!!」の部分にへろへろの取り消し線を2本引いた。帰宅による疲労が事実から実感へと追いついてくるころ、息も絶え絶え、そういえば玄関の扉にもたれていた。まだ部屋には上がっていない。靴も脱いでいない。右のくるぶしに切り傷が3本ほどできている。見えるものすべてほとんど他人事の視界に映っていた。
いつでもどこでも僕は永久にガソリンを補給され続けている感じがあった。この例えを軸にこねくり回すような表現を開始するつもりはない。ただ単に、永久にガソリンを補給され続けている感じがある。それだけなのだった。
僕は犬を飼っている。可愛い奴だ。名前はロブという。もともと野良で、懐くのにもけっこうな時間がかかった。それが今じゃこの部屋に住み着いていたニシキヘビに巻き付かれて、あれは交尾をしている。最初にあれを目撃したとき、驚いてロブからヘビを引き離そうとしたら、逆にロブにとても強く吠えられてしまった。まるで僕との関係性が初対面にまで戻ったみたいな牙が剥き出しだった。それからというもの、僕はあの蛇がロブに近寄って来ても放っておくことにしている。そのあいだは部屋がうるさくなった。二種類の生き物がいるとはいえ、動物ってこんなにも多様な音が鳴るんだなと思える。嫌な気分に支配されないためにいつもアカデミックな姿勢を頼った。ロブたちの交尾のたびに興味関心を少しずつずらしていく。そう遠くない未来、僕はカメラを構えて様子を観察しだすかもしれない。そうなる前には散歩へ出かける選択肢も検討しておく必要があるだろう。とにかく日は落ちて、そのころにニシキヘビは壁をつたって天井へと帰っていった。するとロブはすぐに僕に駆け寄り、甘えてくるのだった。