19 出発
すみません!遅くなりました!
文中の女性の名前を変更しました。
テオと再会を果たした翌朝。
「出発は三日後だ。それまでに準備をしておけ」
それだけを告げると、父は食事もそこそこに席を立った。同様に、母と妹たちも気まずそうに席を立つ。残されたアデルは、掬ったオムレツを皿に戻した。
昨日の今日で…と内心では思ったが、父の決定はいつも絶対だった。今更アデルが何を騒ごうと、覆ることはない。
ガサリと紙ずれの音がして顔を上げた。斜め前方の上座に兄がいる。当分帰ってはこないと言っていたのに、なぜか今朝方、早馬で帰ってきたようだ。兄は優雅な手つきでコーヒーを飲みながら新聞に目を通している。
領地からここまでは、元気な馬でも丸一日、馬車なら二日はかかる距離だ。それを一晩でたどり着き、何事もなかったかのようにきちんと身支度を整え朝食の場に顔を出す兄。
「フッ……」
兄の優しさについ笑みが零れた。
「なんだ?」
「いえ…てっきりみんなと一緒に席を立つと思ってたから」
「幼い子供じゃあるまいし、なぜ行動を共にする必要がある。バカバカしい」
新聞から目を離すことなく兄が言う。
「領地の方はもう落ち着いたんですか?」
「落ち着くわけがないだろう。今頃向こうは、急に俺がいなくなって大騒ぎのはずだ」
「…え? 何も告げずに戻られたんですか?」
片眉をピクリと動かした兄が、再びカップに口をつける。
「今日からしばらくは屋敷に留まる」
暴挙ともいえる兄の行動の背後にあるのが、自分への配慮だと思うと、嬉しさと申し訳なさで気持ちが揺れる。
「……シュベールに送り出したら、もう二度と会う事は叶わないだろう。最後にお前と過ごす時間を作って何が悪い」
「……お兄様」
「少しくらい、兄らしいことをさせてくれ」
■◇■
三日という時間はあっという間に過ぎた。
アデルは兄の用意した馬車の前で、皆に別れを告げていた。アリスに執事長のマーカス、昔からの使用人、それに兄。父は早朝から王宮に出仕し、母と妹たちは部屋にこもったまま顔すら見せない。
「今から出発しても、シュベールに着くのは夕暮れ時になるだろう。念のため護衛も用意した。向こうに着いたら必ず手紙を。いいな」
「ええ、もちろんそうするつもりよ。ありがとう、お兄様。何から何まで……」
「俺がしてやれるのはここまでだ。……体には気をつけろ」
「ええ」
アデルは左手に、兄からもらった焦げ茶色のトランクを持つと、タラップに足をかけた。
修道院に持ち込めるものなどたかが知れている。もともと持ち物の少ないアデルのトランクはまだまだ余裕があり、とても軽かった。
「あの…っお嬢様……っ! 北は冷えると聞きました。よろしかったらこれをお持ちください!」
アリスが自分のお気に入りのストールを差し出した。
「これはアリスの大事な物じゃない」
「…いいんですっ! お持ちになって下さい……。お体には気をつけ……っううっ…お嬢様…っ」
「もう……泣かないで、アリス。ほら鼻かんで」
差し出したハンカチに素直に鼻を近づけるアリスが愛しかった。
「それじゃ、みんな。元気でね」
濃紺のワンピースを翻し、馬車に乗り込む。
襟元の白の縫い取りが、いかにも修道院受けしそうなデザインだと思い、今日の装いに決めた。
家に戻って初めて誂えたこの外出着が、まさかこの日のためになるなんて、なんと皮肉な事だろう。仕上がりを楽しみにしていた自分がひどく滑稽に思えた。
ハアッ!と声を上げ、若い御者が手綱を振る。二頭の馬が足並みをそろえて歩き出すと、馬車はゆっくりと動き出した。同時に護衛を乗せた二頭の馬もそれに続く。
窓越しに生まれ育った屋敷を見上げる。歴史あるこの家にいたのはたったの十三年。それでも人生の大半をここで過ごした。
(ここに戻ることは、二度とないのね。たとえ死んでも……)
「ごめん、テオ……」
カラカラと規則正しい音を立てて回る車輪の音を聞きながら、アデルは静かに目を閉じた。
◇■◇
「来るかなぁ。アデル」
噴水の縁に腰かけたラウルが、欠けた石畳をカツカツと蹴りながらそう呟く。
ここはソアブルとの国境の街ククル。太陽は間もなく真上に差し掛かろうとしている。
「そろそろ出発しないと今日中に着けなくなるよ~。明日の予定は外せないし、ディアナとの約束もあるんでしょ? どうする?」
「……わかってる」
テオは苛立ちを隠せず、こぶしの中で握りしめていたクルミをガリガリと転がす。
日頃から、テオは自分の直感に自信を持っていた。
おかげで幾度もの死線を乗り越えてきた。だから今回もアデルは間違いなく自分の提案に乗る、そう思っていた。
(外したのか……)
いつまでも姿を現さないアデルを思い、悔しさが募る。
アデルが父親の決定に従いシュベールに向かったとしてもそれを否定する権利はテオにはない。それは十分理解している。だが同時に、それが愚かな考えだとテオは思った。判断を他者に委ねれば、それが失敗であった時、より大きな後悔を生む。アデルには自分と同じ轍は踏んで欲しくなかった。
「……」
シュベールは表向き、貴族のための手厚い修道院とされている。
だが実際は、金欲にまみれた司祭が、色欲にまみれた色ボケ貴族どもに性を斡旋する、知る人ぞ知る場所だった。寄付と称して院を訪れ、禁欲生活にウンザリしている淑女と関係に及ぶ。秘密が外部に漏れる事は絶対にない。何も知らない子女たちもやがてその色に染まっていく。
リムウェルで要職についているアデルの父がそれを知らないはずがなかった。知った上で娘を送り出すその性根に心底吐き気がした。
そんなところにアデルを送るなんて考えたくもなかった。真実を話し、是が非でもこちらを選択させたかった。
でもそれが出来ない事情がテオにはある。悔しいが自分にできるのは彼女に選択の余地を与える事だけだった。
アジトで彼女を見た時、何かの間違いではないかと思った。
こんなところにいるはずのない少女が、手足を繋がれ、ガラス片を握りしめ首筋に当てている。体全体をがくがくと震わせながらも瞳にはずっと強い光を湛えていた。
彼女はそう簡単に自分の人生をあきらめるような人間じゃない。アデルなら間違いなくこちらを選ぶ、それが例え自分の驕りだとしても、アデルにはそうであって欲しかった。
テオはクルミをポケットにしまうと、ゆっくりと体を起こしラウルに指示を出した。
「ラウル。馬たちに水をやれ。準備が整い次第出発する」
「えぇ! アデルのこと待たないのぉ?!」
「お前……おちょくってんのか?」
「やだなぁ、そうカッカしなさんなって」
「ラウルっ!」
「はーい、お馬さんたち〜。お水を飲みに行こうね〜。ゆっくりでいいよ〜、あ、ついでに飼葉も食べとこうかぁ? よ〜く噛もうねぇ」
ラウルがそそくさと馬たちの手綱を引く。
その時だった。
「テオ―ッ!!」
どこからかテオを呼ぶ声が聞こえた。顔を上げると、こちらに手を振りながら走ってくる女性の姿がある。地味な黒のロングスカートに白のブラウス、それにケープ。大きくはないキャメルのトランクを左手に下げている。
テオはまなじりを下げると、無意識に口端を上げた。
「ごめんなさい!! 出発の日と重なっちゃって……っ! でも間に合ってよかった!」
ハアハアと息を整えるアデルを満足そうに見つめるテオ。二人の姿をラウルもまた、満足そうな表情で見つめた。
「遅いよアデル!! もう来ないかと思ったじゃん!」
「ごめんね、ラウル」
「それじゃ、行くぞ!」
「うん!!」
ラウルとテオとアデル。
三人は二頭の馬に跨り、ソアブルへ向けて出発した。
本日もお読みいただきありがとうございました。
次話投稿は本日19:00頃を予定しています。
アデルの「ごめん……」に続くのは「遅れそう」です。
行かない選択肢はありませんでした。