53 過去の因縁
「これは……ブリジット嬢にマチルダ嬢。大変ご無沙汰しております。お変わりはありませんでしたか?」
立ち上がったノアが優雅に礼をし、丁寧な口調で挨拶を述べる。
「ああん、ノア様ぁ……っ! ご無沙汰しておりますぅ! まさかここでお会いできるなんて……今日は来てよかったですわぁ!」
キャッキャと舞い上がるブリジットに、チッとノアが舌打つ。
「それで、どうされました? 私たちは今、重要な商談中なのですが、なにかお急ぎのご用件でも?」
口調は丁寧だが、目は相変わらず笑っていない。空気を読め、早く帰れと言わんばかりの言い回しにも、この厚顔な令嬢は全く気付かず、嬉々としてノアの忍耐力を試してくる。
「いいえ、特に用向きはございませんのぉ。ただぁ、久しぶりにノア様をお見かけしたのでぇ、ご挨拶をと思いましたの。アデル様があんなことになって全くお姿をお見掛けしませんでしたでしょ? 私ずぅ~っと心配しておりましたのよぉ。それは夜も眠れないほどに……」
甘ったるい喋りにノアのコメカミがピクリと動く。ハンカチで目頭を押さえ、過剰に優しさをアピールする様子があまりに醜悪で、ノアの苛立ちは更に募る。
「……そうでしたか。まさかあなたにそんなご心労をおかけしていたとは夢にも思いませんでした。この通り、私は変わらず元気に過ごしております。どうぞ今後は安心して夜をお過ごし下さい」
「まあ……私の心配までして下さるなんて……っ! 嬉しくて今夜は眠れそうにありませんわぁ!」
「寝ろっ……て下さい」
ブリジットは昔から、ノアに執心していた伯爵家の令嬢だ。アデルに近づき、ノアとの仲を取り持って貰おうと画策していたが、それをアデルに見透かされ恥をかかされたと思い込み、以来、必要以上に嫌がらせをして来るようになった因縁の相手。
空気を読まず、なかなか立ち去ろうとしない二人に、ノアの苛立ちがピークに達する。右手の人差し指はせわしなくテーブルを叩き、ソーサーに置かれたティースプーンがカタカタと音をたてる。見かねたアルベルトが思わず間に割って入った。
「あの、申し訳ありません、ブリジット嬢。御覧の通り私たちは今商談の真っ最中でして……」
「まあ、そうでしたの!? さすがはノア様ですわぁ! こんな所でもお仕事をなさってるなんて……っ! 私、カフェは休息と交流の場だと父から教わっていましたの。やっぱりできる男は違いますわね。お恥ずかしいですわぁ」
「……」
絶妙にかみ合わない会話に、アルベルトの顔からも表情が失われ、戦意を喪失したのが分かる。
「あの……」
すると、それまでブリジットの後ろで影を潜めていたマチルダが唐突に口を開いた。元々ブリジットの腰巾着のような存在で、昔からあまり口数は多くなかったが、それは今でも変わらないらしい。
「そちらは……初めてお目にかかりますわね。どちらの家門のご令息でいらっしゃるのでしょう? よろしければご紹介いただいても?」
見れば頬を赤らめポーッとした顔でアデルを見つめている。アデルはそんなマチルダにニッコリと微笑みかけた。
『初めてだなんて、そんな冷たい事を仰らないでください。昔はあんなに仲良くして下さったのに。あんまりですわ』
アデルの微笑みにマチルダは更に顔を赤らめ、そして狼狽えた。
「あ、あの、ごめんなさい。言葉が……その、分からなくて……。なんて仰っているの?」
ブリジットを振り返るも、彼女もブンブンと左右に首を振る。そんな二人にお構い無く、アデルは満面の笑みに早口のゴダード語で一気にまくし立てる。
『最後に会ったのは随分と昔の事ですけど、あれだけの事をしておいて忘れる訳はありませんよね。少なくとも私は覚えておりますわ。その節は色々としていただきましたもの。大量の塩が入ったお茶でもてなして頂いたり、靴を隠され裸足で帰った事もありましたね。参加者が一人もいないお茶会にご招待頂いたり、舟遊びでは穴の空いたボートに乗せて頂きましたっけ』
「……お前、そんな事されてたのか」
「……?」
「……?」
目を丸くする兄ノアと、曖昧な微笑みを浮かべたまま首を傾げる二人の令嬢。
『挙げ出したらキリがないですけど、細工されたバルコニーの手すりに突き飛ばされた時は流石に肝が冷えましたわ。一階ならともかく二階でしたから。私だったからよかったものの、いくらなんでもあれはやり過ぎだったと思います。でもまあ、今となってはそれもいい思い出です。そうですわよね? ブリジット様、マチルダ様』
言い終えた瞬間、ノアとアルベルトが同時に立ち上がった。二人の顔には、明らかに怒りの表情が浮かんでいる。
「ど、どうなさったの? ノア様。アルベルト……様?」
「ブリジット嬢、近々御父上に面会を願いたいのですが、ご都合を聞いてきて頂いてもよろしいでしょうか? なるべく早く。そう今すぐにでも」
「えぇっ!! ノア様が我が家に……っ?! も、もちろんですわ!! すぐに会えるように手配いたします!! ああ、こうしてはいられない……っ! ノア様に満足していただけるおもてなしをしなくちゃ。行くわよっ! マチルダ!!」
口調からは甘さが消えうせ、挨拶もそこそこにブリジットがその場を立ち去る。
急激なノアの対応の変化に不穏な空気を感じ、アデルが問う。
『何する気?』
『何も? 出資していた事業から手を引く旨を伝えに行くだけだ』
『大丈夫なの?』
『俺個人の出資金を回収するだけだ。大した問題にはならないだろう。まあ、あの派手なドレスも、ここへの入店も一生出来なくなるくらいには困窮するだろうがな』
『……』
それはかなりの痛手なのでは……と思ったアデルだったが、敢えて口にはしなかった。
ブリジットの後ろを慌てて追いかけるマチルダが不意に足を止め、振り返った。
「あの、アルベルト様。この度はセシリア様のご出産、おめでとうございます。お祝いが遅れて大変申し訳ございません」
「はい……?」
不意に贈られた祝いの言葉に、アルベルトが戸惑った声で聞き返す。
「出産のお祝いは、近くお送りさせて頂きますので……」
「ちょ……ちょっと待ってくださいっ。あの……妻はまだ出産しておりませんが……」
「えっ?」
マチルダが口元に手を当て驚いたような顔を見せる。
「え……でも私、先日拝見しましたのよ。首都のブティック街を侍女と一緒に歩いていらっしゃっるところを……。お腹がスッキリしていらっしゃったからてっきりお生まれになったのかと思って…」
「おそらく見間違いでしょう。妻は今実家に戻っております。出産はあと三週間ほど先になるかと。三日前に様子を見に行きましたが、最近では庭に出るのもしんどいと言っていましたから、そのような場所に出かけるとは思えません」
「そう……でしたか。いやだわ、私ったら変な誤解を……。申し訳ありませんでした。それでは失礼いたします」
遠くからマチルダを呼ぶブリジットの大声が聞こえ、慌てて踵を返す。
その後ろ姿を、アルベルトは何やら釈然としない気持ちで見送った。




