30.望まざる選択肢
ジャックやファニーを見た時は何故彼らが、という疑問はあったが、誘拐された不安感だけがあった。
だがジェラールを見た途端ライラの身は竦み、恐怖が背中を這いまわる。
彼を見ると、それが切欠となってあの時のどうしようもない感情が蘇った。
両親を亡くした時の深い悲しみと、姉が不在の不安感。ガタガタを大きな音をたてて屋敷の中を物色して回る親戚達の声。
そして、ベッドに押し倒された時のジェラールの腕の力。どれほど藻掻いても抜け出ることは出来ず、無遠慮に触れてくる手の平。
ライラに徹底的に無力感を植え付けた、あの忌まわしい記憶。
寒さだけではなく異常なほど震え始めたライラを見て、ファニーは眉を顰める。
「ちょっとこの子、様子が変よ」
「構うことはない。コイツは俺に相対するといつもこうなんだ」
「……それもどうかと思うけど」
ジェラールの言葉に、ファニーは不快気に目を逸らす。彼女とは違い、ライラが怯えているのを見てジャックは逆に機嫌がよくなった。
「何だ、面白みのない女だと思っていたら、そんな顔も出来るのか」
ジャックがライラに手を伸ばそうとするのを、ジェラールが止める。
だからといって助かる、なんてライラには微塵も考えられなかった。冷たくねっとりとしたジェラールの視線が体の上を這いまわるのが分かり、気持ちが悪い。そして一刻も早く逃げ出すべきだと判断した。
幸い拘束はないし、ここがどこなのか分からないが彼らと一緒にいるよりもマシだろう。
ライラは意を決すると震える体を叱咤して立ち上がり、ジェラールを押しのけて部屋から出ようとした。
しかし先程まで気絶していた体は当然ライラの思うようには動いてくれず、すぐにジェラールに腕を掴まれて床に押し倒されてしまう。
「離して!!」
「お前は本当に馬鹿だな。逃げてどうするんだ? 貴族の令嬢が、男に連れ去られて監禁されてましたとでも訴えるのか?」
「……え」
思ってもみないことを言われて、ライラの思考が止まる。
「お前は何もなかったといっても、他の奴らはそうは思わないだろうな。ヴィルリア伯爵家の令嬢が汚されたと考えるだろう」
「……そ、そんなこと」
「元々お前は評判が悪い。その上でさらに家名に泥を塗るわけだ」
ぎり、と掴んだ腕を締め上げられて、痛い。ライラは痛みと怒りに顔を顰める。
確かに誘拐されて男に監禁されていた、だなんて明るみになれば伯爵家にとってとんでもない醜聞だ。
ただそこにいるだけでもライラは伯爵家にとって迷惑をかけていたのに、更に醜聞を招くなんてとんでもない。やはり欲を出したりせずに、早く家を出て行っていればこんなことにはならなかったのに。
悔しくて悲しくて、ライラの緑の瞳に涙が滲む。
その様をジェラールがうっとりと見つめてくるのが、悍ましい。
この男は、ライラが傷ついている姿を見るのが好きなのだ。そんな奴の前で、泣いている姿を晒したくない。だが、ライラの思いとは裏腹に涙は止めどなく頬を伝った。
「だが、ひとつだけ家名を守る方法があるぞ」
これは悪魔の声だ。
醜聞の原因を作っている誘拐犯から齎される解決方法が、碌なものである筈がない。
だがひどい精神状態のライラには、一瞬希望のように聞こえてしまう。
視線を向けると、目が合ったことに嬉しそうにジェラールは目を細めた。相変わらず紳士とは言えない無遠慮な視線で不快だ。
「……」
黙ってジェラールを睨んでいると、彼の指がライラの頬に触れる。まるで恋人同士のような甘い仕草だが、相手は誘拐犯でここは物置で、しかも固い木の床に押し倒された状態だ。
「お前が俺と結婚すればいい」
「…………な、にを、言って……?」
がつん、と頭を殴られたかのような衝撃に、ライラの舌が縺れる。
だがジェラールはさも名案であるかのように唇を吊り上げた。
「俺とお前が結婚して、ヴィルリア伯爵家を継ぐんだ。お前はどこの子とも知れない身のいやしい女だが、名目上は伯爵令嬢。俺はその親戚だし、そんな二人が結婚すれば俺が伯爵位を継ぐのもおかしくないだろう」
おかしいに決まっている。
伯爵位を継ぐに相応しいのは、オフィーリアだ。
「ヴィルリア伯爵家には、オフィーリア姉様という完璧な後継者がいらっしゃるわ」
ライラ自身のことをどれほど貶められようと、オフィーリアを軽んじる発言は許さない。
どれほど自分が打ちのめされようとその気持ちだけは変わることなく、ライラはジェラールを睨みつける。
するとジェラールは楽しくて仕方がない、とばかりに笑った。嫌な笑い方だ。
「そこでこの状況だ」
「え……?」
意味が分からなくてライラは瞬きを繰り返す。
「可愛い妹が俺の手によって汚されたと知ったら、あの高慢で短気なオフィーリアはどうするかな?」
「……あなたを、真っ二つにするでしょうね」
それだけは即答出来る。
伯爵家の厄介者として自覚しているライラだが、オフィーリアやウェンディから寄せられる好意を疑ったことはない。使用人を含め家族に愛されている自覚はある。だからこそ、迷惑をかける自分が嫌なのだ。
ジェラールはまた、ニヤリと笑う。
「選べよ、ライラ・クライン。俺に汚されて姉を殺人者にするか、俺と結婚して伯爵位を俺に譲るか」
こんな最悪な二択があるだろうか?
ライラが唇を噛むと、それまで大人しくしていた筈の魔力がぴりりと反応した。




