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66 セシリア=オルコット①

 物心がつく前から、私は一人だった。


 父親の顔なんて知らない。唯一の肉親だった母親も、家に帰って来る事はほとんどなかった。たまにふらっと帰ってきたかと思えば、数日分の食べ物を置いてすぐにまた出て行ってしまう。行かないでと泣いて縋っても無駄だった。食べ物が底をつき、お腹が空いてどんなに泣いても、誰かが助けに来てくれた事は一度もなかった。


 薄暗い部屋でたった一人。

 ただじっと、空腹に耐えながら黙って母の帰りを待つ日々。

 幼い私は、それ以外の方法を知らなかった。


 母の仕事は『娼婦』だった。それがどんな仕事なのか、当時の私にはわからなかったけど、彼女の隣にはいつも違う男の人がいた。


 母と私の間にはいくつか約束があった。


 街で見かけても絶対に声をかけてはいけない。

 夜、母が男の人と帰って来たら外で待つこと。

 笑顔でいること。

 泣かないこと。


 少し大きくなると、母は私の手を引いて外に連れ出すようになった。

 そんな日の母は大抵機嫌がよかった。楽しそうな母の姿を見るのは私も嬉しかった。

 行き先は、決まって男の人のところだった。

 毎回違う男に向かって、母は決まってこう言った。


「この子はあなたの子よ」


 男たちの反応は様々だった。

 愕然とした顔で金品を握らせる人。膝をついて謝る人。怒鳴り散らし暴力を振るう人……。

 前者の場合、帰り道の母はとても機嫌が良かった。たくさん話しかけてくれたり、美味しいものを食べさせてくれたり。でも後者の場合、母の機嫌はすこぶる悪かった。無視されるのはいい方で、いきなりぶたれたり、その場に置き去りにされる事も珍しくはなかった。


 幼年期を過ぎると、私は大抵の事は一人でするようになった。

 母は変わらず家には寄り付かなかったけれど、それでも何とか生きて行く事は出来た。


 私の家は「スラム」と呼ばれる地域にあった。周囲も皆貧しい家ばかりだったけど、その中でも私は飛びぬけて貧しかった。そんな私は、みんなにとって憂さを晴らすにはちょうどいい対象だった。

 だから年の近い子どもたちは、大抵大勢で私をからかった。


「おい、どこ行くんだよ。お前みたいなやつが歩くと道が臭くなるだろ!! あぁっ! くっせぇーっ!」

「そうだそうだ!! きたねーんだよ! どっか行けよ!!」


 私はいつものように無視してやり過ごす。相手にすれば更にからかいがひどくなる事を知っていたから。


「おい! むしすんなよ!!」


 そう言ってその中の一人が、私が胸に抱いていた人形を取り上げた。それは初めて母が買ってくれた人形で、私の唯一の友達だった。


「か、かえして……っ」

「きったねー人形だなぁ。お前といっしょでくっせーし!! ゴミじゃん」


 少年が人形の腕を持って振り回す。するとどこからか、ビリっと嫌な音がした。


「やめて……っ」


 涙がこぼれそうになるのをぐっと堪える。母との約束を破れば怒られるから。


 その時、


「いてっ!! いたっ!! おい、なんだよ! やめろ!!」


 少年が突然騒ぎ出した。顔を上げると、知らない女の子が大きな本を少年めがけて振り上げている。

 キレイな服を着た女の子だった。歳はおそらく私と同じくらい。


「おい、なんだよ……っ。やめろっ……いたい……ふぇ……っ」

「うるさい!! なくな!! おおぜいでよってたかって何やってるのよ!! きしどうにはんするわ!! はじを知りなさい!!」


 女の子は周囲の少年たちにも同じように本を振り回し威嚇する。そうして、彼らがひるんだ隙をついて、私の手を握ると勢いよく走り出した。


「にげるわよ!!」


 女の子の足は速かった。ついていくのがやっとだったけど、気づけば私たちはスラムの外の大通りに出ていた。


「はぁはぁ、ここまでくればだいじょうぶ。はぁー、こわかったぁ」


 女の子の手は震えていた。私は改めて女の子の顔を見た。

 ジンジャー色の髪に茶色のような緑の瞳。つんと上を向いた鼻に唇はつやつやのピンク色。それはどこかの店先で見たお人形さんのようで、私の目は釘付けになった。


「……あっ、お人形……っ」


 混乱の中、あの場に置いてきてしまった事に気付いた。


「ふふっ、大丈夫! ちゃんとつれてきたわ」


 女の子の手にはしっかりと人形が握られていた。


「あ、手がとれそう……。ほんと、ひどいことする子たちね」


 女の子は斜めにかけていた小さなカバンから、ハンカチを取り出すと、軽くほこりをはたき、優しく人形を(くる)んだ。


「ごめんね。今日はおさいほうのおどうぐを持ってきてないの。おうちにかえったらおとなの人に直してもらってね」


 女の子は私に人形を差し出した。真っ白なハンカチに包まれた人形は、恥ずかしくなるほど黒くみすぼらしかった。彼らがゴミといった理由も今なら頷ける。


「名まえは?」


 少女が私に尋ねた。


「……ない」

「ちがうちがう! この子じゃなくあなたのなまえよ。なんていうの?」

「……ない」


 私には名前がなかった。母が私を呼ぶ時は決まって「あんた」か「おまえ」。これまで疑問に思った事は一度もなかった。


「……じゃあ、『セシリア』はどう?」

「え……?」


 女の子は嬉しそうに手に持っていた本を見せてくれた。


「この本にでてくるお姫さま、『セシリア』って言うの。あなたと同じミルクティーみたいな髪の色をしてるのよ」

「セシリア……」

「よかったらこの本あげるわ。よんでみて」

「わたし、じがよめない……」

「そっか。じゃあ、今よんであげる」


 女の子の笑顔から、私は目が離せなかった。世の中にはこんなキラキラした女の子がいるんだということをこの時初めて知った。本を読む声はまるで小鳥のさえずりのようで、私は夢見心地で聞きいった。

 本の内容は王子様がお姫様を助け出す物語で、王子様がお姫様の手を引いて走り出す場面はさっきの自分と重なった。


「どう? おもしろいでしょ?」


 女の子が私の顔を真っすぐに見つめる。大抵の人は私を見ると顔を背ける。それは母ですら同じだった。それなのに、この子だけは真っすぐに私を見てくれる。それが嬉しかった。

 私が頷くと、女の子は再びカバンの中から何かを取り出した。薄紙に包まれていたのは卵色のクッキー。


「あとはマフィンと……あ、チョコもある。走ったからお腹がすいちゃった。いっしょにたべよ」


 女の子はふっくらとしたパンのようなものを半分に割ると大きい方を私にくれた。初めて食べるマフィンは柔らかくて甘くてこれまで食べた何よりもおいしかった。


「チョコは一個しかないから『セシリア』にあげる。とけちゃうから早く食べてね」


 包み紙のまま渡された丸いお菓子を、私は両手に乗せて眺めた。


 ずっとこの時間が続けばいい、そう思った時だった。


「アデルお嬢様!!」


 走ってきたのは、若い男の人と年配の女の人だった。


「もう、一人でいなくなってはいけないとあれほど言っているのに! どうして言いつけを守れないんですか!」

「へへ、ごめんね。マーサ。久しぶりのお出かけだからたのしくて」


 愛くるしい笑顔に、年配の女の人も顔を和らげる。


「何かあったら大変ですから、これからは急に走り出したりしないで下さいね。ばあやは追いつけませんから」

「はーい」


 返事と共に微笑まれ、ドキッと胸が高鳴る。


「……それで……この子は何ですか? ちょっとあなた、どうしてお嬢様の隣に座っているの? あっちに行きなさい」


 女の人がハンカチで口元を覆い、しっしっ、と私を手で追い払う。慣れた扱いだったけど、彼女の前でされるのはすごく嫌だった。


「やめて、マーサ! この子はわたしのおともだちなの。『セシリア』って言うのよ」


(おともだち………)


 私の胸の中が、急に暖かくなった気がした。


「まあ! いけません!! こんな子と友達だなんて知られたら奥様と旦那様がなんておっしゃるか……っ! さあ、もう行きますよ」


 女の人は無理やり女の子の手を引っ張って歩き出した。女の人が若い男の耳元で何かを囁くと、男は頷いて、私の前に立った。ぶたれるのかと思い目を瞑ると、男は「手を」と一言言った。私が手を出すとその上に何か固いものが乗せられた。

 


 銀貨だった。

 


 初めて見るキラキラ光るそれを、私はじっと見つめた。


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