5 決別
「……アデル?」
抱えていたチューリップが数本、彼の腕をすり抜け地面に落ちる。
「なんでここに…?」
固い声。明らかに困惑した様子の彼に、アデルの胸がギュっと痛む。
「…お見舞いのお礼をしようと思って来たんだけど…ごめんなさい。突然じゃ迷惑だったわね…」
足元に散らばった花に手を伸ばしたアルベルトが一瞬動きを止め、怪訝そうにアデルを見た。
「見舞いの礼…?」
「ええ、お花に本、それにお菓子も…。どれも私の好きな物ばっかりで嬉しかった。本当にありがとう」
アルベルトは隣の女性にチラリと視線を流すと、左右に首を振った。
「僕じゃない」
「…え?」
「何かの間違いじゃないかな?僕は一度も、君に見舞いの品なんか贈っていない」
まるで抑揚のない口調でアルベルトが言う。アデルの顔から笑顔が消えた。
「そんなはずないわ…。毎回、あなたの名前で届いてたもの。カードにもちゃんとあなたの印が…」
「知らない。何と言われようと、僕じゃない」
「……」
取り付く島のないアルベルトの対応に、言葉が出ない。
ドキドキと、アデルの鼓動が早くなる。声が震える。
「…アルベルト…私…、帰ってきたよ…?」
ようやく絞り出せたのはそんな陳腐なセリフだった。
「喜んでくれないの?よく帰ってきたって…無事でよかったって…どうして…言ってくれないの?」
険しい顔つきでアデルを見るアルベルトに、アデルは無理やり作った笑顔で尋ねる。
「ずっと会いたかった…。アルベルトは…私に会いたくなかった…?」
「……」
「どうして…黙ってるの?」
無言のままの彼が怖かった。これまで一度も、彼にそんな感情を抱いたことはない。ずっと欲しかった言葉の一つをも口にしない彼を、アデルは初めて怖れた。
「…無事でよかった」
「……それだけ?」
(……ドウシテ?)
その疑問がアデルの心を埋め尽くす。同時に、頭の中を駆け巡るのは様々な可能性。
そんなアデルの視線に耐えられなくなったのか、アルベルトは顔を伏せ視線を外すと、あからさまに大きく息を吐いた。
「……悪いけど、このあと大切な予定があるんだ。急に来られても対応できない。それくらい今の君でも分かるだろう?」
「……っ」
明らかな侮蔑。まさかそんな言葉をアルベルトから向けられるとは思わなかった。あまりの衝撃にアデルは一瞬言葉を失う。
「…ご、ごめんなさい。じゃ、また日を改めて連絡するから…」
「いや、ここにはもう来ないで欲しい」
「……え?」
素っ気ない…というより明らかに迷惑そうな態度を示すアルベルトに、アデルはこれまでずっと心に閊えていた疑問を投げた。
「あの…怒ってる?」
「いや」
「私のせいで近衛を除隊になったから…それで…」
「違う!」
苛立った様子で乱暴に髪をかき上げる姿に、アデルは遂に自身の心のコントロールを失った。
「じゃあなんで…っ?!どうしてそんな態度をとるの?!私、帰ってきたんだよ!!五年もかかってようやく…っ!それなのにどうしてそんなに冷たく当たるの?!どうして抱きしめてくれないの?!どうして……っ!」
無意識に溢れた涙で視界がかすむ。
こんなはずじゃなかった。こんな事を言うためにここに来たんじゃなかった。
決しておとぎ話のような再会を夢見ていたわけではないけれど、せめて、よく帰ってきたと優しい笑顔を見せてくれると、そう信じていた。
一度溢れた感情は、そう簡単には抑えられなかった。アデルはアルベルトの腕をつかむと激しく揺さぶる。自分にこんなに激しい感情がある事をこれまで知らなかった。隣で女性が驚いたように口元に手を当てているのが見える。でも今のアデルに外聞は関係なかった。
「ねえ…っ!何か言ってよ!!どうして何にも言わないの?!どうして…っ」
「アデル…っ!!!」
ずっと黙っていたアルベルトが、アデルの激昂を遮った。アデルに掴まれていた腕を振り払うと、冷静に一歩距離をとる。
「…もう気安く僕に触れないでくれ」
「…どうして?!」
「君との婚約は解消された。もう君と僕は何の関係もない」
「……え?」
アルベルトの言葉にアデルの頭は真っ白になった。
「…何…言ってるの?」
「僕たちは婚約を解消したんだよ。お父君から聞いてない?」
「…そんなの…知らない」
「君のお父君からずっと打診されてた。帰ってこない娘を待っているばかりでは君の人生を台無しにしてしまうと。娘もきっとそう願ってるはずだからって。…だから僕は…それを了承した」
「…お父様が?うそよ…。そんなの…」
「帰ってきたばかりの君を慮って話すタイミングをうかがっていたんだろう。こんな形で伝える事になったことは謝る。本当に申し訳ない」
淡々と静かに話すアルベルトの言葉が、じわじわと胸に浸み込む。
「……いつ?」
「ちょうど、ひと月前になる」
「……っ!だったら…っまだ間に合うわ!!申請書類の取り消し期限にはまだ時間がある!!少しくらい過ぎてもなんとか融通してもらって…っ」
「無理だよ」
「どうして…?!」
「婚約したんだ、彼女と」
アルベルトの言葉が、さらりと耳を通り過ぎた。
「……え?」
じわじわと広がる言葉の意味を何とか脳が理解する。視線が彼の隣の女性に向かう。瞳がぶつかる瞬間、その視線から庇うようにアルベルトが前に出た。
「セシリア=オルコット嬢。男爵家の令嬢で、僕の新しい婚約者だ」
「……うそ」
「準備が整い次第式を挙げるつもりだ。ひと月後には正式な妻になる」
「……うそよ…そんなの」
めまいがした。
心臓が激しく打ち付ける。治ったはずの全身の傷がズキズキと痛みだす。
「そんなの……早すぎる。私との婚約を解消したばかりなんでしょ?どうしてそんなにすぐに婚約を…?」
声が震える。
アルベルトが一瞬口ごもり、そっとセシリアの肩を抱いた。セシリアも申し訳なさそうな表情を浮かべながらも彼の胸に頭を預ける。
「君がいなくなってからの僕は…正直まともな状態じゃなかった。近衛を除隊して国境警備に志願して…職務に没頭した。その間もずっと君の事を忘れられなくて…探して探して探し続けて……そんな時、君の死を告げられて…僕は生きる意味を見失った。いっそ死んでしまえばと思った。そんな時…彼女に救われたんだ。彼女は、自責の念に捕らわれる僕を、何の見返りも求めず必死に支えてくれた。彼女がいなかったら、僕は今生きていなかったかもしれない」
「……」
「……彼女のお腹には僕の子どもがいる」
「……!?」
「もうすぐ3カ月になる」
「……」
「今は彼女の事しか考えられない。彼女が大切なんだ。…どうかわかって欲しい」
「……」
ショックのあまり涙は止まっていた。
「…もう……私の事は愛してない……?」
「…すまない……」
「………」
頭の中は真っ白だった。こんな時どうすることが一番正しいのか、まるで考えられない。
現実を受け入れ、笑顔で祝福する事が最善なのか?
これまでのように自分の感情を押し殺し、大人な自分を演じるのが正しいのか?
さもなくば、今自分を捨てようとしている男を糾弾し、責任を取らせることで尊厳を守るか?
『アデル、よく聞きなさい。歴史あるロウェル家の子女として生まれたからには常に冷静に、感情は表に出さないよう心掛ける事。卑俗な言動は慎み、他者を慮るように。本当の淑女とはそういう者のことを言うのです』
ずっと言い聞かせられてきた祖母の言葉が、不意に脳裏をよぎった。アデルもずっと、それが美徳であると信じ努力を続けてきた。それなのに、
「……いや」
出てきたのは、みっともなく婚約者に縋る惨めな言葉だった。
「いやよ、アルベルト…ッ。私…あなたを失いたくない…っ。あなたをなくしたら…私はどうやって生きて行けばいいの?あなただけなのに……。あなただけが本当の私を受け入れてくれたのに……。お願いよ、アルベルト。考え直して……。五年間…あなたの元に帰る事だけを考えて生きてきたの…。死にたいと思う事も何度もあったけど…それでもあなたに会いたくて…頑張ったのよ…。お願いだからアルベルト…もう一度を私を見て…っ!!」
アルベルトの瞳が憐れむようにアデルを見る。そうして小さく首を横に振った。
「…できない」
「アルベルト…」
「僕たちの関係は終わったんだ。これからは彼女のために生きていきたい。彼女を愛しているんだ」
「……」
「どうか君も、自分の幸せを見つけて、前を向いて生きて欲しい」
アデルの両膝から力が抜ける。その場に座り込んだアデルに駆け寄ろうとセシリアが一歩踏み出す。それを制したアルベルトが彼女の肩を抱きアデルに背を向けた。
「…君が無事に見つかって本当によかった。これは…間違いなく僕の本心だよ」
アルベルトに肩を抱かれたセシリアが申し訳なさそうにアデルを見る。大きな菫色の瞳には大粒の涙が浮かんでいる。
(なんであなたが泣くの?泣きたいのは私なのに…)
菫色の大きな瞳がキラキラと輝く。アメジストのようなそれらをぼんやりと見つめながら、ただきれいだなと思った。
「幼馴染として君の幸せを心から願うよ、アデル。元気で…」
それからどうやって屋敷に戻ったのか。
懸命にアデルを探し回っていたアリスが、アデルに駆け寄り小言をぶつける。アデルはそんなアリスをそっと押しやると、しばらく一人にしてほしいと告げた。
同じく駆け付けたマーカスに、兄が戻ったら部屋に寄って欲しい旨を言い残し、アデルは真っ暗な自室の扉を閉めた。
これまで生きてきたどの瞬間よりも、アデルは自分を呪った。
アデルの心は深く深く闇の中へと沈み込んだ。
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