71 魔法が解ける時
あの日、私の人生は一夜にして暗闇に突き落とされた。
突如深夜に訪れた招かれざる客。
彼らは何の躊躇いもなく両親の命を奪うと、私と弟妹たちを攫った。何日も狭い檻に閉じ込められ辿り着いた先は、違法に奴隷競売が行われる施設だった。怯える弟妹と引き離され、私はそこで一人の商人に買われた。弟妹とはそれきりだった。商人は更に私を、ある資産家の男に売り渡した。資産家はある道楽のために私を買った。その日から私は「剣闘奴隷」として闇闘技場で戦う事になった。
男は私の目が気に入ったと言った。
両親から貰った赤い瞳は、ゴダード人としての誇りだった。まさかこの瞳を恨む日が来るなんて、幼い頃の私は夢にも思わなかった。
それからの日々、私はその日の糧を得る為、毎日懸命に闘った。男にとっては替えが利くおもちゃ。だが私にとっては、負けたら終わりの一回勝負。ここで私は、自身も気づかなかった驚くべき才能を開花させた。連戦連勝の日々は私に生きる糧を施し、同時に男の懐も潤した。
数年が経ち、心からすべての感情が失われた頃、私は一人の男と対戦した。男は痩せ細り、武器を持つ手はブルブルと震えていた。勝負は一瞬だった。倒れた男に背を向け、褒美に骨付きの肉でも要求しようかと歩き出す。
「ねぇちゃ……ん……。タル…ジュ……おねえ……ちゃ……」
私は足を止め、男を見た。男は既に事切れていた。その瞳は私と同じ色をしていた。
……私は、自身の手で弟の命を虫けらのように奪った。
その後の事は良く覚えてない。
気付いた時、私は知らない路地のガラクタに身を寄せていた。もうすべてがどうでも良かった。何もかも……、生きている事さえが苦痛だった。
「ねぇ、大丈夫?」
突然、鈴の音のようなかわいらしい声が聞こえた。一瞬、妹の顔が浮かび、びくりと体が震える。
「怖がらなくても大丈夫よ。あなた、名前は?」
布の隙間から覗くと、そこには一人の少女が立っていた。ソバカスの浮いた頬に菫色の瞳。昔よく母が入れてくれたシャイハリブのような淡い茶色の髪。
私が名乗ると、少女はなぜかがっかりしたように唇を尖らせた。クルクルと変わる表情は幼かった妹を思い出させた。
「あなた、逃げてきたんでしょ? これからどうするの?」
帰る家はとうにないのだから、行くところなんてあるはずもない。
「だったら私の家に来ない?」
少女が私に手を差し述べた。私は導かれるように、その手を掴んだ。
◆□◆□◆
「お嬢様……!? 気がつかれましたか!?」
聞き覚えのある懐かしい声が、アデルの耳に響いた。
「……ア……リス?」
「そうです! アリスです!! ああ……よかった……っ! 三日も目を覚まされなかったんですよ! 私、皆さんを呼んできますね……っ」
アリスが涙を拭いながら部屋を後にする。扉が閉まると、アデルはゆっくりと周囲を見回した。見慣れた窓に見慣れた家具。間違いない。ここはロウェル家のアデルの部屋だ。
アデルはゆっくりと体を起こした。手首と足首がヒリヒリと痛むが、それ以外、体にまったく問題はない。
「大丈夫か。アデル」
ノックと同時にドアが開き、ノアが大きな歩幅でアデルの枕元に立った。
「大丈夫。それより……あれからどうなったの? タルジュは? それになんであそこにテオが……っ?」
彼の顔も温もりも、全て覚えている。あの時助けてくれたのは、確かにテオだった。
「落ち着け、アデル」
「私が全てお話し致します。そのように殿下から申し付けられていますので」
「え? フェデリカ……さん? どうして……?」
いつもの艶やかな雰囲気から一転、騎士服に身を包んだフェデリカがそこにいた。その姿は凛々しく、別の意味で美しい。
「今まで隠していて申し訳ありません。私の本当の名はフリーダ=デリス。出身はソアブルですが、現在はテオドール第二王子殿下直轄の第四騎士団に籍を置く騎士です」
「フリーダ……? 騎士……?」
「はい。『娼婦フェデリカ』はノールズに潜入する際に使っていた偽名です。あ、言っておきますが、殿下とは体の関係は一切ありません。それだけは何があってもお伝えするようにと申し付かっています」
「あの……殿下ってもしかして……」
「はい。あなたもよく知っている『テオ』が、私のお仕えするテオドール殿下です」
「………」
アデルはフェデリカ……もといフリーダの顔を見つめたまま固まった。想像もしなかった真実に言葉が出ない。
(テオが……第二王子殿下……)
「あの……大丈夫ですか? アデル様?」
いつもと雰囲気もしゃべり方も違うフリーダに戸惑いつつ、アデルは静かに頷いた。
「……大丈夫です。続けてください」
「オルコット家の侍女タルジュはあの場で取り押さえ、現在勾留中です。あなたの誘拐に関与した疑いでセシリア嬢も同じく、身柄を押えました。ただ……」
フリーダはそこで一旦言葉を呑んだ。
あの日…。
アデルがタルジュに連れ出された事を知った殿下の、怒りと焦りは凄まじかった。
その足でオルコット邸に押し入ると、セシリアを締め上げた。
「アデルはどこにいる?」
「ア……アデル様は天国に……」
「とぼけるなっ!! お前があのタルジュとか言う侍女と共謀している事は分かってる!! 言えっ!! アデルはどこだ!!」
「……知らない。……知らない…っ ……知らないっ! いや……こわいっ! タルジュ……っ! どこにいるの!? タルジュ……ゥゥ!!」
セシリアが狂ったように侍女を呼ぶ。その顔が突然、不自然に歪んだ。
「ア……アァ………ッ いた…ぃ……っ!」
「……お前、その顔……っ」
テオの目が大きく見開く。
「……え…?」
セシリアも、自分の顔に違和感を感じたのか、右手で自身の右頬を触る。その不自然な触り心地に、セシリアは震えながら、鏡ににじり寄った。
「……な…に、これ……?」
セシリアの顔は、なぜか右側半分だけが彼女の本来の顔に戻っていた。
「いや……っ! 何で……っ!」
「……どういうことだ?」
それまで、冷めた瞳でセシリアを眺めていたラウルが、足元に散らばる何かを拾い上げた。
「あ~ぁ。きっと百面相してたから、魔法がとけちゃったんだね。君のお父様が言ってたよ。馴染むまでは針が抜けやすいから、表情は動かさない方がいいって言われたって」
「……知らないっ! そんなの聞いてない!! タルジュ……ッ どこ……っ? タルジュ……!!」
セシリアは取り乱し、とても話ができる状態ではない。
「あの……」
その時、一部始終を見ていたオルコット家の執事が言葉を挟んだ。
「屋敷の裏に、ここが建つ以前よりあった古い倉庫があります。タルジュは旦那様からの信頼も得ていましたので、個別に仕事を頼まれるとよくそこに籠っていました。何をしていたかはわかりませんが、もしかしたら……」
「フリーダはここに残れ! 絶対に死なすなよ。ラウル! 義兄上! 行くぞ!」
「あに…うえ?」
三人が部屋を飛び出すとフリーダは、激しく嗚咽するセシリアの口に布を噛ませた。
「舌を噛んで死なれては困りますので、失礼します」
ついでに暴れないよう、後ろ手に両手を縛る。
「あの……大丈夫ですか? マクミラン卿」
声もなくただ茫然と立ち尽くすアルベルトに、口下手のフリーダはこれ以上かける言葉を見つけられない。
「……セシリア嬢は聴取の対象となりますので、身柄はこちらで預からせて頂きます。宜しいですね?」
「……」
アルベルトからの返事はなかった。
彼の気持ちを慮り、フリーダは静かに息を吐いた。




