68 セシリア=オルコット③
セシリアの回想回ラストです。
私は「スラムの貧しい子ども」から一転、「貴族のお嬢さま」になった。
毎日キレイな服を着て、毎日お風呂に入り、毎日おいしいものをお腹いっぱい食べられる、夢のような日々。アデル様と同じ日常を過ごしていると思うだけで心は踊り、アデル様の住む世界にほんの少しだけ近づけた事が、心の底から嬉しかった。
私を引き取ってくれたのは、オルコット家の当主でマーシャル様という名前の人だった。時計の持ち主のミゲルという人の弟らしく、結婚はしておらず子どももいない。後々聞いた話だと、ミゲル様は数年前、突然いなくなってしまったそうだ。そんな人の時計を持って私が現れたのだから、本当にお兄さんの娘だと思ってくれたのかもしれない。何にせよ、私は運が良かった。
マーシャル様は私に関して、全くの無関心だった。
最初の日こそ、それなりの教育と作法は身につけるよう言われたけれど、それ以降顔を合わせる事は一度もなかった。
私はとにかく必死で学んだ。アデル様に会った時に、少しでも恥ずかしくない自分になりたかったから。読み書きに計算、裁縫、ダンスにマナー。自分ではそれなりに出来ているつもりだったけど、授業が終わると教師たちは皆ため息をつく。でも私はあまり気にしなかった。アデル様と同じ事を学べているだけで、十分満足だったから。
『セシリア=オルコット』になっても、私は勉強の合間を縫ってアデル様の屋敷に通い続けた。昔とは違い綺麗になった私を見てほしかったし、もしかしたら声をかけてもらえるかもしれないと、淡い期待を抱いていた。
結局アデル様とは一度もお会いすることは出来なかったけど、ある日の帰り道、私は素晴らしいモノを拾うことが出来た。
それを拾ったのは、以前私が住んでいたスラムの目と鼻の先。
大通りからさほど離れていないこの細い路地の先には、暗くて汚くて悪臭が漂う空間が広がっている事を私は知っている。嫌だった。思い出したくもなかった。それなのに、ほんの一瞬だけ母の顔が浮かんだ。あの後彼女はどうなったんだろう。
「……」
でもそれは、本当に一瞬だった。彼女がどうなろうと関係ない。今の私はオルコット男爵家の立派な令嬢、セシリア=オルコットなのだから。
私は前を向くと一歩を踏み出した。ここにはあまり近づかない方がいい。そう思った。……が。
ふと視界に入った大きな塊が気になり、再び足を止めた。
建物の壁に沿って積み重ねられたガラクタの一角に、隠すように置かれていた大きな布の塊。地面と布の間から少しだけはみ出ていたのは人の足先。
私は、本能的に「それ」が自分より「下」である事を悟った。
スラムにいた時にもたまに見かけたそれは、いわゆる『逃亡奴隷』だった。あまりに酷い扱いに耐え切れず、逃げ出す奴隷は後を絶たないと聞いた事がある。逃げたところで行く当てなんてない彼らが、最後にたどり着くのは決まって私の住んでいたスラムだった。結局見つかって連れ戻される彼らを何度も見た。そんな彼らに比べて自分はまだまし。そう思う事で、僅かな優越感に浸っていた。
きっとこの人も連れ戻されるんだろう。
運が悪い人はどこまで行っても運が悪い。私とは違う。そう思いながら再び歩き出す。
でも……。
その足がふと止まった。
(アデル様なら……こんな時どうすると思う?)
不意に心の声がそう問いかけた。
そんな事は考えるまでもなかった。
「ねぇ、大丈夫?」
私はアデル様がそうしてくれたように、優しく微笑みながら話しかけた。
突然声をかけられたことで驚いたのか、布の塊がビクリと震えた。隙間からそっと窺うように見上げる赤い瞳。その色は、母の頭から流れていたものにとてもよく似ていた。
「怖がらなくても大丈夫よ。あなた、名前は?」
私はこれまで何度もトレースしたアデル様になりきって話しかける。
きっとこの人も名前なんてないはず。そうしたら私が名前をつけてあげよう。ワクワクしながらそう尋ねた。
「……タルジュ」
女の声で塊がそう名乗った。
「……タルジュ」
がっかりした。同時につまらなくなった。でもアデル様ならそんなふうには思わない。気を取り直して、更に話しかける。
「あなた、逃げてきたんでしょ? これからどうするの?」
タルジュは、ぎゅっと強く唇を噛むと、左右に首を振った。
「わからない。行くとこなんて……どこにもない」
「だったら私の家に来ない?」
「え……?」
タルジュが驚いたように私を見上げた。その瞳が宝石のようにキラキラと輝く。
(キレイだな……)
思わずそう思った。私はその瞳から、しばらく目が離せなかった。
タルジュは、私が想像していた以上に優秀な人間だった。
飲み込みの速さと理解力の高さに仕事の正確さ。どれをとっても完璧で、その上奴隷だったとは思えないほど所作も美しく、他国の言葉まで話すことができた。
「タルジュはほんとすごいわ! まるでアデル様みたい……っ」
私は事あるごとにそう言ってタルジュを褒めた。
「お嬢様。アデル様とは、どのような方なのでしょう?」
私はアデル様の素晴らしさを延々と語って聞かせた。タルジュもそんな私の話を嫌がることなく聞いてくれていたが、不意に不思議な事を言いだした。
「お嬢様は、アデル様になりたいのですね?」
何を言ってるのかわからなかった。私はただアデル様の傍にいたいだけ。毎日顔を見て、声を聞いて、お揃いの服を着て、同じものを見て、食べて、感じて、そして……。
「………」
よくわからなくなった。
でもどう考えても、私なんかがアデル様みたいになれるわけない。急に黙り込んだ私にタルジュが一言、
「承知しました」
そう言った。
それ以降、タルジュは私にアデル様の近況を調べ、報告してくれるようになった。
タルジュの情報収集能力はすごかった。
アデル様の好きなもの、好きな人、嫌なこと、嫌いな人、何を食べ、何を学び、その日誰と会ったのかまで、これまでの私では絶対に知り得ないような情報を逐一教えてくれた。私は益々アデル様に心酔した。自分の隣にいつもアデル様がいるような、そんな気にさえなった。
そんな中、私にとって信じられない情報が舞い込んできた。
「ほんとなの、タルジュ。アデル様がご家族から除け者にされてるって……」
信じられなかった。誰からも愛されるべきアデル様が、そんな風に虐げられているなんて夢にも思わなかった。
「何とかしてアデル様を助けてあげたいわ。ねぇ、タルジュ。何とかできないの?」
その頃にはもう、私はタルジュに対して絶大な信頼を寄せていた。タルジュならアデル様を助けてくれる、そう信じていた。
「それでは、あの家からアデル様を連れ出してしまうのはどうでしょう? 旦那様の知り合いのお屋敷に匿ってしまえば、もう誰もアデル様に手出しできません。きっとアデル様もお嬢様に感謝なさるはずです」
タルジュの提案に、私は飛び着いた。夢のようだった。ようやく自分がアデル様の力になれる。私の気持ちはこれまでの人生で一番高揚した。
私たちはすぐさまアデル様を救いだす計画を立てた。そして彼女が十三歳の誕生パーティーに乗じて、悪魔たちの元からアデル様を救い出した。




