夏至の祭 2
歯に挟まった小骨を舌で苛めていると、やがてそいつは白旗を上げて喉の奥へと逃げて行った。早めの夕飯の名残であった最後の一欠片が無くなると、尚のこと、あの久方ぶりの御馳走に思いを馳せてしまう。火の落ちた竈の中の暗闇には、それはそれはデカい焼き魚が隠されていた。よくぞあれだけ香ばしく焼き上げたものだ。あの香りを、味を思い出すだけで天にも昇る心地になれるのだから、食われて本当に天に昇った側も、左様ならと赦してくれることだろう。
「これより、祠の封印を解くがぁ、鐘には絶対に触れぬように」
ここに来るのは一年ぶりか。地下にある祠への入り口は、大岩の隙間にある。昨年は怪我を理由に中に入ることを許されなかったが、今年は違う。我はアルスに選ばれたのだ。儀式の中心は我だ。さぁ早速の出番だ。
「体調の悪い者は申し出よ!」
オサの間延びしたものとは違う、この覇気に満ちた声はどうだ?耳心地が良かろう?
「すみません」
オサが封印を解くのに手こずる中、若人が一人、ゆるゆると手を上げた。
「どうした、一番若いお前が」
「いえ、体調は万全です。ふたつ、お聞きしたいことがありまして」
バトラカは今年、十五才になったばかりだ。父に代わり、男衆として初めて夏至の祭に参加するのだ。疑問はいくらでも湧いてくるのだろう。
「オサに代わり、我が答えよう」
むしろこれは、ワタリニフネ、とかいうやつだ。開封の時間稼ぎになる上に、我の懐や知識の深さを披露する絶好の機会である。夏至の祭については、アルスになると決めた時に調べ尽くしてある。女子衆の秘儀を除いて。
「ありがとうございます。では、鐘、とはなんでしょうか?」
良い質問だ。答えて進ぜよう。
「良い質問だな。それに答えるには、我等の郷ができた頃にまで遡らねばならんが、端的に言えば、鐘とは正に、郷の秘宝である。よいか?そもそも我等が先祖は、北方のマチという場所から長い旅に出た一団である。化け物に怯える日々。食糧が尽き、遂には水も尽きた。そんな中、切なる願いを聞き届けた慈悲深き神々は、我等の先祖に神器を下賜された!その神器は、力ある者の生命力と引き換えに、水を生み出すというものだった。神器を賜った先祖はどうにか生き長らえ、この地に根を下ろした…というのが一般的な伝承だ。が!実はこの話には語られぬ部分が存在する。力、そして勇気ある者、初代勇士様の功績がそれだ!初代アルス様は、己のが生命力の全てを捧げ、我等が郷を守る結界!即ち!郷を囲む水辺を生み出したのだ!!西にある湖もまた、そのお力によるものと、我は推測しているが、まぁ、ここまで信じるかは…バトラカ。お前の好きにすると良い」
ここまで語れる者は、オヤジ連中とて存在するかどうか。これらの伝承は、今は亡き先々代のオサやら、今は亡き先々々々代のアルスから聴取した貴重なものだ。いつの日か、我が語り部となろうと思ってはいたが、こうして披露する機会を得るとは。バトラカには感謝せねばならん。
「ご、ご教授ありがとうございます…ですが、俺が伺いたいのは、鐘の形状というか、特徴でありまして」
「ほう。勤勉だな。感心感心」
初代アルス様よ。御先祖様よ。バトラカのような若人がいる限り、郷は安泰であるぞ。さて、どんな特徴があったか。色は、形は?
「…見た目も分からないままでは、いくら触れるなと言われても、気の付けようがありません!」
その通りだな。我も伝え間違えることのないようにと、必死でその特徴を思い出そうとしているのだが。思い出せん。
「一体全体、どのような形状をしているのですか?」
いや、待て。待て待て待て!我は昨年、鐘の姿を間近で見ることさえ。
これはマズい。
「うはは!バトラカよ。安心するが良い。見れば、自ずとそれと分かる!」
力技だ!
「神器とはそういうものだ!楽しみにしておれ」
こういう時は、これに限る。
「なるほど!そうでありましたか。安心しました」
おう!なんと素直な!危ないところで、アルスとしての威厳は保たれた。ふう。我は今、お前を特別に可愛がってやると心に決めたぞ。
「よしよし。で、疑問はまだあるのだな?知りたいということの、ふたつ目はなんだ?」
オサはオヤジ連中の手を借りながらも、未だ開封に至ってはいない様子。ふふ。当代のアルスにお任せ願おう。
「はい。体調の悪い者、と仰られましたが」
あぁ、そのことか。毎年、間の悪い輩はいるものだ。だが、責めてはならん。当人が一番辛いものだからな。先に危険性の周知を誘導し、当人が素直に申し出る機会をくれようとは、バトラカは若くして、相当に人ができている。
「その、お言葉ですが、アルス様は大丈夫なのですか?火傷の手当てを受けておられましたよね?」
は?火傷?
そうだ、我はハグレモノ討伐にあたり、手傷を負った。そうだ。今年の我もまた、体調が万全であるとは言い難い存在なのではないか?気迫が先行し過ぎて思い至ることもなかった。
「…」
「おい、どうするんだ?こういう場合」「ただの言い伝えだろ?」「だが万一ということもだな」
皆、小声ではあるものの騒ぎは大きくなりつつある。当代アルスの危機に焦点を当てたバトラカの瞳に、濁りなど存在しない。彼は我のような悪ガキとは違う。純粋に、秘儀の成功と、この我を慮って意見したに違いないのだ。
「案ずるな!深慮の上である!」
嘘だ。深慮など、我から程遠い物であることぐらいは承知している。だが、目の前に立つなりたての若人を失望させたくはなかった。
あぁでも嫌だ。神器に触れて死すなど、我の望みではない。まだ何も、成してはいない。
「我はアルスだ。アルスに選ばれたのだ!お役目を果たすべく、研鑽し、今がある」
だが!自らに失望するのも、もう沢山だ。
「もしも儀式に耐えきれず、我が死したならば!後のことは、先代であり好敵手であったログサムに託す!」
我はアルス。怯えはあろうと、それを表には出すまい。
「異論など許さん!」
我が威勢を振るうと、ただただ可哀想なのはバトラカだ。彼は何も悪くはないものを、頭を叩き割る勢いで地面に伏した。
「無礼をお許し下さい!俺…ワタクシはただ、アルス様が心配で」
「許す。我は、お前の才知に期待している」
すまん。許してくれ。
「これこれ。秘儀を前に、争い事はいかんぞ?」
そこへ、ようやく開封を終えたオサが現れ、バトラカを助け起こした。そして、杖を一突き。
「これより始まるは、再生の秘儀」
オサは最早、声を張ろうともしていない。だが、こちらの方が幾分心地良い。いくらか我の覇気も和らいだ。覇気は、か。怖気も消えれば良いものを、身体の芯にあるままだ。
「選定の儀で選ばれし五人衆を先頭に、皆、祠へ入るのじゃ」
五人衆とは駆けっこの上位五人を指す。その筆頭がアルス、我だ。尻込みしていると思われる訳にはいかん。ずんと足を踏み出すと、岩の隙間に身を滑らせる。狭い。小さ過ぎる入り口だ。それに。階段か?なんだこれは。真っ暗どころか真っ黒で、奈落のようだ。そうでないなら化け物の口か?
「下りたかの?奥まではせいぜい二十歩じゃ。まずは中程まで進みなさい」
化け物に飲み下されると、完全な暗闇と冷気に肌を嘗められた。何も見えん。冷気が無ければ身体の輪郭すら分からん。それすら今にも消化されてしまいそうだ。だが、足は止めるまい。
「鏡は、このぐらいの角度で構わんか?」「阿保。見えるか。列が途切れんことには、調整するだけ無駄だ」
外からの声は緊張の欠片も無い。羨ましい限りだ。オサの言葉通りに十歩数えた所で我が立ち止まると、間を置かず背中に衝撃を受けた。
「すまんすまん」
ログサムの声だ。
「気を付けてはいたんだがな、許せ」
「いや。こうも暗くては仕方無い」
駆けっこの後、初めてログサムと交わす会話だ。続けて馬鹿話でもと口を開いたが、そこから音が出ることはなかった。恐怖心に負けたか、自制心が働いたか、それとも我が、疑心を捨てられずにいるためか。
「さっきの長話はなんだ?俺達がガキの頃の…へへっ。ありゃ先々代だったか。あの先々代のオサみてぇだったぞ?」
ログサムは漏れ出る笑いを隠さず、更には我の左脇を小突いた。今はそれに、我はどう応えれば良いのか忘れてしまった。この暗闇が悪いのだ。早く光を。早く、声を。
「…その先々代から聞いた話だからな」
なんだその回答は。もっとこう、なんだ。あのジジイはすぐに拳骨をくれよったな、だとか、あの禿げ頭は平手打ちすると実に良い音がしたな、だとか。ほれ、色々あるだろうが。
「ぐはは!」
何も面白くはないだろうに。ログサムは祠を崩さんばかりの大笑いを披露した。
「ふふん?さてはお前…」
面白くないだけではない。流石に不審がられたかと、我は大いに窮した。そこへだ。がっしりと、我の首に太い何かが巻き付いた。品定めを済ませた化け物の舌が、いよいよ絡み付いたのだと思った。
「ビビってやがるな?!」
なんだ。ログサムの腕、か?
「まさか」
こう返すのが精一杯だ。あぁ、ビビっているとも。助かった。この暗闇は我を脅かしつつも、同時に我を守っていると言える。我自身、今、己がどんな顔を晒しているのか分からんのだ。
「この真っ暗か?それともまさか、鐘に触れるのが怖いってんじゃねえだろうなぁ?」
「そんな訳があるか!神妙にしているだけだ、阿保め」
おう、今の威勢は良かった。勝手にだが大きく口が動いたために、顔の強張りが解けたようにも感じる。
「そんなら良かった。さっきは妙なことをぬかしやがるから、渇を入れてやろうと思ったが」
さっきの妙なこと、とはどれのことだ?心当たりが多過ぎる。駆けっこを終えてからこれまで、悪ガキらしからぬことを何度口走ったか。
「必要なさそうだな、アルスよ」
閃光が走った。身体の真芯と、暗闇に。
「お!少し戻せ。ゆっくりだ」
オヤジの誰かが祠の外へと呼び掛ける。
そんなことよりも、だ。ログサムが我をアルスと呼んだのだ。それだけで我の頭は空っぽだ。今、初めて気付いただけで、元々そうだった可能性もある。
「そこだ!よし、そこで固定していいぞ」
瞬きのうちに暗闇はほの明るくなり、祠の奥に鐘と思しき物体が見えた。しかし空っぽの我は、初めて見る鐘という物よりも、闇を払った光源の方に気が行った。光は背後からではなく、真上から差している?自然、仰ぎ見ると。我の頭上には、満月が存在した。
「なんだこれは?」
「なんだろうなぁ。上にある穴から上手く光を通すと、この石?が光るんだとよ」
これまで暗闇にいたからか、我はその石を本物の月だと錯覚してしまった。その月光に照らされたことで、我等のいる祠が壁や天井に至るまで石作りであることを知った。
「それより、出番だぞ?」
ログサムに背を押されると、鐘が一歩、近くになった。
「では、アルスよ。これより再生の秘儀を執り行う。良いと言うまで、振り返るでないぞ?口も開かぬが良い。皆も、口は開かぬように」
しまった。またも精神統一ができぬまま、儀式は始まった。さりとて不安に思う必要は無いはずだ。歴代のアルスが、ログサムがやり遂げた儀式なのだ。我にできぬ道理は無い。
「光あるうちに、まずは台座にある鐘を手に取るのじゃ。触れるのは、側面のみにするのじゃぞ?」
オサが導いてくれている。大丈夫だ。一歩踏み締める毎に、できる、と自分に言い聞かせた。
「壁にある方の鐘には、視線も意識も向けぬが良いぞ」
それは無理な話だろう。だが、そうなのだ。神器というからには、ひとつきりであると思わせておいて、鐘は全部でよっつも存在したのだ。オサの口振りから察するに、それら全てが本物の神器なのだろう。しかしだな、こいつの側面を持て、だと?目の前にある鐘というものは、さして大きくはない。丸鍋の底を深くしたような形状であるのだが、なんとそいつは、側面全体に長いトゲを生やしていた。
これが鍋であるなら、上部にあるのは蓋だ。しかし、よくよく見てみれば継ぎ目のような部分は存在せず、外れるとも思えん。鍋ではないようだ。側面とは違い、上部には長いトゲが無い。その代わりにトゲの赤ん坊と言うべきか、何か小さな突起が中央にひとつだけある。トゲトゲの側面と、つるんと平らだが持ち手のある上部。触れるなと威嚇するのは側面であり、上部からは私を持ってと誘惑がある。んん?持つべきはどちらだ?
まさか、オサめ。
「側面を持つのじゃぞ?」
いや、言い間違いではなかったらしい。観念してトゲ面に手をやると、こそばゆいばかりで突き刺さることはなかった。持ち上げてみて分かったことだが、台座には鐘に合わせた窪みが存在した。窪みの底にあるのは穴だ。
「ではアルスよ。鐘を被るのじゃ。そして、決して動かずに、じっとしておれ」
鐘を、被る?底面は存在せず、中は空洞のようだが。鐘とは、兜の類いの物だったのか?しかしこれは、些か不恰好なのではないか。
ええい!また繰り返されても堪らん。ただ、被るだけだ!意を決して、我は鐘を装備した。
「動くでないぞ?」
動くものか。覗き穴などは無い。再びの真っ暗だ。これが兜だとするのなら、とんでもない欠陥品である。我は足を貼り付かせたまま時を待った。
「ホイ!」
んん?オサか?変なものを被っているせいで、音の通りが悪い。オサにしては張りのある声だな。それにこれは?かつん。これは、杖を打つ音か?一体何が始まるのだ?
かつん。かつん。かつん。かつん。我がいくら待てども、聞こえてくるのは杖を打つ音ばかり。拍子は一定なものの、何やら強弱がつけてある。これは?我は誘われるままに、耳に意識を傾けた。
そうか!一、二、三、四、五。うむ、五だ。五音を繰り返しているのか。音には、確かな規則が存在した。強、弱、弱、強、弱。こうだ!これを繰り返しているようだ。だからなんだ!なにやら気味が悪い。いや!気味が悪くなどない!大丈夫だ!全く以て怖くなどない。しかしだ。祝詞か何かを唱えるかと思いきや、延々と杖を打つ音を聞かされるとは。他の者は大層退屈なことだろう。我はもっと退屈であるぞ。うはは!退屈万歳だ。鐘とやらに触れても、被っても、我は平気そのものだ。退屈なだけだ。虚仮威しも良いところだ。ん?
我が努めて意識を逃がそうとするも、音の方は我の意識を逃がさなかった。
んん?かつん。かつ。かつ。
予期せぬ音の変化に、我の意識は絡め取られた。拍子はそのままでも、響きがまるで違うのだ。
おかしいぞ。音が弱く?いや、移動している?遠く、小さくなっていくぞ?かつ。か。
おい、次はどうした?意識は耳のみにある。では耳が無くなったのか?
そうではない。何も聞こえん。オサは杖を突くのを止めたのか?それとも、祠から出たのか?む、何も聞こえんどころか、煩いな。これは。我の鼻息か。しかし煩いな。獣の鼻息かと思ったぞ。
阿保。獣などいるか。いるわけがない。あぁくそう。怖くなどない!退屈なだけだ!
いつまで待てば良いのだ?
「まだ口を開いてはならんぞ」
驚いてなどおらん!オサの声だ。やはり外に出ているらしく、どうにも声が遠い。
「鐘を元の位置に戻すのじゃ」
ようやく終わりか。清々するわ。夏の盛りにこんなものを被らされては、汗をかくのも当然だった。首を伝う汗は、そういった由来のものだ。だが、これですっきりだ。我はトゲ面に手を添え、慎重に持ち上げた。持ち上げたのだ。
ん?んん?されど何も変化は無かった。我は鐘を外した、な?うむ、外している。だが。
真っ暗だ。我は鐘を持ち上げたまま、瞼すら見えぬ暗中で、模索すらせず汗をかいた。
「ゆっくりで良い。だが、決して落とすでないぞ。郷に災いが降りかかるでな。ゆっくりと、台座に戻すのじゃ」
無茶を言うな!だが!無茶をやり抜けるのがアルスだ。まずは台座の位置だった。万が一にも鐘を落とす訳にはいかん。鐘を落とさずに、台座を探るには?手を自由にするためには?簡単なことだ。もう一度、鐘を被れば良いのだ。
いや待て。下ろしかけた手を、我は真上に伸ばした。神器だぞ?二度も被って良いのか?台座に戻せと言われたぞ?被り直すという行為は、台座でない場所に落とす、という行為になるのではないか?分からんが、余計な動作は控えるべきだ。台座はどこだ?そうして自らの動きを辿ろうとして、辿り着いたのはオサの言葉だった。
そうだ。我は、動くなという言葉をきっちりと守ったのだ。鍛え上げた足裏はずっと、地面に食らい付いたままだ。ならば台座は正面、腰程の高さにあったはずだ。ちょうど、この辺りに。こつんという小さな音が響くと、思わず安堵の息をついた。無論、言い付け通りに口からのものではなかった。
決して、誓って、そうではなかったのだ。続けて届いたのは獣の唸り声か、呻き声か。同時に異なる響きがある。まだ遠いが、複数だ。決して大きくもないそれは、なんとも不吉に木霊した。これは。これは警告だ!警告に違いない。何かは分からん。だが、今も確かに聞こえる。この暗がりには、やはり何かがいるのだ。
「まだ油断するでないぞ。今一度、確かめてみよ」
オサの導き。そうだまだ、良い、ではないのだ。振り返る時ではない。
「元の通りに、寸分の狂いもなく、じゃぞ」
寸分の狂いもなく?可能なのか?いや、そうだ。これもまたオサによる導きだ!台座には窪みがあったはずだ。正しい位置ならば、狂いが生じることなど有り得ぬはずだ。
「焦ることはない。良い、の言霊は鐘のみが告げる」
分かった。オサよ。我は信じるぞ。信じるがな、本当に鐘が、神器が喋り出すというのか?鐘の声など聞いたことはない。それは一体どんな声だ。
「耳を、心を澄ませるのじゃ。アルスよ。ワシは、皆は、そなたの再生を待っておるぞ」
そうか。分かった。従おう。
我は動きを止めて、耳も、心も澄ませてみたものの、そう努めたものの。我の耳には何者も囁きはしなかった。我が悪ガキであるからか?心が澄んでいないせいか?
オサの導きは、あれで最後なのだろう。獣の鼻息が近い。いや、断じてこれは、我の鼻息だ!
これまで生きた、この郷を想う。耳を済まし、鐘を滑らせる。揺らす。返答など無い。正面など、最早忘れて久しい。導きを、指針を失った我はどうすれば良いのだ?これに対する返答は、あるはずなどなかった。ただ、額に当てていた布が、目元へと滑り落ちただけだ。阿保が。暗闇で目隠しなど、なんの意味も無い。悪ガキめ。ここに、お前の両手があるかのようだ。
意味はあった。我はその手に、確かな勇気を得るのだ。ティルルカ。がんばって、だと?言われるまでもない。
すまん、婆様。誓いの言葉に誇張が生まれてしまった。郷を想うなど、守るなど、我には壮大過ぎた。我は。ティルルカ、お前を守ることに決めたぞ。お前を守ることこそが、郷を守ることに直結するのだ。どうして守りたいと思うかなど。知れたことだ。知れたことだ!ティルルカ。ティルルカの暮らすこの郷に、災いなど降らせてなるものか!
胸の深くにあった迷いが消え去ると、鐘は台座に張り付いたようになった。揺らそうにも微動だにしない。これで良いのか?良いとしたなら。良いとしたならば、鐘の声は?耳を澄ませろ、だったか?耳に意識を傾けるのだ。傾けたが、未だ何も聞こえることなどない。暗闇に鐘があるだけだ。静かに、そこにあるだけだ。ならば獣の声は?何も澄ませることはない。聞こえるはずがない。静寂だけがある。いや、何か聞こえる?
強、弱、弱、強、弱。なんだこれは?オサか?いや、杖の音とは似ても似つかん。耳を澄ませるだけでは、なかった?そうだ、耳と。心だ。
心を澄ませる、とはなんだ?分からん。澄んだ耳に響いているのは、ただの音だ。声ではない。今もそうだ。獣が発する音と、これはなんだ?心を澄ませろ。
声?心を澄ませると、聞こえたのは様々な声だ。これまで我が受けた、様々な人の声だ。己を、他人を、信じるのだ。我等が先祖の下賜されたものはなんだ。鐘だ。神器だ。水を生む神器だ。そうだ。オサは導いてくれただろう?良い、の言霊は鐘のみが告げると。鐘に、耳と心を澄ませろ。
雨?てん、てん、と途切れ途切れに聞こえるこの音は。大きな雨粒が石を打つ音だ。祠の中で雨だと?雨のはずがない。しかしこれは、水滴の奏でる音色だ。音のする方角は、背後ではなく正面?その時、暗闇しかないはずのそこに、我は確かに光明を見たのだ。音を発しているのは、目の前の台座だ!まさか、ではない。そうだ。これが鐘の言霊なのだ!迷いは晴れた。
これこそが、良い、だ!
瞬きほどの逡巡すらなく、我は振り返った。後ろを確かめた。暗闇だ。災いの影は無い。ただの暗闇がある。だが、暗闇だけではないのだ。
そこには小さな、本当に小さな光があった。二十歩程先の階段に、我を迎えるように光が落ちていた。