2.ふたりの騎士
ファニーが倒れたジャックに縋りながら叫ぶ。
「な、何やってるのよオフィーリア!! ジャック様に暴力を振るうなんて、あなた正気なの!?」
「気が確かだから怒っているのさ、ファニー・キトゥン。お前の恋人は私の妹を愚弄した、私の手元にあるのが剣ではなく、布で出来た扇であることを感謝するがいい」
ぱしん、とまた扇で手を打って、オフィーリアは微笑む。
ライラはオロオロと助けを求めて周囲を見渡したが、あいにく皆に目を逸らされた。どいつもこいつも!
豪奢な金の髪に青い瞳を持つ姉のオフィーリアと、銀の髪に緑の瞳の妹、ライラ。
ヴィルリア伯爵家の姉妹はこの場にはいない金髪碧眼の末の妹も揃って美しいと評判だが、ライラだけは家族の誰にも似ていない。
それはヴィルリア伯爵がどこかから幼いライラを引き取ってきて、伯爵夫妻とも姉妹とも全く血が繋がっていない所為だ。
貴族が様々な理由から養子を取ることは珍しいことではないが、出自が全く明かされない、ということは伯爵の婚外子ですらなく、孤児を拾った為だろうとライラを見た者は考えていたし、伯爵もそれを肯定も否定もしなかった。
ライラは幼かった為に引き取られる前の記憶は曖昧であり、引き取られてからは他の姉妹と分け隔てなく愛されて育った。世間に自分がどう思われていようと、伯爵家に対して愛情と恩を感じて生きてきた。
だからこそ、オフィーリアのサポートを苦に思ったことはなかったし、伯爵夫妻を事故で亡くした後も精一杯家を支えてきたつもりだった。
だというのに、ここで自分の出自の所為でこんな事態になってしまうなんて、ライラは泣きたい思いだった。
両親を亡くしたばかりの時に、親戚達に強く非難されたことを思いだしてゾッとする。
「お姉様、もう帰りましょう!」
ジャックのことはもういい、彼の下衆ぶりはライラにもよくわかった。彼とは婚約を破棄するのが正解だろう、だがこんな騒ぎになりあまつさえオフィーリアが堂々とジャックを殴る姿を人前で晒してしまった。
自分の為に怒ってくれたのは嬉しい。姉のことは大好きだ、最高の姉だ。
だが、ヴィルリア伯爵家の長女としてこれから婿を迎え入れる必要のある令嬢としては、やってはならない暴挙だった。
オフィーリアが愛情深い姉であることに非はない、あるとしたら出自の分からない身でいつまでもヴィルリア伯爵家に娘面して居座っていたライラだろう。
自分がいなければ、少なくともオフィーリアはこれほど怒ってジャックを殴ったりはしなかった筈だ。
「いや、トドメを刺そう」
「恐ろしいことを美しいお顔で仰らないで!?」
「おや、お前に褒められるのは嬉しいね。可愛いライラ」
オフィーリアはにこりと微笑む。とっても素敵だけれどそこじゃない! そこじゃないのよお姉様!
その時、ノロノロと起き上がったジャックが拳を握ってこちらに向かってくるのが見えた。
「ふざけるなよ、オフィーリア……!!」
正直あのへっぴり腰でオフィーリアに対抗出来るとは誰も思えない。ライラもそうだった。それどころか、カウンターを食らって今度こそ沈められるに違いない。
「ふざけてないさ」
何せ姉の戦意はちっとも冷めていないのだ。爛々と輝かせた青の瞳の美しいこと。
どれほどジャックの方が暴言を吐いたからといっても、一方的に婚約破棄を言ってきたからだろうと、オフィーリアがこれ以上暴力を振るう方が結果的には不利になる。
だからジャックを庇う為ではなく、オフィーリアのこれからを守る為にライラは姉の前に立った。
原因である自分が殴られれば、少しはヴィルリア伯爵家側の心象も良くなるだろう。
本当にこれが正しいのかライラにはもう確信が持てなかったが、姉に戦わせるよりはマシだろう。それしか分からなかった。
立ちはだかったライラに、可愛い妹にだけは力づくには出来ずオフィーリアが一瞬虚を突かれる。それでよかった。痛みに備えてぎゅっとライラは目を瞑った。
自分の怯えに反応して、魔力がパチパチッと小さく爆ぜるのを無理矢理抑え込む。防衛本能で防いでは、駄目なのだ。
「ライラ!」
オフィーリアが叫ぶ。
が、いつまで経っても痛みはやってこず、代わりに優しく抱きしめられる。
「……?」
恐る恐る目を開けると背の高い男性に片手で抱きしめられていて、彼はもう片方の手でジャックの腕を掴んでいた。
見た目からは想像出来ない力が掛けられているのか、ジャックの腕が小刻みに震えている。
「誰だお前!」
ジャックの口汚い言葉に、今だけはライラも賛成だった。だってさっきは誰も助けてくれなかったのに。
彼は、ジャックの問いを無視してこちらを向いた。
「大丈夫か、ライラ」
「……え?……レオン?」
艶のある黒髪に、美しい灰がかった紫の瞳。ライラは彼をよく知っていた。
トゥーラン侯爵家の次男、レオン・クォール。
三年前に隣国ガルジェラに留学していった幼馴染の登場に、目を丸くする。ダークグレーの夜会服を着ているしっかりとした体躯に涼し気な面差しと、相変わらず惚れ惚れするような美男だ。
「助けに入るのが遅くなってごめん。さっき会場に来たものだから……怖かったね、もう大丈夫だよ」
にこ、とレオンは何事もないように微笑むが、相変わらず片手はギリギリとジャックの腕を締め上げている。むしろ、何か人類の腕が向いてはいけない方向に曲がりつつあるのが見ていて怖い。
「おい、いつまで私の可愛いライラに触れているつもりだ。離せ」
ライラの腰を抱くレオンの腕を、ペしんと扇で打ってオフィーリアが介入する。
「助太刀なんて必要なかったのに」
「リアを助けたわけじゃないよ」
レオンはオフィーリアの愛称を口にして、苦笑した。
「だろうよ」
オフィーリアが容赦なく返し、ライラはぎゅっと姉に抱き寄せられた。慣れた柔らかな感触と姉の香水の匂いに、ライラはほっと力が抜ける。
と、同時に離れてしまった背の高い体にほんの少しだけ寂しく感じて、己のはしたなさを内心で恥じた。
「よしよし、ライラ。乱暴に引き寄せられて怖かったね」
「お姉様……」
もう何が何だか分からなくなってきて、ライラはクラクラと目眩を感じる。
この状況に加えて、無理やり魔力を制御したことも心身に負担がかかったようだ。
「おい、いい加減に離せ!!」
ジャックが怒鳴りそれを受けてレオンが薄く笑って突き飛ばすように腕を離すと、ジャックは反動で後ろに転んだ。
そこに、夜会の主催者であるショーン男爵がようやくこちらに向かってくる。周囲の人をかき分けて、男爵は騒ぎの真ん中へとたどり着く。
「オフィーリア嬢! これは一体どういうことですかな!?」
「私の所為か?」
「騒ぎを大きくしたのはリアだろう」
白けた様子でオフィーリアが言うと、レオンが素早く返した。ライラから見て、この二人は本当に仲がいい。
「違うんです、私が……」
自分の所為で姉が怒ったのだとライラが訴えようとすると、レオンの指が唇に触れそうな程に近くで立てられた。
「ライラは、悪くない」
「近いぞ」
オフィーリアがそれをすかさず扇で退ける。
彼女とレオンの親しげなやり取りに、ライラはぼんやりと寂しい気持ちを味わった。そして同じく彼らを見たショーン男爵が、レオンを認めて声を上げる。
「クォール卿! こちらにおいででしたか」
「招待をありがとう、男爵。騒ぎを起こしたのはゴドル子爵令息で、オフィーリア嬢は妹君への無礼に対して怒っただけだよ」
レオンがあっさりと状況を纏める。
オフィーリアの苛烈な攻撃を見て「怒っただけ」と言うのは些か無理があったが、ジャックの行いが紳士的ではなかったことは周囲の参加者達も見ている。その気配を察して、ショーン男爵は困った様子でありながらも頷いた。
かなり派手で異例ではあったが、社交界にはもっとひどい刃傷沙汰もある。
この場にいる者皆にとって、そして社交界の全ての者にとって、今夜の出来事はちょっと過激なゴシップの一つに過ぎないのだ。
「分かりました。ゴドル子爵令息! 私の夜会で騒ぎを起こされては困りますな」
ショーン男爵がそう言うと、最初の威勢はどこへやら、ジャックは信じられないと言う表情を浮かべて慌てて逃げ出した。その後をファニーが追いかけていく。
「おや。女には強く言えても、男に言われると尻尾を巻いて逃げるのか」
オフィーリアが皮肉げに言うと、レオンは困った子供を見るように眉を下げた。
「……あの手合いは厄介だよ。気をつけた方がいい」
「あんな男に、私が後れを取るものか」
フン、とオフィーリアが返すと、レオンは片眉を上げる。
「君の心配はしていない」
「だろうよ。全く……外国に行ったところで、ちっとも変わっていないようだな」
オフィーリアの声が遠い。
ショーン男爵が場を纏めている背中を見て、オフィーリアが肩を竦める様を見て、それからレオンが心配そうに自分を見遣る姿を見る。
「ライラ?」
低くて、落ち着いたレオンの声。大きな手の平。永遠に自分のものにはならない、高貴な人。
事態が収束しつつあることに安心して。そして変わりない自分の立場に絶望して、ライラは限界だった意識がふっ、と離れていってしまうのを悔しい思いで自覚した。
もっと強くなりたいのに。
最後に感じたのは、温かくて力強い、大きな手の平の感触だった。