13. 卒業の条件
右手に何かが触れた感覚。
不思議に思って、閉じたまぶたを少し開けたら――
「!?」
きれいな顔だった。
紗友の顔が俺の顔に触れそうなくらい近くにあった。
「ちょっ! 何を!?」
眠気が完全に吹っ飛んだ。
下を見ると、俺の右手と紗友の左手が、指を絡めるように繋がれている。
さらに、俺の股の間に、彼女が右手を突いてこちらへ身を乗り出しているのが分かった。
なんだなんだこの状況は!?
「奏くん……私達、大丈夫かな?」
「な、何が……?」
「私達、パートナーとしてちゃんと卒業できるかな?」
彼女の吐息が顔にかかるほどの至近距離。
きれいに整えられた髪から漂うシャンプーの香りが俺の鼻腔をくすぐる。
紗友の左手の熱が、俺の右手にはっきりと伝わってくる。
待て待て、どんどん恥ずかしくなってきた。身体が熱い。俺の心拍数と理性、どうしてくれんのよ。
「だ、大丈夫だろ。けんかしてるわけでもないんだし」
「でも私、担任の先生から心配されてるんだよ。『あなた達、このままだとちゃんとフォートから卒業できるか分からないわよ』って」
おいおい、紗友の担任、ずいぶんストレートに言うな。あの林部先生でもそんな直接的なことは言わないぞ。
「そんなこと言ったってなぁ……じゃあ、どうすれば……」
言い掛けて答えが分かってしまった。今の紗友の行動が答えだと。
「……キ、キスもしたことないよね。まずはそこからだ、って」
ウソだろ!? それが本当に卒業基準の一つなのか!?
確かに、卒業基準のそういう噂は聞いたことあるけども!
じゃあ、ここってもしかして監視カメラついてるの!? うおおマジか!
「だから、ね……」
そう言って紗友は目を閉じ、俺が最後の一歩を踏み出すのを待ち望んでいる。
どうすればいい?
ここでキスをすれば済むことなのか?
俺は本当にそれでいいのか?
しばしの黙考。汗が首筋を伝って滴り落ちる。
出した答えは――
「紗友」
「え?」
「ごめん。少し考えさせて欲しい」
紗友が目を開いた。そして、みるみるうちに悲愴な顔になり、下を向いてしまう。
その様子にいたたまれなくなり、繋いでいた右手をゆっくりほどき、彼女の身体を避けて立ち上がった。
そのまま、男性居住区域側の扉の近くに立ち、退出処理を行おうとすると。
「奏くんは――」
ふいに、紗友が語りかけてきた。
元々口調が強い方ではないのに、いつも以上に弱々しい。
「私のこと、嫌いなの?」
普段、絶対に触れない領域に、彼女は触れた。
口調の弱々しさとは裏腹な、その言葉の鋭さに思わず息をのむ。
俺はなるべく落ち着いた声色で答えた。
「嫌いじゃないよ。ただ、急すぎて俺自身がどうしたいか考えてなかっただけ。だから、少し考えさせて欲しいんだ」
俺の返答に、紗友が応じることはなかった。うつむいて表情は見えない。
俺は退出処理を行い、警告音と共に自分と紗友を隔てる扉が閉まっていった。
***
「はぁ……」
アフェクション・スペースの施設外に出て、大きくため息をつく。
なんとも後味の悪い幕引きだった。女の子にあそこまで迫られたにもかかわらず、それを拒否して出てきてしまったのだから。
この前、西島のことをヘタレと言ったけど、人のこと言えないな。
ただ、後悔はしていない。やはり、あの時点で紗友とキスするのは正しい選択ではないと、今でも思う。
思う……気がする。うん。
ただ……唇、柔らかそうだったな……
ぐっ、もったいないことしたかな……だが! しかし!
俺は頭を抱えて身悶えした。
先程までシリアス展開だった脳内が、もはや煩悩の巣窟。
クラスでも、アフェクション・スペースでパートナーとあんなことやこんなことをした、なんて話はよく聞く。
それがうらやましくなかったわけじゃない。むしろ、うらやましい。
でも、彼女が本当に俺とキスしたかったのか、それは分からない。彼女がキスをしようとしてきたのは、そうしなければ卒業できないと先生から言われたからじゃないのか?
紗友は俺に本音を言わない。だから、あの行動が本気だったのか、仕方なくだったのか、分かるすべがない。
俺は髪をかきむしって、唸り声を上げながら天を仰いだ。
ん?
気がつくと、周囲から人が離れ、奇異の視線が四方八方から突き刺さってきている。
速やかにこの場を立ち去ることにした。
***
歩き続け、アフェクション・スペースの施設から大分離れた。
このまま寮に戻ることはできるが、それはためらわれる。今は千花音と話せるような気分ではないからだ。
かといって、西島や真里の所に行く意欲も無い。今は誰とも話したくない心境だった。
目的も定まらず、なんとなく時間を潰していく。
ファーストフード店でだらだらと滞在し、本屋で時間を気にせず立ち読みする。
その間も、紗友とのことが何度も頭をよぎってしまう。答えの出ない問題を延々と考え続けてしまう。
そんなことをしていると、いつの間にか夕方になっていた。
本屋にも飽きて、街中をあてもなく歩いている最中。
ティロリン。
携帯端末にメッセージの着信があった。
もしかして……
端末を確認すると、画面には”宮町紗友”の名前。
固唾をのんで、メッセージを開封する。
『少しお話したいんだけど、いいかな?』
紗友にしては、短くてあっさりした文章だった。普段と明らかに雰囲気が異なることをうかがわせる。
先程の出来事を自分の中で消化しきれておらず、気まずいことこの上ない。だが、ここで逃げるわけにはいかない。
『わかった。自宅に戻ったら連絡する』
紗友にメッセージを送信し、足早に寮へ向かった。
***
「あっ、やっと帰ってきた! どこ行ってたの?」
自室の玄関に入って扉を閉めると、千花音が開口一番、問いかけてきた。
「ああ、ちょっと外でぶらぶらしてた」
「自分だけずるーい! ……でも、メロくんが全然帰ってこないから、わたしもちょっと出かけてきちゃったんだけどね!」
千花音が冗談っぽく舌をペロッと出す。
ほったらかしにしていた自分も悪いのだが、彼女は外へ出て正体がバレる恐れなどを気にしないのだろうか。
ただ、ヘタレ根性が芽を出している今の自分からすれば、千花音の積極性は輝いて見える。
「まあ、その話は後にして。今から紗友と映像通話するから」
「ふぅん、さっき会ってきたばかりなのに、お熱いですねぇ」
千花音が目を細めてニヤニヤする。
今は説明するのも面倒なので、勝手に想像しててくれ。
千花音の相手もそこそこに、俺はコミュニケーション・ルームへ歩を進めた。