夏至の祭 5
我が、もう結構と言うのに、ログサムは未だに謝罪のようなものを続けている。
「ほら、もう水辺が近いぞ?機嫌を直せって」
「機嫌は良いぞ。最高だ」
首に巻き付いたログサムの左腕が無ければ、な。暑苦しい。この暑さならぬ熱さがあれば、禊もさぞ爽快なことだろう。
「そんな顔してたんじゃあ、女も寄ってこねえぞ?」
どんな顔かは知らんが、そいつは困る。どうやらログサムは、正攻法でのご機嫌取りを諦めたらしい。
「お前もよぉ、アルスに選ばれた若人が、これからどうなるか知ってんだろ~?」
「…さぁ、どうだったかな」
あぁ、知っているとも。アルスを目指した頃から、薄々は気付いていたとも。我も期待していないと言えば嘘になる。大嘘になる。
「しらばっくれるな!最初が肝心なんだぞ!俺達はよ、ただでさえデカくて怖がられるんだから、表情ぐらい柔らかくしておけ!」
そう言いながら、ログサムは我の眉間をぐりぐりと捏ねた。捏ねられた結果、より固く引き締まった気がしないでもない。
「表情ぐらいで、我の気迫が誤魔化せるものか」
「その気迫を抑えろ!おりゃ、引っ込め!」
眉間に突き刺さるのはログサムの親指か、それともオーリンの枝か。最後の囲いを抜けると視界は明るく広がった。まずは対岸の森に目を走らせる。異常なしだ。それから少しばかり目線を下げると、夏至の朝がそこにあった。
「夏至だな」
郷の全ての者が、今ここにいるのだろう。常ならば危険なはずの水辺で、皆が楽しげに水浴びをしている。これは夏至にしか許されない、ほんの一時の、束縛からの解放なのだ。禊とは、身体や精神を清めるためのものらしい。我も早く清めねば!
「こうしてるのも勿体ねぇ!行くぞ!」
言いつつログサムは、ご機嫌取りを放棄して駆け出した。
「応!」
身体の軽くなった我もそれに続く。禊とは、元来は厳かに行うものらしい。ならば我等、悪ガキはどうするのか?決まっている。悪さの詰まった頭から、いち早く清めるのだ。このようにして。
「飛び込むぞぉ!ぐはは!」「うはは!避けろ避けろぉ」
突き出た岩を足場にして大きく跳ねる。あとは頭を下にして着水すれば、見事、禊は完了である。我等ほど華麗に禊を行う者はいまい。高鳴りは泡に包まれた。派手な音がしたはずだが、水の中にあっては定かではない。
「今年の水も硬いな!」「顔が痛ぇ!」
実に爽快。鼻垂れであった頃も同じようにして、柔らかな水の中に秘められた硬さを知ったのだ。あの時と同じく今日も、清浄な水が身体に染み込むようだ。
「よしよし、その顔なら大丈夫だな」
今度はどんな顔だというのか。我が頭だけを出して泳いでいると、同じようにしているログサムがそんな言葉を発した。
「穢れが落ちたか?」
「あぁ。男振りも上がった」
それは結構。ログサムは先程から我の顔を気にしているようだが、我は我で精一杯に取り繕ってはいるのだ。ともすれば蕩けそうな頬を引き締め、軟弱に尻を落としそうな目を引き上げる。二度とは訪れん、この朝だ。だらしのない顔を晒したくはない。
「あ、こいつめ!いっそ水に沈めとけ!」
「ぶは!阿保!溺れたらどうする!」
入念に清めてこようとするログサムの手を押し退けると、我は川岸への避難を試みた。
「よぉし分かった!そんじゃあ、勝負といこうや?」
勝負?背後からそんな言葉を突き付けられては、振り返らずにはおれん。
「なんだ突然」
確認しておきたかったが、ログサムの腕は水面下にある。まぁ、それがどのようにあるとしても、勝負と言われて引く気は無いのだが。
「俺とお前、どちらが長く息を止めていられるか、水中で我慢比べだ!」
「受けて立とう!」
禊と遊びを両立させるとは面白い。我は深みに足を戻しつつ、呼気の全てを追い出した。
「せーの、で息を吸ったら潜れよ?」
我が頷くと、ログサムも大きく息を吐いた。
「せーの!」
ログサムの掛け声に合わせて肺を満たすと、どすんと身体を沈めた。いきおい、息が漏れ出ようと問題は無い。我に秘策あり!だ。ここの水には、弱いながらも流れがある。流れに身を任せれば頭を出してしまう可能性が残り、何より格好が悪い。となれば踏ん張る他無い。結果、流れに抗おうと神経を削り、さらには呼気を消費してしまうのだ。では、どうすれば良いのか?その答えを両腕に乗せて、我は水面を下から撃ち抜いた。
両腕を水中から出すと浮力が弱まり、両の足裏が川底に根付いた。あとは踏ん張る代わりに、川上に少しばかり重心を傾けるだけで良い。するとどうだ。最小限の力のみで直立することが叶った。勝った。川面から人の両腕が生えているというのは奇怪だろう。だが構うものか。この両腕は執念の化身である。我は静止しつつも勝利へと邁進しているのだ!さて、ログサムはどうしているだろう?こちらはまだまだイケる。目を開けて確認したいところだが、そうはしない。水中で目を開けるなど、緊急時を除いて決して敢行してはならん。聞くところによると、生気というのは目玉にも強く宿るらしい。であるからして、水中で目を開けたままにしていると、なんと目玉が泳ぎだすのだそうだ。泳いでいった目玉が帰ってくるかは知らん。試したくもない。我ほど生気に溢れているなら、その目玉は元気よく大海にまで至り、きっとそのまま帰ってくるまい。そう。だから、絶対に水中で目を開けてはならない。この教訓を我に聞かせたのは誰であったか。ログサムは水中でも、強がって目を開けたままにする阿保だ。ログサムではないな。他の年上の人物のはずだ。歴代のオサの誰かだったか?いや、そこまで年寄りから聞いた感じでもない。男の声が耳に残っているから、母は違う。父は有り得ない。そもそも父の記憶が無い。このような教訓を赤子に言い聞かせるような偏屈ではなかったはずだ。知らんが。しかしそうだ。父のような年齢の男だったはずだ。オヤジ連中の誰かか。
ううむ、思い出せそうで思い出せんそろそろ苦しくなってきたぞ急にきたログサムはどうだろうもう少し頑張れ頑張ってだったかもう無理だ頑張って無理無理頑張。
「ぶはー!!どうだっ、我の勝ちか!?」
我が水面から顔を出すと、そこにはまだ、ログサムの頭はなかった。そんな馬鹿な!我の秘策が敗れたというのか?そんなはずはない。
「おい、どこだ?」
流れに身を任せたか、それとも溺れたか?ログサムを探せど姿は無く、返事も無い。
「お~い。こっちだ、こっち」
いや、返事はあった。声のした方を向くと、ずいぶん離れた川岸にログサムが立っていた。
「勝負はお前の勝ちだ!ぶふふっ、楽しかったぜ!」
そしてそう言ったきり、こちらへ来ようともしない。勝ちと言われたはずだが、勝った気分にはなれない。してやられてしまった。ログサムがどういうつもりかは、すぐに理解できた。親切半分、悪戯半分、といったところだろう。これまで何度となく、端から見てきた光景が甦る。我がゆるゆると浅い所へと移動すると、いくつもの目が動くのが分かった。やはりそうなのだ!我の予想は、予測は、間違いではなかった。つ、遂に、この時が!
四方八方どころか、百方から向けられる視線に絡め取られることなく、我は岸辺近くに座り込み、厳かに禊を再開した。
郷の男は、十八を迎えた年に求婚されることが多い。しかし、大きな例外があることも察していた。その例外とは、未婚の男がアルスとなった時だ。理由については知らん。ふたつばかり予想はできても、女子の考えることなど我には分からん。事実のみがあれば良い。我は今まで見てきた事実を、これから当事者として体験するのだろう。
身体を熱心に磨きつつ、ちらちらと辺りに目を配る。程無くして、我は女子の群れを確認した。五人だ!乙女ばかり五人だ!五人もの乙女に囲まれたアルスなど、過去に見た記憶が無い。これは大変なことになったぞと、水面に心を落ち着けた。落ち着けようとした。落ち着くはずもない。水面はゆらゆら揺れている。川だものな。当たり前だ。それでいて我の心を映すには、ぴったりの鏡だ。鏡どころか我の心そのものだ。こんなものを見ていては、余計に心が揺れに揺れる。視線を逃がすと。
「ん?」
乙女は三人になっていた。いやいや、不満な訳ではない。三人で十分なのだ。一人は俯いてしまっていて表情すら分からんが、残る二人はとびっきりの笑顔を携えている。どちらもふたつ年上の姉さまだ。思わず我は、会釈などしてしまった。だが、こうする以外にどうすれば良いのだ?
「ほら!」「行ってきな!」
と、その姉さま二人が押し出したのは、控えがちだった残る一人の美しい乙女だ。
そうか。彼女が。彼女一人か。一人で不足か?そんなはずがあるか。
有難い。
心からそう思った。そうして彼女の右肩辺りの空白を見て、やはり残念に思うのだ。残念?なんと無礼な!彼女になんの不満がある!この不純をなんとか削ぎ落とそうと、肌を磨く手に更なる力を込めた。
「ケ、怪我は大丈夫ナノ?」
我を気遣う声は、水面以上に揺れていた。我はといえば、残念に思ってしまったことが尾を引いて、彼女の顔を見ることができずにいた。
「コンナモノ、どうということは…」
怪我が、火傷がどうした。こんなもの、今の今まで忘れ、て?!
「痛たたた!」
禊をやり過ぎた!布で擦る必要など無いものを、傷口までめちゃくちゃに擦るとは。今になって、傷口が怨嗟の大合唱を始めた。
「もう!」
だがその瞬間、痛みなど掻き消えた。座り込んだままだった我の足は、反射的に地面を蹴りつけたはずだった。だが。
「じっとしてて!」
足に一瞬遅れて意識と耳が、その馴染みのある声に、ぎょっとしたところで我は頭を押さえつけられた。
「は?!なにを」
お前は昨日、あれほど怖がっていたではないか!
「薬草!持ってきてあるから!!」
その有無を言わせぬ迫力は、ティルルカのものだ。どこにそんな力があるのかと、首を傾げたかったが動けもしない。
「お、お、お前」
頭の中身も同じだ。樹液なんぞが詰まった頭で、この状況を、変化を把握できるか!
「髪はどこへやった?!」
一番に浮かんだ疑問はこれだった。目の前の。いや、今は後ろに回ったらしい。目の後ろのティルルカは、その輪郭を変えていた。
「髪?…後ろに垂らしてあるけど?」
「なに?」
誰かと思ったぞ。あれさえ見えていれば、残念に思うことなどなかったというのに。しかし、この勘違い、まさかティルルカに悟られてはいないだろうな?
「禊の時は、いつもこうしてるの。顔に濡れた髪がかかったら…気持ち悪いでしょ?」
きっと大丈夫だ。そう信じる他ない。そうやって返事もせずに我が悶々としていたところで、ティルルカによる治療が始まった。発火した肩に、薬草が、ティルルカの指が冷たく触れる。我はその指の感触に夢中になった。何もそれは我だけではなくて、傷口の方も同じらしい。じりじりと焼け、しつこく痛みを訴え始めたその口は、ティルルカの指が這うごとに押さえつけられていった。夢見心地とはこのことだ。
「…黙ってないで、何か言ってよ!」
何か言えと仰られてもなぁ。我は今、夢と現の間を、心地好く漂っている次第でありましてだなぁ。声を出すのも億劫でありますなぁ。
「さっき…私の方を見た時、がっかりしてなかった?」
「してないぞ。するわけがない」
していたな。無駄にがっかりしてしまったなぁ。
「ふーん」
ふふふ。髪型が変わった程度で、誰だか分からなくなるとはなぁ。言えん。これは言えんなぁ。いつも表情ばかりに気を取られて、顔立ちなどまじまじと見ることもなかったせいか?違うな。あぁそうか。きっと隠れんぼのせいだな。そうに決まっている。求婚を受けたならば、ティルルカの顔立ちをまじまじと確認してやろう。
「…嘘ついてるでしょ?どんな顔してたかも、覚えてないんだ?」
んん?!心を読まれた?まずい!これは完全にバレている。頭が馬鹿になっていたところだが、ティルルカの執拗な詰問で目が覚めた。我が勘違いしたことを初めからティルルカは確信していたのか、それとも今の短い受け答えで確信を得たのか?非常にまずい。次はなんと答えるべきだ?我が答えを探し当てる前に、治療が終わったのか、ティルルカの指の感触は消えてしまった。
「お前の手は、優しいな」
名残惜しく呟けば、誤魔化しぐらいにはなるだろうか。しかし、これほど豊かな時を過ごせるなら、怪我をするのも悪くない。
ふふ。さて、こうしてアルスの前に乙女一人が現れたということは、だ。いずれ、いつかは分からんが、我等二人は結ばれるのだろう。今まで見てきた事実がそうだった。しばらくは待つことになるのかもしれんが、我はティルルカから求婚を受けるまで、どっしり構えておれば良い。ふふふ。待ち遠しいな。ティルルカめ。アマノジャクなやつだと気を揉んできたが、その実、我を憎からず思っていたとはな。ふふふふ。こうなると最早、そこが愛らしくすらあるな!さぁ早く、更なる事実を我に見せてくれ。
ん?えらく静かだな。ティルルカはどうした?
「なんだ、禊はまだだったのか」
我が振り向くと、当然そこに、ティルルカの姿があった。ティルルカはこちらに背中を向けている。手桶で水を汲んでは、頭から水を被る。それを静かに繰り返した。
「禊とは、そうやるものなのか?」
誰にも教わったことなどなかったが、よくよく観察すれば大抵の女子は同じように行儀良く水を被っていた。その整った所作は美しく、やはり我には似合わないと思った。
「頭から飛び込む禊も悪くないぞ?」
流石にこの提案は無理があったか?ティルルカからの返事はこない。まじまじと背中を見れば、そこから怒りの粒子が発散されているようでもある。これは参った。原因はなんだ?なんとか機嫌を直してもらわねば。我はそろそろと、しかし、ちゃぷちゃぷと足元を言わせながらティルルカに近寄った。川原で見てきた事実に、我も加わろうとにじり寄った。
「禊が終わったら、もう少し深い所で」
水浴びをしないか、と続けるつもりだった。それが途切れたのは、ティルルカが急に振り向いたためではない。ただ、そこに信じられない物を見た我は凍りつき、瞬きすらできなかった。
ティルルカの顔にも髪にも水が滴っているというのに、我はそこに、涙の跡をはっきりと認めた。ティルルカの目が、真っ赤に腫れているからそう見えるのか。そもそも何故、真っ赤なのか。涙が出るほど怒っているのか?そうだな?産まれた頃からの付き合いだというのに、髪型程度で判別不能になるとは、さぞかし不愉快なことだろう。軽く考えた我が悪いのだ。きちんと詫びよう。そう決意して、我は息を補給した。
「私なんかでごめんね」
しかし、先に詫びの言葉を放ったのは、ティルルカの方だった。驚きの連続で息が、言葉が詰まった。私なんか、とはどういうことだ?何故、ティルルカが謝るのだ?求婚するのが、ということなら何も文句は無い。相手が我で良いのかと、こちらが尋ねたいぐらいなのだ。分からん。唐突に、一体なんだ?
「…おい、何を言う」
我の言葉は誰もいない川岸を通り過ぎる。さっさと歩き出したティルルカは、無言で我の横を通り過ぎた。その背中を追いかけようにも、我は一体なんと言って追い縋れば良いのか。
我が悩むうちにも、ティルルカの姿はどんどん小さくなった。まだ間に合うぞ!追え。待て、よく考えろ。いや、とにかく、追え。待て。追え!待て!
思い悩み、葛藤すれば樹液は熱を持つ。その熱いやつに今、特大の拳骨が落ちた。