夏至の祭 7
我の右手首には真っ白の布が巻き付けてある。その手にぶら下げていた手桶はオサの手に移り、そしてそれが今、酒樽の上で逆さになった。宴の始まりである。そうして御神水が全て流し込まれると、男共が我先にと御神酒に群がった。
「どうじゃ?毒気は抜けておるか?」「毒が怖いなら、飲まねば良いだろうに」
オヤジの一人が、まずは怖々と口をつけた。酒の原料はそこらに自生している芋なのだが、こいつが煮ても焼いても食えんというどうしようもない代物なのだ。発見当初は糊として役立てられた中、先祖が苦心して生み出したのがこの焼き酒である。醸すことで毒気が酒精に変じるのか、ジョウリュウすることで毒気が飛ぶのか、詳しくは知らん。
「今年のはどうだ?」「酒精が強いぞ」「味はまぁまぁだな」「縁起物だ。文句を付けるな」「今年成人したやつがいただろう?早く飲ませてやれ」
樽の前で壁になっているオヤジ共を押し退け、我も一杯失敬する。そいつを左手に、数あるニクの中でも取り分け美味そうなニクの前を陣取った。うはは。オヤジ連中よ。酒に夢中になっているようでは、デカい獲物を取り逃すことを知れ。
「腹が減っては、イクサとやらができんらしいからな」
イクサというものが何かは知らん。郷に存在しないというのなら、我が今日、定義してやろうぞ。現実逃避のためでも、自暴自棄になった訳でもない。これから我はイクサに備えるのだ。ほれ、大義を得たぞ!腹を満たせ!これで最後だ、馬鹿をやれ。今しかないぞ。
そうやって自らに言い聞かせたものの、腹は沈黙を保ったままだ。腹にまでそっぽを向かれるとは。仕方無しに、我はやけ食いを開始した。
「うむ、美味い美味い」
声に出そうと、舌は眠ったまま。それでもニクを口に運ぶ手を止めることはせん。ニクを前に、不機嫌な面など見せてなるものか!我はあれもこれもと、とにかく目についた御馳走を食らった。
「一人で始めやがって。よっぽど腹を空かしてたんだな」
「おう。腹ペコだ」
そろそろか、と思っていたところで背中に声が掛かった。後ろにいるのは、ログサムだけのはずがない。座ったまま尻を軸に半回転すると、我はそこにいたティルルカに視線を定めた。
「我が悪かった。お前の手の感触が余りにも心地良くてな。呆けていた」
ティルルカは、ログサムと奥方との間で縮こまるようにして立っていた。その白い顔に向かって、我は深く頭を下げた。
「すまん。この通りだ」
おほ、とログサムが声を漏らした。ティルルカの様子は伺い知れない。
「許してあげたら?」
奥方の囁き声のしばらく後、我の隣に静かに腰を下ろす者がいる。またひとつ、事実が積み重なった。ここまでくれば決定的だ。
「そういうことにしてあげるから、頭を上げたら?」
真実なのだが、ティルルカには御納得頂けなかったようだ。我もこれで良いとは思わんが、そう言われた以上、従わなくては却って不快だろう。
「そうか」
今までの過ちは、最早どうすることもできん。だが、今後の過ちを無くすことならば可能なのだ。ティルルカは、我を好いてなどいない。至極残念だが、それがどうした。お陰でやっと肝が据わった。この頭を上げた時、我は悪ガキを卒業する。馬鹿をやるのは、それに相応しい場だけで結構。これより我は、アルスとして生きよう。それが我なりの誠意だ。言い訳もやめだ。万の言葉を尽くすよりも、ひとつの姿勢を貫くのだ。ティルルカの涙など、あれで最後にしてやる。
さらば悪ガキ。決意と共に、我は頭を上げた。
「お前に許してもらえるよう、これから努めるとしよう」
我が姿勢を戻して御馳走に向き直ると、もう片隣にはログサムが収まった。奥方は更にその隣に落ち着いたようだ。
「変なの」
ぽつりと呟いたティルルカは、こちらに目を向ける気配すらない。
「それは、本当にあなたの言葉?」
やはり信用ならんらしい。それはそうだ。悪ガキが反省した素振りを見せるなど、何か裏があると考えるのが自然だ。そう思われて当然だ。だが我は、悪ガキではなくなった。その一抹の寂しさを目の前の御馳走に逃がそうとしたが、胃袋はそれを拒否した。
「今は信じてもらえなくていい。いつか、信じてもらえるようにしてみせよう」
そうだ。生け贄となったティルルカへ、我はこれより贖罪の限りを尽くす。そしていつかティルルカの心に、幾ばくかでも好意が生じたならば、これ以上の喜びはないだろう。
「これからは、それが我のイクサだ」
「イクサって…何かと戦うつもり?」
そう言いつつティルルカが薄く笑ったのは、我の狙いからは遠く外れたものだった。そうか。イクサとは戦いを意味するものだったのか。やはり我の感性は、ずれにずれている。悪ガキなどを目指したからだ。頭を上げた後、我は未だティルルカに目を向けられずにいた。
「すまん。無知故に、下手な言い回しになったか。お前と争うつもりはないんだ」
好いた相手に好意を寄せてもらいたいと蜿き苦しむこと。これはやはり、イクサ、ではなかった。だが、我の心の内に限り、今後もこれをイクサとしておこう。同じ過ちを繰り返さんためにも。
「そっか。認めちゃうんだ?私が本当を見ちゃったから?目線とか表情は誤魔化せないもんね」
認める?本当?何のことかさっぱりだ。いや、目線だと?
「いやいや!ニクを見ていたのを否定はせんが、そちらに頓着していたという訳ではなくてだな…」
「もう。そうじゃないってば。それとも、朝のことは無かったことにしちゃう?」
しまった!早とちりだ。話をはぐらかしているように見えたか?御馳走から目を逸らせど、視線は迷子のようになった。しばしさ迷ううちに、それは右手に巻いた布へと落ち着いた。
「…無かったことにしたところで、な。先程も言ったが、お前に許してもらえるように、これから努力していく」
「努力、してくれるんだ。そっか」
ティルルカの声は、我を振り払うように横へ飛んだ。堂々巡りとは情けない。こんな体たらくで、固く結ばれたティルルカの手を解くことなどできるか。駄目だ駄目だ。このままでは、また。重みを増していく目玉を、我は渾身の力で支えた。
目を逸らすな。しっかりと、見ろ!
「…別に、無かったことに、したっていいのに」
そうして捉えたティルルカの横顔に、頬に、涙は無かった。それを我が安堵する間に、ティルルカは小さな呟きを溢した。これがティルルカの望みだとは到底思えない。
「あんなこと、無かったことにして、ほしかったのに」
だが我の予想に反して、ティルルカは繰り返すように告げた。女心が分からない。ティルルカの真意が掴めない。かといって我は、それを言い訳に諦めたくはない。ティルルカは今、確かに言霊を伝えてくれているではないか。
「そんなに真剣に謝られたら、努力するなんて言われたら…もう、嘘にもできないじゃない」
ティルルカは涙を見せるどころか、ついには笑みを見せた。何故、微笑むのだ?我の誠意が伝わったのか?だが言霊は、ふるふると弾けそうなほどだ。嘘にもできない?ティルルカは本心から、今朝の失敗を無かったことにしてほしかったのか。それ以外のものは不明でも、それだけは真っ直ぐに胸へと突き立った。
「私の勝手な思い込みだって、いつもみたいに笑い飛ばしてほしかったなあ」
しかし、その望みは叶えてやれそうにない。我は失敗を糧に前に進むと決めたばかりなのだ。今までの悪ガキを礎にして、これからは正しい大人として生きるのだ。そのためには、過ちと向き合わなくてはならん。無かったことになど、してはならんのだ。揺るいではならんというのに。
無かったことにしてほしかった。その言霊だけは、胸に刺さったままになった。無念だ。修練が足りん。付け焼き刃の良い子では、ティルルカを苦しめるばかりのようだ。独り善がり。本末転倒。なんと愚かな。
「すまん」
こうなってしまっては、あとはもうティルルカの心と向き合うぐらいのことしかできんのだ。無かったことにできない代わりに、頭を下げない代わりに、せめて向き合おう。しきりに視線を寄越すログサムには背を向けて、我はティルルカのみに心を向けた。今はまだ、ティルルカの横面を拝むばかりだが。ティルルカは未だ力無げに微笑みながら、手近にあったクークをひとかじりした。
願わくば。
「顔をよく見せてくれ」
できることなら、我の姿も見てくれ。この好意に嘘がないか見抜いてくれ。ティルルカの顔から笑みが失せ、ほんの一瞬だけ右目がこちらを探った。
「顔?」
「そうだ。不快だとは思うが、よく覚えておきたい」
「不快って…そこまでは思わないけど」
ティルルカはクークの残りを口にすると、もぞもぞとしながら身体をこちらに向けた。顔は微妙にそっぽを向いているし、目などは御馳走に向けられたままではあるが。
「今更、何を覚えるの?髪だって、今はいつも通りだし」
今更とは耳が痛い。お叱りはさておき、ティルルカの仰る通りだ。ティルルカの輪郭は見慣れた形に戻っていた。輪郭は。
「んん?本当にいつも通りか?」
何か違和感がある。形は同じでも右肩辺りに違いがある。
「おぉ!」
これに気付かない方が、どうかしている。
「髪をまとめている布の色が違うのか。青も良かったが、そちらも良いな」
夏至に合わせて新調したのだろう。灰青色から白色に様変わりしている。それは、どこか見覚えのある真っ白だ。
「…ありがとう」
とティルルカが小さく呟けば、その小さな赤は可愛らしく動くのだ。
「禊では髪型を変えていたように、宴では装いを華やかにするものなのだな」
美しい。我の目は、それに吸い寄せられた。
「服は、別に特別なものじゃないわ」
「唇のことだ」
目が釘付けならば、口はすかさず相槌を打った。
「こんな言葉、初めて口にするのだが…艶やか、というやつだ。それにそうだ!髪止めと相まって、紅白とは実にめでたい」
昨年までは御馳走に夢中で、女子の顔に着目することもなかった。今、ティルルカの唇は紅で染まり、常よりもぷっくりとして見えた。顔全体がいつもよりも白っぽい印象を受けるのは、この紅のせいか、それとも他にも化粧を施してあるからか?まだまだ観察が甘い。もっと集中せねば。
「く、唇は禊の時から真っ赤だけど?」
「なに?そいつは失敬。だが、水浴びなどしたら、紅が流れるんじゃないのか?」
「流れないようにできてるの!…お化粧を落とすのって、本当に大変なんだから」
「そうなのか」
ティルルカの黒目はあっちへこっちへと忙しい。それを注視する間に、その目尻はとろんと垂れた。機嫌が直った??何が奏効したのかは分からんが、ティルルカの怒りが去ったということは分かる。何年も見てきた顔だ。それぐらいは手に取るように分かる。
「頬が白いのも化粧のせいだな?血の巡りが悪いのかと心配したぞ」
間違いない。この夏の盛りに、日焼けが消えるなど不自然だ。
「これに文句があるなら、伯母様に直接言ってくれる?私は口紅だけでいいって言ったのよ?」
「うはは。綺麗だとは思うが、顔色が分からんのは困るんだ。そういう意味では、お前と同意見だな」
ティルルカの目と唇を行ったり来たりと、我の目玉も相当に忙しない。何度もその間を往復するうちに、そこにある控えめな鼻がピクピクと小さく震えていることに気が付いた。これは記憶に無い反応だ。くしゃみでも堪えているのか?
「しかし、不思議だな。化粧をしていても、別人とまでは思わん」
我が鼻から目を離すと、ついにティルルカと目が合った。化粧をしていようと、見慣れた顔だ。ティルルカ以外の何者でもない。
「なにそれ?お化粧で、もっと化けると思ったの?」
冷たげな声音にひやりとしたが、ティルルカの目尻は落ち着き払っている。
「はは。そうだな。だが、無用の心配だった」
「何の心配よ?」
ティルルカはちらりと御馳走に目を移すと、再びクークに手を伸ばした。そういった姿をまじまじと眺めるまでもなく、我はティルルカの特徴を把握できていた。すると朝に、見知らぬ美しい乙女と我が見間違えたのは、あの場の空気に飲まれていたのか、女子の髪には余程の魔性が秘められているのか、それとも。
「自分で思っている以上に、我は、お前のその髪型が好きなようだ。後ろで束ねた姿も美しかったが、やはり、そいつには勝てん」
かなり大胆な発言のはずだが、不思議と抵抗は無かった。我はティルルカの気持ちを知りたいと願ったのだ。だから我も、気持ちをそのままに告げたまでだ。その結果、ティルルカは新たに摘まみ上げたクークをそのままに、茹だった貝のように口を開きっぱなしにしている。女子の何処其処が好きだなどと告げるのは、規則破りすれすれだ。驚くのは当然のことである。だが!我の心を知って、多少はティルルカの心が動いたと思うと。これは、なんと痛快な!このような喜びが得られるとは、これは嬉しい誤算だ。我はこのイクサを存外に楽しめそうであるぞ。
高ぶりに膝を打ち鳴らせば、ぱんっと張りのある良い音が響いた。つい先頃、我はこの音と同じ響きをどこかで?疑問が浮かんだ直後、記憶は共鳴した。おお、これは、駆けろの合図だ!
「もっと言えば、だな」
ならば駆けるか。まぁ駆けるとも余計な期待はするな。所詮、押し付けられただけの男の言葉だ。どれほどもティルルカには響くまいが、我の気持ちを最後まで伝えておこう。求婚はまだだが知るものか。
「好いた女子が誰だか分からなくなるなど、二度と御免だ」
規則破りだろうと構うものか。我が悪ガキであろうと、アルスであろうと、他の何者かであったとしても、これは今こそ、言霊にするべきに違いないのだ。ここから始めれば良い。いつか惚れさせてやれば良い。イクサの幕開けだ。
「我の前では、その髪型でいてくれると嬉しい。その髪型のまま、こうして傍らにいてくれれば、我は十分だ。満足だ」
言ってやったぞ!思うように舌が回ると、胃袋が呼吸を思い出した。腹が減った!獲物は目の前にある。ティルルカはクークを摘まんだまま微動だにしておらん。そやつは何の抵抗もせずにこちらの手に移り、次の瞬間には我が舌を喜ばせた。
「美味い!こっちのニクも美味そうだ!」
続けてニクの大きいやつを掴み取ると、すぐにティルルカに視線を戻した。我は規則破りを働いたのだ。順序を滅茶苦茶にしたのだ。これには相当に驚いたと見えて、ティルルカの口は未だ開かれたままで、瞬きすらも忘れている。何か返事が欲しいところではあるが、急ぐことでもない。むしろ、このままで良い。好きな女子の顔を存分に眺めながら御馳走が食えるのだ。これのなんと幸せなことか。ニクを頬張れば、思った通りに身体全てが幸福で満ちた。
「スキってなあに?」
我が三度ほど幸福を噛み締めたところで、ようやくティルルカが声を発した。
「難しい質問だな。夫婦になりたいと思うこと、か?」
あまり考えずに言葉にしたが、我にとっては確かにこのような意味だ。
「じゃあなんで川原では、私一人にだけ、がっかりした顔をしたのよ?姉様達には、でれでれしてたのに」
「で、でれでれしていたか…」
情けない面を晒すまいと気迫を込めていたはずが、全く機能していなかったとは。しかし、何故がっかりした顔をしたか、だと?先刻承知ではないのか。
「がっかりしたのは、髪型が変わっていて誰だか分からなかったからだ。お前も察知していただろう?」「知らない。なにそれ。この髪型じゃないと、私だって分からないの?」
語気と共に、ティルルカの目尻が釣り上がった。
「は?いや…面目無い」
まずいぞ。どうなっている。同じ罪状で更なる糾弾が始まっている?いや。知らない、と言ったか?ティルルカにとって、これは新事実なのか?ならば何故、涙など流したのか。いや、疑問は後だ。今はただ、向き合え。
「それで本当に、私が好きだって言えるの?」
「好きに決まっている」
何度も言わせてくれるな。この時、ティルルカの鼻がピクンと動いた。
「ずっと、お前一筋だ」
「…昨日の夜は、私を拒絶したのに?」
御馳走を詰め込んだ訳でもないのに、ティルルカの頬は膨らみを増した。我が拒絶、したか?
「拒絶したのはお前の方だろう?」
「何言ってるの?手を離したのは、あなたでしょ?」
「それは、お前が怖がっていたからだ」
これを蔑ろにして、我が一方的に拒絶したと思われるのは心外だ。
「怖がってなんか…」
ティルルカは語尾をすぼめると、垂れた髪の毛に両の目と手を纏わせた。図星だな?やはり怖がっていたのだろう。お前が隠すまでもなく承知している。のだが、瘡蓋も不完全な昨晩の記憶は、まだ掻きむしるなと悲鳴を上げている。それに顔をしかめつつ、我はニクを小さく齧り取った。しばらくすると、髪をいじっていたティルルカの両手が、思いがけぬ速さで御馳走の群れに伸びる。が、それは御馳走には触れもせず、我の杯を引ったくった。
「それは俺の酒だぞ」
まだ口をつけてはおらんが。そう注意を促したはずが、ティルルカは杯を口に、した。これには我の方がどぎまぎした。ティルルカは乱暴に杯を置くと、真っ赤にした目をこちらに突き刺した。
「…寝床に男の人が入ってきて、びっくりしない女の子なんていないわ!」
そしてティルルカは、誰憚ること無く声を張り上げた。絶叫しおった。
「ぶほっ!!!」「はぁ?!待て待て!いや、まず声を抑えろ!」「なによ!本当のことでしょ!?」
背中に何かが降りかかったが構っている余裕は無い。それどころではない!乙女の寝床に押し入ったなどと、よくも大声で言ってくれたものだ。
「印!あそこには、寝床の印が無かったぞ!」
敢えて、我も大声で応酬した。
「もうすぐ完成するの!引っ越しもまだだし、印なんてそれからでしょ?」
「ならばまだ!寝床ではない!押し入ってもなければ、何かをしてもいない!」
我に罪は無い。無いと言ったら無いのだ!罰はお呼びでない。
ティルルカは反論せずに、こちらを睨み付けたままクークを口に押し込めた。一応は、こちらの都合を理解したと見える。
「…もう。私一人、馬鹿みたいじゃない」
しかし不満は残ったようだ。ふたつ、みっつとクークばかりが減っていく。こちらにはニクの盛られた器ばかりだ。
「おい、我にも寄越せ」
「ふん。さっきの一枚は美味しかった?」
「…あぁ。これまでに食べたクークの中で、一番に美味いと思ったな。極まった塩味には感服した」
だからもっと寄越せ。朝の分も含め、十一枚では味わい足りん。ティルルカはもう一枚を口に収めると、クークの盛られた葉皿をこちらに引き寄せた。
「そこまで言うなら、食べてもいいわよ」
「おお有難い」
なにやら鼻を高くしているところを見ると、こいつはティルルカの作った物で間違いなさそうだ。手製というだけでなく、この味付けを生み出したのがティルルカである可能性まである。
「お前も塩気の濃い方が好みだったのか?」
少し探りを入れるとしよう。無論、クークを食らうことも忘れていない。
「うん。だからいつか、思いっ切り塩辛くしてやろうと思ってたのよね」
そうかそうか。美味い、もう一枚。
「一皿焼き上げてみるまでは皆に反対されたけど、結局はコレが、今年の味になったわ」
ところが我がよくよく味わううちに、ティルルカはさらりと自白するに至った。可愛いやつめ。早く、もっと褒めろと言うのだな?
「だろうな。見て驚き、食って更に驚きだ。よくぞこの味に仕上げたな。こいつの前では、ニクも形無しだ」
「ふふ。気に入ってもらえて良かったわ」
ニクそっちのけでクークを貪るなど初めての経験だ。しかしまぁ、なんとも心地好い。ティルルカとふたり、春の日差しに包まれているかのようだ。我が、クークとティルルカの微笑みのふたつを堪能していると、ティルルカは芋酒に再び口をつけた。
「で?さっきの話なんだけど」
そうして笑みを深くした後、ティルルカは杯を膝に落ち着けた。また寝床の話に戻るのだけは勘弁してもらいたい。
「あれって求婚されたと思っていいのかしら?」
そっちか。
「そう、だな。そう捉えてもらって構わん」
「へ~、否定しないんだ?」
ティルルカは杯を撫でながら、目元を更に和らげた。
「あぁ。昔からの、我の本心だからな」
いざ言霊にしてしまえば呆気ないものだ。悪行を働いたという心持ちでもない。アルスとして省みても、恥じる要素は無いように思った。そうだ。こんなもの、きっと規則の方が悪いのだ。
「男の人から求婚するなんて、規則違反なのに」
と口では言うものの、ティルルカもそれを咎める気はないのか、くすくすと小さな笑い声まで立て始めた。実に結構。そして笑みをそのままに、手にある杯をニクに持ち替えると。
「でも、そっか。あなたは悪戯小僧だもんね」
ティルルカはぱかりと口を開いてニクに噛みついた。おいおい、それは聞き捨てならんぞ。
「…悪ガキは卒業した。頼むから、素直に受け取ってくれ」
なにも我は、悪戯気分でこんな大それた違反をしたつもりは無いのだ。心外だ。それをこいつは、なにを晴れ晴れと言ったり食ったりしてくれおるか。先程までは驟雨も間近といった表情であったのに、それを払った功績を悪ガキなんぞに奪われているのも解せん。この曇りの無い笑顔は我のものだ。
「素直に受け取ったわ。その上でどうするかは、私次第。でしょ?」
ティルルカは肉を食い食い、のほほんと語った。求婚と分かった上で受け取ったというなら、そちらから何か言うべきことが有りそうなものだ。
「どう、すると言うんだ?」
「そうねぇ…」
と言ったきり、ティルルカはニクのお代わりに夢中になった。そう見えるほどに、きっと、ニクを食らいながら黙考している。熟考しているはずだ。その間、我は生唾ばかりを飲み込み胃もたれしそうなぐらいだった。
「そうね」
ふたつ目のニクを綺麗に平らげた後、ティルルカはもう一度、その言葉を繰り返した。
「あなたの言うイクサとか、努力っていうモノも気になるし。時期が来たら、お返事しようかな」
「…そうか」
これはどう捉えれば良いのだ?保留、それとも遠回しなお断りか?ティルルカは余程気に入ったのか、同じニクを口いっぱいに、それはもう美味そうに頬張っている。もう語るべきは語ったということか。しかし分からん。再びティルルカの気持ちが分からなくなってしまった。分からんのだから、悪いふうに考えるのはやめだ。イクサをする猶予を頂けたのだから、これは朗報に違いないのだ。
「そうか。では、そいつを待つとしよう」
今は取り急ぎ、共有できそうな情報の収集に努めよう。
「ティルルカ。すまんが、そのニクの器もこちらへ寄せてくれ」
そいつは一体どれだけ美味いのか。我が呼び掛けると、ティルルカはきょとんとした顔を見せた後、するすると器を差し出した。些か目に止まる仕草ではあったが、それに言及するべきだとは思わなかった。理由は無い。悪ガキの残像が我の口を押さえた、ということはあるのだろうか。
「ふふ、こいつも美味いな。ティルルカが作ったものか?」
こんがりと焼かれたニクは複雑な香味を放ち、これも一口食べれば止まらない。それにそうだ。やはり仕留めてすぐに、血抜きをしたのが良かったに違いない。
「そうなんだけど、これは我が家の味付けって感じかな。うちで干し肉に使う香料なんかを使って、試しに焼いてみたの」
「ほう。その干し肉も食ってみたいものだな」
そいつも夫婦になれば食えるのだ。我はティルルカの目を覗き込んだ。しかし残念ながら、含みを持った発言は、そのまま芋酒に洗い流されてしまった。我の、芋酒。
「芋酒をもらってくる」
杯を返せ、とは言えなかった。そうして立ち上がりかけたところで、右の手首をがっちりと掴まれた。
「駄目。今年のは凄く酒精が強いみたいだから、絶対に駄目」
そう言うティルルカの顔は白いままだが、その首元や、我を拘束する手などは赤みを帯びている。こいつめ、そこそこに酔っているな?化粧に隠されて、今の今まで気付くこともなかった。
「一杯ぐらい良いだろう?」
「駄目。もしも今、化け物が出たりしたら、どうするの?」
酔っ払いに言われずとも分かっている。だから、一杯だけに留めるのだろうが。このニクを、クークを、我も芋酒と共に味わってみたいのだ!手首はそのままだが、まずは膝立ちとなった。
「駄目!」
この時、正面にあるティルルカの目尻が、ぐいっと持ち上がった。
「今年のアルスは、あなた!」
そこまで怒ることか?
「イルルカなんだから!」
久方ぶりに耳にする自らの名に、ティルルカの天を衝く怒鳴り声に、我は腰を落とした。
「ちゃんと役目をこなして、帰ってこれるようにしてなきゃ駄目なの!」
ぴしゃりと言ってのけると、ティルルカは杯を大きく煽った。
「…はい」
抵抗する気力は消し飛び、我はほんの小さな声を絞り出した。説教を受けた後、これほどお行儀良くお返事をしたお記憶は無い。ティルルカから名を呼ばれた記憶もほとんど無い。はて。昔は互いに呼び合っていたのだが、いつからか、口にすることも耳にすることも無くなっていた。良い機会だ。あまり恥ずかしがらずに、きちんと名前で呼ぶように心掛けるとしよう。ついさっきは、自然に呼べていたことでもあるし。
「分かればよろしい」
ティルルカによる拘束が解ける。すると、膝を付き合うような距離で向かい合わせになっている状況が、途端にむず痒く感じられた。こそこそと御馳走に向き直れば、まずは音が還った。幸い、大騒ぎしていたのは我等だけではなかった。そこかしこで好き勝手に騒ぎが起き、我等二人に注目している者は、ログサムと奥方ぐらいだろうと思った。
「こっちも同じか」
我等を眺めるのに飽きたか、それとも聞こえない振りをしているのか、ともかく我の予想は外れていた。
「え。なんだろ?」
余所見をしていたところ、ティルルカが我の肩をつついて何かを知らせた。
「うちのお父さんが、こっちに向かって何かしてるんだけど…」
「…どこだ?」
あまり良い予感はしなかったものの、ティルルカの指差す方を渋々と見やる。すると探す間も無くモジャモジャしたものと目が合った。
「なんだあれは?丸、か?」
「多分、丸かな」
親父殿は腕を大きく上げて、赤ら顔の上で丸を作っていた。それはモジャモジャ頭の輪郭を綺麗になぞるようで、我には二重丸にも見える。
「なにが、丸、なのかしら?」
「分からん。親父殿の奇行は、理解しようとするだけ無駄かもしれん。既にかなり酔っているようでもあるし、暖かい目で見守ってやればいい」
「人の父親に随分な物言いね。同感だけど」
悪ガキのまま歳を重ねると、きっとあのようになってしまうのだろう。我は道を誤るまい。こうして改心できたのもティルルカのおかげだ。そう思えば、この二日間の苦悩も報われる。あとはティルルカと夫婦になれたならば、自らの生に一切の悔いは無いと言い切れる。努力を絶やさず、イクサをやり抜き、念願叶ってその時が訪れたなら。姉と兄、そして父母の眠る墓に花を手向けに行こう。愛しきティルルカを連れて。