9 男として
ろうそくを一つだけ灯した室内に、アルベルトはいた。
机に肘をつき顔を覆う。先ほどの情景が頭から離れず、眉間に深くしわを刻む。
振り払われてなお、泣いて縋るアデルの顔が脳裏から離れなかった。あんな風に激しく取り乱す彼女をこれまで一度も見たことがない。そしてそれをさせたのが己だという事実に、胸が締め付けられる。
「…ごめん…アデル………。本当に…ごめん…」
あの日。
アデルが発見されたあの町にアルベルトが居合わせたのはただの偶然だった。
半年前まで赴任していた東の辺境地。共に過ごした仲間の昇進の知らせを受け、アルベルトは彼のいる首都の外れの守衛屯所を訪れていた。かつての仲間が集い、皆酒に酔い上機嫌だった。話はアルベルトの結婚にも及び、祝いの言葉が飛び交う。アルベルトも久しぶりに時間を忘れ、仲間との語らいを楽しんでいた。まさにその時だった。
トントン…。
控えめなノックは、喧騒にかき消され誰の耳にも届かない。
カツンカツン…。
今度は先程よりも固い音が響いた。唯一その音を耳にしたアルベルトが席を立つ。
気のせいだという同僚にひらひらと手を上げ、閂を外す。そこには一人の女性が蹲っていた。
「おい、どうした…!!しっかりしろ!!」
女は酷く汚れていた。春先とはいえまだ寒い夜半に古びたワンピース一枚。その服もあちこちが裂け、至る所から血が滲んでいる。彼女の足跡は北東の森から続いていた。転々と続く血痕。見れば彼女の右足は痛ましいほどに赤く染まっている。
「…私はアデル…。ロウェル…侯爵家のアデル…です」
息も絶え絶えに、女はか細い声でそう名乗った。
思わず耳を疑った。同時に胸の奥がカッと熱を帯びる。
この女は、何を言ってるんだろう?
こんなに痩せてみすぼらしい女の、どこがアデルだというのか。そもそもアデルはもうこの世にはいないのに。
暗い森の中、誰かに看取られることもなくひとりぼっちで逝かせてしまったんだから。
どんなに寂しかっただろう。
どんなに心細かっただろう。
そんな事も知らずにこの女は、よりにも寄って彼女の名を騙ろうとしている。怒りのあまり全身が震えた。許せなかった。今すぐにでも外に放り出してやろうか。そう思った。それなのに……、
アルベルトはどうしてもこの女を突き放すことができなかった。ジンジャーの髪が、ヘーゼルの瞳が、アルベルトの心を惑わせる。頭では違うと分かっているのに、どうしてもその腕を離すことができない。
「……たすけて…お願い……」
「……っ」
己の中にポツンと灯った小さな光。その光が徐々に大きく、膨らんでいく。
「アデル…なのか?」
気づけばそう口が動いていた。
唇が震える。涙がにじむ。そんなアルベルトの背中にそっと何かが触れた。ゆっくりと上下するその感触があまりにも優しくて、アルベルトの目からとうとう涙が溢れた。
意識が朦朧とした状態にも関わらず、労わるように撫でる温もり。その温かさは間違いなく…
「アデル………っ!!」
アルベルトは強く彼女を抱きしめた。アデル。アデルだ。間違いない!アデルは生きていた!!その事実が夢のようでアルベルトは更に強く彼女を抱きしめた。小さく細い体は今にも折れてしまいそうで恐ろしかった。でもこの温もりは間違いなく彼女のもので…。
嗚咽交じりに彼女の名を呼ぶ。外聞などどうでもよかった。アルベルトはこの五年間、ずっと溜め続けた涙を一気に解き放った。
■◇■
コンコンコン……。
控えめなノックがアルベルトを現実に引き戻す。
「…アル?」
僅かな隙間から少しだけ顔を見せる婚約者。その仕草に、アルベルトは憔悴した顔を悟られないよう微笑む。
「…どうしたんだい?セシリア」
「なかなか戻ってこないからどうしたのかと思って…。もうすぐ食事の時間よ」
「…そうか。もうそんな時間か」
結婚を間近に控え、セシリアは夫人教育のため、公爵邸に滞在している。男爵家でもそれなりの教育は受けていたようだが、公爵家に嫁ぐにはそれだけでは不十分だった。二週間ほどが過ぎたが、成果は芳しくないと聞く。アデルが優秀だったぶん教師たちの評価はすこぶる厳しかった。
「今日は、驚かせてすまなかった」
ただでさえ勉強へのストレスを抱えている彼女に、心痛を与えてしまった事が申し訳なかった。
「私は大丈夫よ。あなたこそ…とても疲れた顔をしているわ」
頬に触れた彼女の手に、自分の手を重ね摺り寄せる。彼女の心遣いに胸がほんのりと温かくなる。
「僕は平気だよ。君が心を痛めていないかと、そっちの方が気がかりだ」
「……」
セシリアは、彼の手からするりと自身の手を引き抜くと、胸の前で祈るように両手を組んだ。
「セシリア?」
沈んだ顔。思いつめたような表情にアルベルトの顔も曇る。
「どうした?」
「私たち…本当にいいんでしょうか?」
セシリアがそう言った。
「……アデル様のあんなお姿、私初めて見ました。いつも凛とされていて、どんな時も微笑みを絶やさなかったあの方があんな風に取り乱されるなんて…」
アルベルトも、アデルがあんなに感情を表に出すところは初めて見た。あんな激情を胸に秘めている人だとは今日まで知らなかった。
「アル…」
浮かない表情で自分の名を呼ぶセシリアに、アルベルトは優しく先を促す。
「なに?」
「私たちの婚約…もう一度考え直しませんか?」
「……?!」
思いがけない彼女の言葉に、アルベルトは思わず立ち上がった。
「なにを……っ」
「だって…っ!このままではあまりにアデル様がおかわいそうで……ッ」
セシリアが両手で顔を覆う。
「五年っ…五年ですよ……っ。そんなにも長い時間、鎖につながれ奴隷のように生きて来られたのに…。それはあなたに会いたかったからだと…あんなに必死に訴えて……それなのに…こんな仕打ちを……。私…自分が許せないんです……」
「君が自分を責める必要はないよ。悪いのは全部僕だ。全ての責任は僕にある。合意もなく力で君を組み敷いた僕を…君は恨んで当然なのに…」
「あなたを恨むなんて…そんなことできるはずがありません!先に好意を持ったのは私です。私が自分の身の程を知りきちんと拒んでいればこんな事にはならなかった…。あなたが苦しむことはなかったのに…。本当に申し訳ありません…」
「…セシリア」
アルベルトはセシリアを優しく抱きしめた。
「僕は罪悪感から君との婚約を申し出たんじゃない。もちろん責任を取るという気持ちに偽りはない。でもそれ以上に君の優しさを愛おしいと思った。だから婚約を申し出たんだ。一生を共にしたいとそう思った。アデルとの事は…もういいんだ。話もきちんとついている。僕に未練はないよ…。だから信じて欲しい」
「…アル」
「幸せになろう、セシリア。きっと僕たちの子はかわいいよ」
セシリアの涙をぬぐい、その頬に口づけた。
(そうだ…僕はセシリアを幸せにすると決めた。だからもう振り返ってはいけない。アデルへの思いはあのペンダントと一緒に置いてきたから…)
本日二度目の更新です。お読みいただきありがとうございました。
次話投稿は明日13:00〜14:00を予定しています。
ペンダントの真実が明らかになります。
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まだまだ続きます。
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