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7 贈り人は…

 甘い香りに、目が覚めた。


 無意識に持ち上げた腕が軽々と持ち上がる。その手首に枷はない。それに繋がれた重い鎖も、今はない。

 横たわっていたのは清潔なベッド。手触りの良い白いシーツに柔らかいクッション。

 今のは夢。そう、あれはもう五年も前の出来事だ。


 視線を巡らせた先に、花瓶いっぱいに活けられた白紫色の花を見つけた。甘い香りの正体は沈丁花。アデルが大好きな花だ。


「……」


 アデルはゆっくりと体を起こすと、香りの元である花瓶に近づいた。

 あんなに好きだった香りなのに、今はただ胸が苦しくなるばかりだ。強い芳香に吐き気をもよおし、思わず口元を抑える。アデルは花瓶からそれらを引き抜くと、勢いよく窓を開けた。


 吹き込む春風が、よりいっそう強い香りを室内に招き入れる。

 階下には盛りを迎えた満開の沈丁花。庭師によって丁寧に育てられたそれらは、月に照らされより強く香る。

 アデルは持っていた花枝を静かに眼下に投げ落とした。

 花枝はまるで最初からそこにあったかのように、景色に溶け込む。アデルはその様子を見届けると静かに窓を閉めた。



■◇■



 アルベルトとの再会から何日が経ったのか。

 あの日以降、アデルは自室に引きこもっていた。

 カーテンを閉め切り、ただ真っ暗な部屋で横になる。何も考えたくなかった。外に出たいとは思わなかった。食事をとる気にもならなかった。ただただ、鬱々とした日々をぼんやりと過ごす。


 ショックだった。

 知らない間に婚約が解消されていたことも、彼に新しい婚約者がいて既に身ごもっていることも。

 そして、事実を知っていたにも関わらず何も語らなかった兄に、説明責任を放棄し未だ顔すら見せない父……。何事もなかったかのように笑顔で接してきた使用人たち。


 誰も信じられなかった。

 唯一の味方を失った事で、アデルは生きる意味を見失った。


 自分は何のために耐えてきたのか。満足に与えられない食事に労働、生きて帰るために頑張ってきたことが全て無駄な努力に感じた。


(もういい……。もう全部、どうでもいい……)


それでも死にたいと思えない自分が滑稽だった。





 コンコンコン。


 その日、ノックと同時に勢いよくドアが開いた。人の気配にビクッと身をすくめるも、すぐに弛緩する。

 カツカツと大きな歩幅の足音が響き、カーテンが大きく開かれる。

 まぶしさに手で光を遮ると、その隙間から仕立ての良いコートの裾が目に入った。


「いつまでそうしているつもりだ」


そっけない声がそう言った。


「…お兄様」


 帰宅した足でそのまま来たのか、帽子にコートそれにステッキまで全てを身に着けている。


「お久しぶりですね」

「……」


 それには答えず、帽子を取りコートのボタンを外すと、少し乱暴にカウチを引き寄せ腰を下ろす。


「随分長いこと、引きこもってるらしいな」

「……」


 今度はアデルが兄の問いに無言を貫く。


「皆が心配している。あまり使用人(かれら)に負担をかけるな」


 兄はメイドが運んできたお茶に口をつけるとそう言った。


「……だれが私の心配なんてしてくれるのですか?」


 自嘲の笑みがこぼれた。


「この家に戻ってから、お兄様以外の家族と一度も顔を合わせていません。そんな状況で、いったい誰が私の心配を?」

「……」

「私が帰ってくるなんて、誰も予想してなかったんでしょ?誰も望んでなかった。お父様もお母様も。……アルベルトも…」


 兄は黙ってアデルを見つめる。

 アデルは立ち上がると、あの日マーカスから渡された猫足のジュエリーケースを無言で兄の胸に押し付けた。


「これ…お兄様ですよね?」


 アデルはケースの蓋を開けると、中身を取り出し兄の眼前に突き出した。


「これを贈ったのはお兄様ですよね?」


 あの日、贈られたガーネットのペンダント。その時から予感はあった。


「アルベルトは私にガーネットなんか送らない。私の誕生石はアメジストだから。本当の石を知ってるのは家族の中でも一部だけ…」


 アデルの誕生は、まだ寒い冬の最中の深夜だった。経産婦であったにも関わらず、アデルの母は丸二日をかけてアデルを産み落とした。皆が疲れきっていた。それが経験の浅い見習い医師であれば尚更だった。疲弊した意識の下、作成された書類の日付はひと月ズレていた。誰も気づかぬまま届け出は受理され、戸籍が作られた。


「私の本当の誕生石を贈るのは、今も昔もお兄様だけよ」


 アデルはケースの中にペンダントを落とすと、静かに笑みを浮かべた。


「おかしいと思ってたの。いくら時間が経っているとはいえアルベルトがあんな固い文字を書くとは思えない。それにカードの文言も…多少は変えるべきじゃない?少なくともアルベルトはそういう気遣いができる人よ。騙るなら、もう少し相手に寄せるべきだわ」


 アデルの指摘に兄が表情を変える事はなかった。ただ無言でペンダントに目を落とす。


「…なんで、こんな事したの?」


 理由なんて聞くまでもなかった。これは明らかな同情。妹があまりに哀れで、そうせざる負えなかったんだろう。

 それでも、非難する権利がアデルにはある。


「私がかわいそうだった?五年の間に最愛の婚約者には新しい人がいて、しかも子どもまで…。だから少しでも希望を持たせてやろうって…そう思った?」

「……」

「そんな嘘がすぐにバレることくらい、頭のいいお兄様だったらわかるでしょ?私がもう少し慎み深い淑女だったら、もっと時間稼ぎができたかもしれない…でもしょうがないでしょ。もともと大人しくしてるの苦手なんだもん。ずっと無理していい子のふりしてただけだもん…っ」


 次第に感情が高ぶり、声が震える。


「わかってるわよ…っ。ずっと消息不明だった私の事をみんながどう思ってたかなんて…っ。死んでると思ったでしょ?誰も私が生きて帰ってくるなんて思ってなかったんでしょっ!!だから、お父様もアルベルトも……っ!」


 そこまで言って口をつぐむ。涙が床にポタリと落ちた。


「最初に教えて欲しかった…。アルベルトに再会する前に…。そうしたらもっと冷静に…会いに行く事だってなかったのに…」


 自分の行動に後悔しかなかった。あんなに無様で惨めな醜態をアルベルトに晒してしまった事が悔やまれて仕方がない。最愛の人との最悪な別れを思い出し、アデルは自らの体を強く抱きしめた。



「……アルベルトとの事は残念だった。だが俺は、お前が無事戻った事を心底神に感謝している」


 昔から感情が乏しく口数の少なかった兄の言葉にアデルの口から嗚咽が漏れる。

 そんなアデルを優しく抱きしめてくれた兄の胸を借り、アデルはようやくすべてを吐き出し思い切り泣いた。


本日もお読みいただきありがとうございました。

少々切ない展開が続いておりますが今しばらくお付き合いくださいませ。


次話投稿は明日14:00頃を予定しています。


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