夏至の祭 1
飲みたくはなかった。では、飲まされたのか?全くそのようなことはない。認めたくはないが、我は一年もの間、進んで苦汁を飲み続けたのだろう。発端となるのは、きっちり一年前。夢にまで見た夏至の祭での出来事である。念願叶って、ようやくだ。遂に儀式への参加を許されたというのに、我の残した結果といえば。
競い合いなら誰にも負けぬ、はずだった。だが、我は。惨敗したのだ。善戦すらできておらん。ボロボロに、手酷く、完全に、敗れてしまったのだ。右足に負った傷よりも、自負を傷付けられたことの方が何倍も痛かった。
くそ、本当に痛い。古傷から痛みは去ろうと、胸は未だ、ぐりぐりと抉られるようだ。じくじくではなく、ズキズキ、もしくはビリビリだ。それにそう、胸の痛みというならば他にもあった。訳の分からぬ痛みだが、こちらの痛みも無視できん。ズキズキやビリビリではない。もっと別種の痛みだ。こいつを克服するためにも、我は今日、勝たねばならんのだ。勝利を捧げねばならんのだ!
あぁ、長かった。実に永かった。
「いよいよ、か」
待ちわびたぞ!分厚くなった足裏の皮を大地に叩き付けると、空桶をふたつ、宙に放り投げる。その暫し後に槍を振るうと、手桶は槍の両端にぶら下がった。うはは!
「うむ。絶好調だ!うははっ!」
此度こそは負けるものか!四肢に気と歓喜が満ち満ちると、これは一体?全身が鼓動しているかのようではないか。ムシャ震いという言葉は耳にしたことがあったが、もしやこれがそうなのか?新たなる境地が今、ここにあるに違いないのだ。
「へへ。気合い十分って感じだな。だがな、ミル坊?」
ミル坊。その言葉を聞くなり、天井知らずの昂りを生んだムシャ震いは不規則で不快な律動へと退化した。してしまった。なんということだ。不愉快極まりない。
「今年も勇士となるのは、俺様よお!」
「…ふん。ログ兄が我をそう呼ぶのも、今日までだ」
そう、今日までにしてみせる。みっつ歳上のログサムは、我がこの郷一番にでかくなった今も、鼻垂れ小僧であった頃のようにミル坊と呼ぶのだ。この一点だけだ。兄貴分のログサムを、本気で煩わしく思うのは。
「おうおう。お前も精々頑張るといい。俺様の次に速けりゃ、お前の長~~い名前を覚えてやるさ」
確かに我の名は長い。生きて産まれることのなかった姉と兄、二人の名を背負っている。いわゆる継ぎ名持ちだ。それに加えて本来の名は、安産のお呪いである双子名ときている。実の兄弟でもないのに、双子名に付き合わされた相手には同情するが、我の生は正に、祈りの結晶なのだろう。
「いいや。ログ兄に、そのような苦労をかけるつもりは無い」
ここまで長く、仰々しい名は、きっと郷の誰も覚えているまい。ログサムにも覚えてもらわなくて結構だ。
「アルス、と呼ばせてみせるからな」
「今年こそは期待してるぜ?お前が奮闘してくれなけりゃ、俺様こそが郷で一番だと胸を張って名乗れねえからな」
「あぁ、これこの通り…此度は怪我の心配など、皆無だ」
我が鍛え上げた足裏を晒すと、ログサムもまた、同じように右足を上げた。
「ぐはは!恵みの木のトゲなんざ、ぶち折っちまえ」
「うはは!そうだな!ぶち折ってやるか!」
そうして大笑いしながら二人で空を蹴っていると、周りの男衆までもが盛んに囃し立てた。今日でなければ、オヤジ連中とて先程の我等の言い様に怒鳴り声を上げたのだろうが、今日は年に一度の祭だ。そんな無粋な野郎は一人も現れなかった。野郎は、だが。
分かるぞ。何か、背負っているな?
「何を折るだって?この悪ガキ共が!」
しゃがれ声がひとつ落ち、広場のざわめきは押し潰された。続いて男共の群れを切り裂いたのは、さほど大きくもない人影だ。素早く動くそれは、幼馴染の女子であり、双子名の片割れでもあるティルルカのものだ。
「よお!」
ログサムは全く怯む様子も無く、目前に迫ったティルルカに向かって吠えた。
「まだ生きてんのか!婆様!」
無論、ティルルカは婆様などではない。ティルルカはといえば、温度を感じさせない一瞥をくれよる。ログサムに向かってではなく、どういう訳だか我に向かって、だ。腹の裏、それも少し上がむず痒い。と、ティルルカは立ち止まるなり我等に背を向けた。
「まぁだ死ぬもんかね。玄孫の子供を抱くまで生きてやるさ」
するとようやく、背負子に鎮座する婆様の姿が露になった。ティルルカの曾祖母か何かのはずだが、名は知らん。忘れた。婆様は婆様だ。郷の最長老である。
「一昨年までは確か、玄孫を抱くまで、と言ってなかったか?」
「ぐはは。いくつまで生きる気だ」
婆様は近頃、少しばかり耳が遠くなったらしい。お陰でこうして小声でやり取りすれば、お耳溢しに預かれるという寸法だ。だが。それだけでは詰まらぬ。我は口の端の笑みまで吸い込み、肺をぼんと膨らませた。
「婆様!」
昨年、歳の数では大人の仲間入りを果たしたが、婆様の仰る通り、我は今も悪ガキである。それで大いに結構。
「何をどう聞き間違えたのかは知らんが、怒りを鎮められるが良い!」
悪ガキ上等。悪ガキには悪ガキなりの作法があるのだ。
「あまり興奮しては、心の臓に悪い!玄孫の子を抱けんくなるぞ!」
広場に轟けとばかりに、我は肺を空っぽにした。破裂せんばかりにログサムが笑えば、続けてオヤジ共も息を吹き返した。こんな馬鹿をやれるのも、今、この時期だけなのだ。広場は男衆の笑い声やら何やらで満ち、婆様のしゃがれ声は最早、誰の耳にも届くことはない。
しかし、その喧騒の中にある全ての者に、甲高い耳鳴りが襲いかかる。我もログサムも、誰も彼もが顔をしかめた。いや、婆様の顔だけは元々シワまみれであり、しかめているかは判然とせんか。
「──静まれ!」
その耳鳴りが止むや否や、婆様とは別の女の声が届く。
「祭だからと油断が過ぎる!少しは加減を覚えんかッ!」
それは女子衆を引き連れた、守り手の一喝であった。
「ジオン殿こそ、もう少し加減をしてくれ。コメカミの辺りが破けるかと思ったぞ」
我は一足早く、男衆を代表してみせた。のだが、それが聞こえぬ訳も無かっただろうに、我の苦情は無情にも捨て置かれた。うむ。まぁ別段、文句は無い。アルスが狭量であるはずがないのだから。ジオンを先頭に女子衆が合流すると、平時はうら寂しいばかりの広場は俄に色付いた。
今、この場に集うは、子がいないか、同性の子がまだ十五才未満の大人ばかりだ。婆様とジオン、そして影の薄い長を例外として。そのオサが今、杖で大地を一突きすると、男女の区別無く、皆がそれに従い正座した。我も辛うじて、それに遅れを取ることはなかった。夏至の祭は、男衆と女子衆が広場に集った刻より始まる、という決まりを思い出した。決まりは決まりなのだが、まったく。オサは融通という言葉を知らんらしい。
「この一年、よくぞ皆、生き延びたぁ。夏の務めを終えた今日この日ぃ。これより始まるは、村の最も重大なる祭儀ぃ、夏至の祭である」
その上、声に張りも無い!今度は耳と尻がむず痒く、どぉーにも居心地が悪くて仕様が無い。隣に目をやればログサムも同じな様子であり、背筋がくねくねと波打って見えた。
「始まりの儀はぁ、郷のアルス選定の儀。一同ぉ、準備は良いかぁ?」
応。という皆の声も揃いが悪い。オサは男衆の最年長が務める決まりなのだが、これはもう、改めた方が良いのではないか。
「夏の昼間はぁ、長いようで過ぎるは一時。婆様の合図を以て、即刻開始とするぅ」「合図の前に、だ」
婆様はジオンに目線を送りつつ、間髪入れずに口を開いた。
「ひとつ、小言を言わせてもらうよ」
予想はできたが、実際に婆様の小言が始まると思うとげんなりとした。婆様のことだ。ひとつどころか、ふたつみっつとお叱りは続くのだろう。こんなものは聞き流すに限る。
小言の後に始まるアルス選定の儀とは、要は駆けっこ、だ。最も速くに水汲みを終えた者がアルスとなる。実に単純だ。アルスは郷を守る英雄である。では何故、英雄たるために競うのが、力や技などではなく速さなのか。それは、この郷を守るために必要なものが速さだからだ。実に明快だ。
この世界は巨大な化け物だらけだ。我等の隠れ郷が化け物の標的となった時、アルスは誰よりも早く駆け付けねばならん。が、駆け付けるだけでは不十分だ。討伐が可能なら、立ち向かわなくてはならん。人より少し大きい程度ならば、我等も負けはせん。しかし、自らの倍以上もデカい化け物と対峙した時、武は無価値となる。それに立ち向かうことは勇気か?否だ。蛮勇だ。奮戦など無意味。ただ屍を晒し、郷は蹂躙され尽くすのだろう。
我は。我等はそれを許すのか?許すものか。我等は、我こそは、愛する者を守るのだ!
だからアルスは、走る。ひた走るのだ。率先して囮となり、化け物を引き付け、郷の外へと誘導する。可能な限り遠くへと。当然、帰還が叶わぬこともある。
だが、そう。これこそがアルスの役目なのだ。
我は、郷一番にデカくて速い。
我が一番に、上手くやれる。
我こそが、アルスとなるべきなのだ。
我ならやれる。できるぞ。負けるものか。一番だ。駆けるだけだ。一年前とは違う。足裏は鍛えた。何も心配は無い。応!今年こそは我が!アルスに!
そうすればきっと。ん?
「おや?」
婆様の声が揺れた?いや!殺気!!
「ぅうおっ!?」
我の精神統一は、何か固いものに突如妨げられた。それが額に当たる寸前、掌で捕らえられたのは日頃の鍛練の賜物だ。視界の妨げとなる己のが右手を下げると、利き手をこちらにかざしたティルルカと目が合った。もしやこいつ、土撃魔法を放ったのか?額に向かって?右手は未だ、痺れがひどい。我の防御が間に合わねば、どうしていたのだ!
「人の話は、きちんと聞け」
うげ。何故、我が上の空であったと?
「馬鹿」
それだけを言うと、ティルルカは再び我等に背中側を向けた。代わりに現れたのは、やはり婆様だ。婆様?シワに埋もれてどこに目があるのか分からんぞ。もしやそれは、睨み付けているのか?
「…もうよいわっ。時が惜しい。男衆!支度をせい」
どうやら婆様の大小言は終わりらしい。今は夕刻近くか。ひとつも耳に入らんかったが、相当に長かったであろうことは足が語っている。オヤジ連中のものなど、縺れたりよろめいたりの酷い有り様だ。
「こりゃあ、俺達のサシの勝負になりそうだな?」
「実に気の毒だ」
同年代と言える若者は、他にも数人、いるにはいる。が、奴らは特別足が速いわけではない。言わずもがな、他に得手とするものはあるのだが、それはそれ。此度の勝負事は我等二人に分がある。
「まぁ一番は…」
我だがな、とまで言おうとして口をつぐんだ。ログサムは精神統一に入ったらしく、目を瞑り、足首に縄を結び付けていた。ログサムは子はまだだが、妻帯者である。きっとあの縄は奥方が様々な祈りを込めて編んだ物に違いないのだ!実に、実に羨ましい。
あぁ、これはマズい。良くない流れだ。ログサムはこの一年の間、二度に渡りアルスとしての役目を果たしている。大いなる試練を潜り抜け、とてつもない成長を遂げているはずなのだ。そして今、奥方の加護まで受けている。更には。今年中に、ログサムは。父親になるという噂まであるのだ。まだ本人から話こそ聞けてはいないものの、恐らく噂は真実なのだろう。今、それを悟った。ログサムの顔は、静かに落ち着き切っている。闘志を完全に包み込んでいる。これが父親になる、いや、なった者の顔付きなのだ!
なんということだ。今のログサムは、実力に加え、加護まで手に入れている。奥方の加護。産まれ出ずる子の加護。あちらに神仏が微笑みかけるのも無理はなかろう。我に、勝ち目はあるのか?
「ん?」
掌に湧いた冷や汗を潰すと、右手にある石に柔さのあることに気が付いた。なんだこの石は?拳を開けど、ただの石があるばかりに思えた。だが、その石をどかしてやると、折り畳まれた布切れが姿を現した。
「これは…」
石を放り出して布を伸ばすと、やけに細長い。と、その真ん中にある文字が、我が両の眼に入った。
『がんばって』
それはもう、蟻というよりも砂粒の如しという小ささで。器用なものだ。一度は、がんばれと書き、れの部分は塗り潰したのだろうか、奇妙な黒丸が邪魔をしてはいるが。
「オーリンの実を潰して書いたな?」
なんと!なんと愛おしい!いや、落ち着け。まだ、そうと決まった訳ではない。乱れがちな呼吸を、今一度、そこにある言霊に落ち着けた。落ち着けようと努めた。それこそが、その文字の望みだと信じた。すると一応は、呼吸が落ち着きを見せた。呼吸だけは。
がんばれ、だと?貴重な食糧を。悪ガキめ。直接言えば良いものを。ひねくれ者め。手渡してくれれば良いものを。恥ずかしがり屋め。背中など向けなければ良いものを。
「なんじゃ、支度は済んだんか?」
いや、背中は仕方無くなのか?
「…まだだ。だが、もう済む」
心が落ち着かないばかりに、婆様に妙な視線を送ってしまった。即刻お忘れになって頂きたい。気を取り直し、真っ白な布を足首に巻こうとした。が、それには少し長過ぎた。ぐるぐると巻き付けても良かったのだが、それでは文字の居場所が不明になる。それでは駄目だ。ならば?
「そうか。だからココを狙いやがったのか」
傍目に晒すつもりは無い。文字を額に押し付け、後ろで固く結ぶと、なるほど丁度良い寸法であるように思った。おお?おお!これは良い!良いぞ!
「ふふん」
知らず、笑みが漏れた。誠に素晴らしい助力を得たものだ。勝利の後、ティルルカには礼をせねばなるまい。然る後にだ。こんな物を寄越す、その訳についても伺いたい。どうだ。伺えないものか?どーーにか伺えないものか。
「額を締めて顔を緩めるとは、器用な奴だな。強張りを解くための儀式か何かか?」
ログサムは既に、身支度も精神統一も終えたらしい。
「あぁ。上体の強張りは、呼吸の妨げになるからな」
我の精神は、統一するどころか大きくふたつに分かれている。そぞろも良いところだ。ええい、軟弱者め。しゃきりとせんか。
「支度はできたな!」
まだだ、婆様。
「東へ向かい、横一列となれ!桶を忘れた阿保はおらんな?」
残念ながら阿保はいないらしい。男衆は皆、我先にと位置につき始めた。無念。我も渋々それに続くこととした。まさか覇気の欠片も無い状態で駆け出すことになるとは。ログサムの位置の確認まで怠った。まあ良い。すぐに分かる。
「ほれ!駆けぃ!」
行くか。婆様が合図と共に手を打ち鳴らすと、皆が駆け出した。我も同じだ。事前の構えも怠ったはずだが、不思議にするりと身体は前に出た。ログサムに張った虚勢は、なんと実態を持っていたらしい。身体は柔く、いつも以上に軽やかに動く。
「アルスは俺様のもんだ!」
それでも、ログサムの声は前方から届いた。二番手は我だが、既に五歩ばかり離されている。ログサムの足は、やはり相当に速くなっているようだ。
「いいや!我のものだ!」
更に二歩程の距離を離された所で、我も速力を上げた。ログサムの背中は遠ざかることはなくなった。そして、近付くこともなかった。くそっ。こうなれば、水汲みを終えるまではログサムに先を譲ろう。そういう作戦だ。道程は問題ではない。儀式の最後、ジオンの守護を破るのが我であれば良いのだ。
「この速さなら、400は切るぞ!」
400とは、我等が帰還するまでに婆様の心臓が鼓動を打つ回数のことだろう。ログサムは駆けながらも、声を張る余裕を見せ続けた。ならば我も負けるわけにはいかん。
「ほう。その程度か!我は、300は切るつもりだったが」
と声に出すうちに、足の回転は自然と速まる。僅かにログサムとの距離も縮まった。
「なんの!俺様は280はいける」
それは流石に嘘だろう。息が続くはずがない。
「実を言うと、我はそれを切るのが目標だ!」
「はん!目標なんぞ、なんとでも言えるわっ」
応酬してやりたかったが息が切れ始めた。全速で駆けながら喚き合うなど正気の沙汰ではない。やめだ。道は平坦ではなく、障害物も多い。集中を欠けば足を取られそうだ。そうして暫し静かに、そこかしこに生えるオーリンを避けながら駆けるうち、ログサムとの距離は十歩以上になった。ログサムは、ログ兄は本当に。
「速いな」
我も速くなったはずだが、ログ兄はそれ以上だ。これは参った。これがアルスの走りか。敬意を覚える。だが。
だが、それでも、負ける訳にはいかんのだ。なんとしてでも食らい付け。息を吐け!吸え!足を動かせ!腕を振れ!それらを身体に繰り返し命令するうちに、オーリンの作り出す薄闇が遂に晴れた。水場は近いぞ!身体に鞭を打つと、ログサムの背中が、ぐんと大きく見える程に近付いた。
「待て!化け物だ!」
途端、耳が四肢を動かした。槍にかかっていた水桶は空を切り、両の足は砂利に噛み付いた。だが、それでも寸分遅かった。真正面にあったログサムの背中の向こう側に、化け物の肩と躍動する足が見える。四足の化け物は、既に我等に向かって猛進していたのだ。構えを。いや!動きを止めては危険だ。ならば。
「ぶっ叩く!当てられんなよ!」
ログサムも我と同じ考えに至ったようだった。
「続けぃ!」
ログサムが咆哮と共に、化け物の頭に槍を叩き付けた。ほんの少しばかり斜めにだ。その反動を生かし、ログサムは化け物の脇を転び抜けた。地面すれすれに下がった化け物の頭には長い角が一本、胴は長い毛で覆われて見えた。頭以外の急所が分からん。とにかく回避だ!頭を上げさせるな!
「応!」
ログサムに救われた。ログサムを模倣しただけの動きで、まずは一合、窮地を脱した。
「くそ!夏至だそ!なんでこんなにピンピンしていやがるんだ!」
ログサムのついた悪態は、正に我の心を表していた。化け物共は夏至の前後、穴の中で眠りこけているはずなのだ。何かで刺激し、起こしでもしない限り。それが郷で伝わる、化け物の習性であった。だがそれを覆す噂も、あるにはあった。
「まさか、ハグレモノというやつか?」
我等の親の世代が若人だった頃の夏、一度だけそのような化け物が現れたというのは聞かされていた。
「体躯は、確かに小さいが?」
「…ガキを怖がらせるための方便、じゃなかったのかよ」
我も今の今まで、そのようなものだと高を括っていた。だが、目の前には真実が存在している。ログサムと視線を交わし、我は向かって左に蹴っ飛び、一先ずは牽制と槍を構えた。右へと跳ねたログサムも同様だ。転回したハグレモノは後ろ足を突っぱね、我等のどちらにも威勢を示している。
「獣じゃなく、ハグレモノ?化け物だっつーのなら、スキルが怖ぇな」
スキルに警戒しろ。ログサムは、そう言っているのだろう。目の前のハグレモノは、体表のほとんどが紫がかっている。それは獣ではない、化け物の特徴だ。
「雷撃魔法持ち、でないと良いが」
化け物共は我等と同じく、スキルを有することがある。中でも雷撃魔法は大変に厄介で、防御も回避も困難だ。射程は短いものの、威力は別格も別格。どこと言わず直撃を受けて命が残れば幸運とされている。我等二人も固有のスキルは使えるのだが、射程は無いに等しい。
「来るかっ」
増援を待つべきかと広場の方角に目をやった時、ハグレモノが突進を始めた。いち早くそれに気付いたログサムに向かって、だ。ならば我は、その側面を突くのみ!迷わず駆け出した。砂利による足音を極力殺しつつ、両の腕に力を溜める。
だがそこで、ハグレモノは前足を駆り、我が方へと向き直った。眉間がびりびりと危機を叫ぶ。
「ふっ!」
賭けだった。意識に余裕のある左手にて、槍を薙ぐように放り投げた。放たれた槍は、照準だけは狂いなく、ハグレモノの、それも頭部を捉えていただろう。ただ、狂いが生じたのは雷撃魔法を警戒した我の予想だった。ハグレモノの頭部が朱に染まる。我にのみ、そう見えた。その油断が、下肢の備えを遅らせた。
「避けろぉ!」
ログサムの声よりも早く、朱色が我に迫る。吹き出た血にも見えたそれは、ハグレモノの火撃魔法だった。冷静に考えれば血ではないとすぐに判別できたはずだった。そもそも見間違えを生じることすら愚かなのだ。化け物は、血など流さんのだから。
「…くっ!」
回避が間に合わん!無駄だとは思いつつも、掌で頭部だけは防御した。即死はせずとも、上体を焼かれては長くはないだろう。
ティルルカ。
死を覚悟した瞬間、頭に浮かんだのはそれだけだった。
その我の頭部を、何かが引っ張った。そのように思った。火撃魔法は胸を焼きつつも、仰け反った頭部を掠めて彼方へと飛び去る。胸元と指先だけは、いっそ冷たい。額に巻いた布が、ティルルカが、我の頭を下方へ引いたのだと確信した。即座に。己のが足の痺れに気付くよりも早くに。
「くたばれぃ!!」
ログサムの咆哮と共に、硬質な破砕音が短く響いた。その音が膝の痺れと呼応し、我に真実めいた虚像を見せた。
屈強なはずの我が肉体は、化け物にではなく、駆けっこ如きに膝を屈した。闘いの最中に膝が抜けるという無様。その挙げ句、敵に有効打を入れることもなく、大地に背を預け、天を仰いでいるのだ。
まさか。嘘だろう?これほど美しく、広々とした青空を眺めているというのに、心は地の底にあった。
「ミル坊!」
砂利を踏み砕く彼の音は猛々しく、ログサムの声は悲痛なものだった。我の全ては、地の底にあると思っていた。
「頼む、起きてくれ!起き上がってくれ!」
だが、そうではなかった。この足音は?ログサムの呼吸は。膨れ上がるふたつの殺意は!
「応!」
まだハグレモノとの闘いは続いている!両の腕を叩き付け、上体を跳ね起こすと右足だけは大きく後ろへ構えた。視線は水平に。心は地上へと引き上げた。開いた掌は空っぽだが、身体はここにある。魂はどこにある?
「無事か?!動けるか?」
「何も問題は無い」
ログサムには悪いが、今は心遣いなど不要。むしろ、煩わしくすらあった。
「闘える」
郷の男として、武人として、アルスたるものとして、目の前のハグレモノの存在が許せん。我は先刻見た虚像を叩き壊さねばならんのだ。ハグレモノからすれば、ひどい八つ当たりだろう。
「我がやる」
だが、知ったことか。これは誇りの問題だ。こやつを打倒せずして、我が魂を地の底から引き上げることなど不可能なのだ。
「我等が郷に踏み入ったこと、後悔しろとは言わん」
構えも何もない。来い、とも言わん。我がそちらへ行く。待っていろ。抵抗したければするがいい。
「ただ、滅せよ」
角無しとなったハグレモノは我を見据え、左右に跳ねながらも駆けた。恐らくは最速で。こちらへと。
「来るならば早くしろ」
我も立ち止まるつもりはない。ゆるりと真っ直ぐに歩みを進めた。一瞬早く左から、続いて右からの火撃魔法が、我を焼き尽くさんと放たれた。
膝よ。足よ。
「鈍い」
雪辱を果たす機会を得たな。間合いを一息もかけずに詰める。ハグレモノはこちらへ前進する勢いを、ログサムのいる方向へ転じようと速度を殺している。ふん。離脱など許さん。両肩は熱いが、それだけだ。目前にあるハグレモノを仕留めるのに、支障があるとは思わん。全ての気迫を肚に込め、右手にはスキルだけではない、己の何もかもを封じ込めた。
「どりゃあああ!!」
それらを全て放つ。こやつの火撃魔法のように、何かが飛び出る訳でもない。我とログサムの持つスキルは、腕を、その表面を硬くするという、本来は防御に適したものだ。このように無茶な打撃にも転用できるが、果たしてこの化け物には有効か。
びちびちという音は耳からではなく、我が貫手から届いた。弾けたのは我の前腕か、それとも化け物の頭か。
「うはは!参ったか!!」
弾けたのは、あちら。生き残ったのは我だ!頭部を貫かれ、首の奥深くまで切り裂かれては声も出るまい。ぐうの音も出るまい!
「馬鹿野郎!二度も!お前が死んだかと思ったじゃねえか!」
ログサムは腰を抜かした訳でもないだろうに、その場に拳を打ち下ろした。
「そいつは悪かった!我も一度は、死を覚悟したがな!うはは!」
だが、我はこうして生きている。まったく。ざりざりと腕を包む感触が気色悪い。この感触など、こやつのことなど、早くに忘れたい所だが、我は一生忘れんぞ。ゆっくりと右腕を引き抜くと、倒れ伏した化け物に一礼を送る。
我が魂は今、この拳に還った。
ジオンの守護を叩き切った時、ログサムは我の後方、十歩以上の距離にあった。ハグレモノを討伐した後、我等は直ちに駆けっこを再開させたが、結果もその過程も呆気ないものであった。互いに闘いの疲労は激しかったが、正直なところ、我は勝ちを譲られたのではないかと疑ってもいる。それほどまでに、復路でのログサムの走りからは張り合いを感じられなかった。
「今年のアルスはお主じゃ。儀式の最中に化け物を討伐するなど、前代未聞じゃの。いや、よくやった!」
婆様にお褒め頂くことなど記憶に無い事態だ。だがそれでも、心は平坦なまま。
「男衆としての務めを果たしたまでだ」
だから我は無感動なまま、ぶっきらぼうに答えたつもりなのだが、婆様はシワを笑わせながら何度も頷いた。よくよく見れば、目元のそれの何本かは溝に変じている。
「うむ。役割は人を成長させると言うが、あの悪ガキが、こうも早くに立派な姿を見せるとはねぇ」
ここまで感動されては、訂正することも茶化すこともできん。婆様の涙で、我の心にも若干の熱が戻った。今少し、利口に見えるように努めて孝行してやるとしよう。
「郷を守るために、尽力すると誓おう」
と次こそは意気込んで答えたのだが、この言葉には一切の偽りも、誇張すらも無かった。婆様は残り少ない歯をこれでもかと覗かせた。声は吐息と共に引っ込んだご様子。これはこれで良い心地なものだ。
「婆様。秘儀へと移る前に、アルスに治療を施しましょう」
ジオンは儀式の進行について、なにやらオサとやり取りをしていたのだが確認を終えたらしい。この後に行われる秘儀は、男衆と女子衆に分かれて執り行われる。大方、オサを心配したジオンが世話を焼いたというところだろう。流石はジオン殿だ。火傷の手当てなどよりも優先されて然るべきだ。とは言え。実のところ、焼け焦げた衣は駆けるうちに崩れ、今の我は実に中途半端な上裸である。アルスがボロでは格好がつかない。
「誰か、手を」
そうしてジオンが広場に声をかけようとした時だ。視界の中を、婆様が素早く流れたので仰天した。いや、違った。素早く動いたのはティルルカか。ティルルカは背負子をジオンに押し付けると、我の前に立ち塞がった。
「薬を塗るから、座るなり寝転ぶなり早くして」
「は?ここで、か?」
何を好き好んで、衆目に晒されながら治療を受けねばならんのか。
「儀式を控えてるの。早くして」
そこまで急ぐというのなら、唾でも塗っておくのだが。ここで抗っても益は無いと、我が観念して胡座をかくや否や、ティルルカは徐に手桶を持ち上げた。我が先程持ち帰ったものだ。
「おい」
まさか、と我は瞼を固く閉じた。うわ冷たい。
「汗とか泥を落とさなきゃ。汚いでしょ。死ぬわよ?」
ティルルカからの前置きは一切無く、我は頭からびしょ濡れとなった。何も正面から水をぶちまけることはないだろうに。鼻腔まで好き放題に入りこんだ水を吹き出すと、ティルルカに抗議の視線を送った。
「ぶは!」
そこを第二射が強襲する。
「加減というものを知らんやつだな!せめて、頭上から流せ!」
妙だ。我は治療を受けているはずなのだ。だというのに容態は悪化の一途を辿っている気がしてならない。傷口までもが、いい加減にしろと再びの痛みを発し始めたではないか。
「はい、じっとしてて」
ティルルカはそれでも平然と我の髪を拭き始めた。固い布で、がさがさと。やはりこれは治療などではない。痛い。拷問の類いだ。額が広がりそうだ。
「伯母様。どうぞ進めて下さい」
なんてやつだ。我は何故、このような可愛いげの無い女子を。くそっ。
「ふむ、そうしよう」
もう勝手にしてくれと思ったのも束の間。ジオンが皆の前で改めて、新たにアルスとなる者を布告すると、広場は歓声と拍手で割れんばかりになった。勝手が過ぎるだろうに。
「英雄の扱いがこれで良いのか?」
我の小さな、されども大変な慟哭は、ティルルカにぐらいは届いただろう。
「生きてて、良かった」
天に回答を求めていた我は、まさかの呟きに目を地上へと戻した。そして我が眼の捉えたものは。頬を流れる、一粒の、涙?
胸が痛い。
「おい」
信じられない物を見た我は、二、三度と瞬きを繰り返した。我は何を見た?確認だ。
ティルルカの目は赤いか?否だ。普通に見える。
涙の跡は見えるか?否だ。先程の派手な水浴びの跳ね返りで、ティルルカの顔にも髪にも水滴が残っている。判別不能だ。
じゃあ、さっきのアレはなんだ?
「なに?」
分からん。
「何か言ったか?」
じゃあ、さっきの言葉はなんだ?
「なんにも?」
聞き間違えなのか?神仏の声にしては妙だぞ?見間違えたのか?あれほど美しい物が、ただの水か?
「そうか」
今、我に分かる事実は、傷口に薬草を張り付けるティルルカの手つきが、癒しを得る程に優しいということだけだ。
「はいっ、おしまい!」
「痛ぅーっ?!!」
いや、幻想だったかもしれん。傷口が罵声を発する。
「傷口を叩くやつがあるか!」
「早く板場に行かなきゃ、ご飯、無くなっちゃうよ?」
言われて見れば男衆は揃って立ち上がり、板場へと向かっていた。女子衆はこの場で、男衆は腹ごしらえの後に祠で、それぞれの秘儀が始まるのだ。こうしてはおれん!全て平らげられてしまう!
「竈の中に、一番大きいのを隠してあるから」
立ち上がりかけた我の腰帯を掴み、ティルルカは耳打ちをした。悪ガキめ。助かるぞ。
「うはは!良いことを聞いたな」
機嫌良く地面を蹴って歩き出すと、額に当てていた布が口元まで滑り落ちた。そうだ、こいつの礼を失念していた。と、振り返ってティルルカの姿を探すも、女子の群れに隠れて探し当てることができなかった。