3 日常
本日三回目の投稿です
「気がついたか?」
目が覚めたアデルの目に最初に飛び込んだのは、懐かしい兄の顔だった。
「お…にい…さま……?」
アデルより四つ上の兄。父と同じ銀色の髪を後ろに撫でつけ、縁の細い眼鏡をかけた顔は、記憶より幾分大人びて見える。面影は残しつつ幼さが消え、立派な青年に成長していた。
「よく無事に帰ってきた。聞きたいことはたくさんあるが、今はとにかく休め」
そう言って、額にかかった髪をそっと流す。
「……」
「どうした?」
「……お父様とお母様は?」
部屋にいたのは兄と、祖父の代から勤める家令、それに若いメイドが一人だけ。
「父上は今朝早く領地の視察に向かわれた。母は…昨日から体調を崩し寝込んでいる」
「そう…ですか…」
僅かに期待した心が一気にしぼむ。
「今は余計な事を考えなくていい。まずは体を厭え。話はいつでもできる」
兄の言葉に、アデルは幼子のように小さく頷く。
メイドに視線を送り、椅子から立ち上がった兄にアデルはもう一度声をかけた。
「…お兄さま…」
「なんだ?」
「…アルベルトは…?」
あの日。
光の向こうから差し出された手のぬくもりと香り。
勘違いかもしれない。でも僅かな可能性を捨てきれず、そう訊ねた。
「アルベルトにはまだ伝えていない。昨日の今日でこちらもそれどころではなかったからな。近いうちに使いを出しておくから心配せずに休め。今は体力を回復させ、けがを治す事に専念しろ。いいな?」
「…わかりました」
(私の勘違いだったのね…)
途端に頭が重くなる。
自分を見下ろす兄の手が優しく額と瞼を覆うと、アデルは再び深く眠りについた。
■◇■
アデルが屋敷に戻ってひと月がたった。
体力は順調に回復し、体中にあった打ち身や擦り傷の跡も随分と目立たなくなった。ただ、深い森の中を走り続けた事によりできた足裏の裂傷と足首の打撲は思ったよりも重傷で、医者からは未だにベッドを出る許可が下りない。じっとしていることが何より苦手なアデルにとってそれが一番の苦痛だった。
「アデルお嬢様。お花はここでよろしいですか?」
メイドのアリスが、花台に乗せられた花瓶の向きを調整しながら聞いてくる。最近入ったばかりだという新人メイドは、アデルよりも三つ年下の十五歳。明るく物怖じしない性格で、アデルともすぐに打ち解けた。
「ありがとう。そこでいいわ」
「贈り主は…今日もマクミラン公爵家のアルベルト様ですね。それにしてもなんていい香り。これはなんというお花ですか?」
「沈丁花よ。小さい頃から私が一番好きな花なの」
「沈丁花ですか。甘くてほんっといい香りですね!」
胸いっぱいに香りを吸い込むアリスの姿をほほえましく眺めながら、アデルは手元のカードに目を移した。
三日と空けずアルベルトから届く見舞いの品。それは花であったり、本であったり、最近人気の洋菓子店のお菓子だったりと常にアデルの好むものが届けられていた。カードは決まってこのデザイン。濃紺に銀の家紋。間違いなく彼、アルベルトの印だ。
『心より回復を願う』
文言は毎回、何のひねりもなくただそれだけ。アルベルトの人柄を考えると随分そっけない気もするけど、考えてみれば昔から手紙のやり取りなど皆無だった。小さな林を挟んで隣り合う屋敷同士、用があればすぐに顔を見て話すことができたから。
アデルは仄かに香り付けされたカードの、彼の記名部分をそっと指でなぞった。
昔より尖った印象を受ける筆跡に、言い知れぬ寂しさを覚える。アデルはベッドサイドのチェストの引き出しを開け、積み重ねられたカードの上に新しいそれを重ね、静かに引き出しを閉めた。
今日まで、アルベルトが直にアデルを見舞う事は一度もなかった。
兄の話によると、彼は今、首都の治安を守る第二騎士団の団長を務めているのだという。その仕事は激務で、隊長と言えど屋敷に戻るのは週に一度あればいい方だそうだ。
四年前、入隊したばかりの近衛騎士団を除隊したあと、つい半年前まで国境警備の任についていたと聞いた。あんなに憧れていた近衛を除隊した理由を、兄は頑として話してはくれなかったが、それが間違いなく自分にあることは容易に想像がついた。
(アルベルトはどう思ってるんだろう)
昔ならそれなりに推し量ることのできた彼の気持ちが、今は全くわからない。
大量のプレゼントの真意、会いに来られない理由、そしてこの五年間の彼の思い…。
答えの出ない考察にアデルの心は日毎に疲弊していく。
思いは唯一つ。
「彼に会いたい…」
つい口から零れた願いにアデルはハッと口元を押えた。幸いアリスはお茶を入れるのに集中していて気づいていない。アデルは小さく安堵の息を漏らした。
「さあ、お嬢様。お茶が入りましたよ〜。今日は上手に入れられました。とてもいい香りがします!」
トレーに乗せた茶器をベッドまで運びながら、アリスがスウ―っと息を吸い込む。
「本当ね。いい香りがするわ。じゃあ早速いただくわね」
褒めて欲しいを前面に出すアリスがかわいらしく、アデルも少し大げさに声を張る。
口にしたお茶はその香りとは裏腹に渋みが強い。アリスにも勧め、彼女の眉間にしわが寄ったのを冷やかし二人で笑う。
長きに渡る監禁生活など、まるで夢であったかのような日常。以前と変わらぬ日々の中、アルベルトだけがいない。
(一度でも顔が見られたら、心配なんか一気に吹き飛ぶのに…。どうして会いに来てくれないの?アルベルト…)
この五年、アデルにとって心の支えはアルベルトだった。どんなに辛くても、彼に会いたい一心で過酷な生活にも耐えてきた、それなのに…。
(どうして……?)
翌日。
アデルは数年ぶりに自由に太陽の下を歩く。
朝晩はまだ冷え込む日もあるが、日中の日差しは随分と暖かい。屋敷の庭園は以前と変わらず美しく、花の盛りを迎えた水仙や蕾を大きく膨らませたチューリップ、ユキヤナギやミモザが華やかに彩っている。季節は知らぬ間に春を迎えようとしていた。
「お嬢様…っダメですよ…っ勝手な事をしては叱られます…っ!」
ストールを持った、アリスが小走りで追いかけてくる。
「平気よ。お兄様も領地に戻られたし、お母様たちもお買い物に出かけられたでしょ?今がチャンスよ」
「もう…っ!お嬢様ったら!」
父は兄と入れ違いに戻って来たが、王宮からの急な呼び出しに慌てて出かけて行った。今なら外に出ても文句を言う者は誰もいない。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。昔から体は丈夫なの。ケガはともかく病気なんかしたことないんだから」
包帯の下の傷はとうの昔に癒えていた。体力も随分回復している。こうして外に出てもふらつくこともないのだから問題はないだろう。
眩しい日差しに手をかざす。
以前は当たり前だった日常にようやく自分が戻れたことを実感し、アデルは静かに目を閉じた。
「…もう。いいですか?少しだけですよ。今お茶をお持ちしますからガゼボでお待ちください。くれぐれも無理はなさらないように!わかりましたね!」
腰に手を当てて大人ぶる仕草がかわいくて、思わずクスっと笑う。
強めの語気で言い残し、屋敷に戻るアリスの後姿に手を振ると、アデルはガゼボの椅子に腰を下ろした。
優しい風が、花の香りと共にアデルの頬を撫でる。
大きな影が二度、光を遮る。見上げると、二羽のオオハクチョウが悠然と上空を通り過ぎていく。そんな季節なのかと目で追うと、彼らはやがて、隣家の屋敷の尖塔を越え視界から消えた。尖塔の先にははためく三角旗。描かれているのはマクミラン公爵家の紋章だ。
「アデル様」
いつの間に現れたのか、家令のマーカスがアデルをのぞき込んでいた。
「マーカス?」
「驚かせたようで申し訳ございません。何度もお呼びしたのですが、お気づきになられませんでしたので」
祖父の代からロウェル家に仕える老執事は、優しい笑みを湛えながらそう言った。
「…ごめんなさい。林を見てたら、昔の事を思い出しちゃって…」
言い淀むアデルに、マーカスは何かを得心したようにフフッと笑った。
「左様でございますか。幼い頃のお嬢様は元気いっぱいでございましたからね。下のお嬢様方がお生まれになってからは随分と落ち着かれましたが、あの頃は私の肝も随分と冷えました」
マーカスの記憶の中の自分を想像し、アデルもフフッと笑みを零す。
「そうね。あの頃は鳥を捕まえようと木に登ったり、魚釣りで兄たちに勝てないからって池に飛び込んだり、たくさん心配をかけたわ」
「全くでございます。でも、今となってはそれも楽しい思い出です。何より今、こうしてまたお嬢様の笑顔を見られることが私にとって最大の幸せでございます」
「……ありがとう」
優しい老紳士に笑顔を向けるとふと彼の手に乗せられた、きれいな箱が目に付いた。
「それは…?」
リボンの間にはいつものカードが差し込まれている。
「はい。マクミラン家の依頼だと、先ほど宝石商の店主自ら届けに参りました」
「そうなの。ありがとう」
マーカスが下がると、アデルはプレゼントを開けた。箱の中身は美しい装飾の施された猫足のジュエリーケース。蓋を開けると、アデルの誕生石である深紅のガーネットをあしらったペンダントが輝いていた。アデルはケースを閉じると続いてカードを開いた。
「……」
そこに書かれていた文言に、アデルの瞳が揺らぐ。
アデルは立ち上がった。そして、マクミラン家の屋敷へと足早に歩き出した。
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