1 侯爵令嬢は夜の森をひたすらに走る
久しぶりの投稿です。
よろしくお願いします。
走った。
走って走って走り続けた。
生い茂る藪が行く手を阻み、絡み合う茨が全身を切り裂く。
体中から上がる悲鳴を無視して、ただひたすらに足を踏み出す。今のアデルに己を労る余裕はない。
少しでも遠くへ。
彼らの手が届かない所まで早く。
息を切らし、一心不乱に走る。
気づけば履いていた靴が片方ない。探しに戻る余裕などもちろんない。
夜闇は視界を奪い、木々の隙間から見える星灯かりだけが頼りだった。気休め程度にしかならないそれらですら、今のアデルには唯一の救いだ。
どのくらい走っただろう。
アデルは完全に方向を見失った。
このまま進んでいいんだろうか。
あとどれだけ走れば助かるのか。
そもそも自分は助かるのか?
一度芽生えた不安はあっという間に心を蝕む。
カラカラの喉奥からせり上がる血の匂い。それを飲み込もうと喉を鳴らすも、一滴の唾液すら出てこない。肺も心臓もとうに限界を超えていた。千切れるかと思うほど痛く苦しい横腹を握りしめそれでも足を動かす。
踏み出すたび、足裏に激痛が走る。そんな中、ようやく感じた固い感触。
開けた視界の先に小さな灯りを見つけ、アデルはようやく足を止めた。
ハアハアと自分の呼吸を聞き、余力を振り絞り再び一歩を踏み出す。
よろよろとおぼつかない足取りでたどり着いた家屋の扉を、力の限り叩く。
「助けて…っ!誰か…助けて……くださ…いっ」
震える拳に力はなく、絞り出した声はあまりに小さかった。
アデルは手近な石を握りしめると力いっぱい振り上げた。ようやくカツカツと乾いた音が扉を鳴らす。そうして息を吸い、もう一度声を張った。
「助けて…っ!おねがい……っ誰か…」
それが限界だった。
扉に縋り付くように、アデルは力なく崩れ落ちた。もう立ち上がる気力も声を出す余力も残っていなかった。アデルは震える手でポケットに忍ばせたガラス片を取り出すと、そっと自らの首元に当てた。もし彼らに追いつかれたら潔く逝こうと、最初からそう決めていた。
その時だった。
ガタンと大きな音が頭上から聞こえた。ガタガタと閂が外され、重そうな扉が僅かに動く。内側からもれる光が、扉を開けた人物に影を作る。
「こんな夜中にだれ……っ…おい、どうした!!しっかりしろ!!」
その声に不思議と懐かしさを覚えた。確信はない。ただそんな気がした。
アデルは震える手で男の差し出した腕を力なくつかむ。
「…私は…アデル…。ロウェ…ル…侯爵家のアデル…です…」
「……!」
アデルの名乗りに、男の体がビクリと震えた。
「………たす…けて…」
「……アデル?」
聞き返す声がなぜか小さく、震えている気がした。アデルは無意識に腕を上げると、慰めるようにその背中を優しく撫でた。
「……っ」
気づけばアデルは、男の胸に強く抱きしめられていた。鼻腔をくすぐる香りに、ずっと張り詰めていた心の糸がたわむ。涙が頬を伝う。
そこまでだった。
アデルの腕が地面に落ちる。何度も呼ばれる名を遠くに聞きながら、アデルはとうとう意識を手放した。
次話は本日19:00前後を予定しています。
よろしくお願いします