17.つよくてやさしい
その言葉を、三年前のライラならばどれほど喜んだだろう。
でも今のライラには頷くことが出来ない。
ライラは、ギードリアの社交界の嫌われ者だ。結婚して、妻としてレオンの役に立てるとは思えない。
そもそも今でこそ伯爵令嬢という身ではあるが、出自不明で本当の親が誰なのかも分からない。万が一後に血の繋がった親が見つかり、彼らが犯罪者ででもあったりしたら? どれほどレオンに迷惑をかけるのか、考えるだけでも恐ろしい。
彼のことを愛しているからこそ、彼の愛を受け取ることは怖かった。
レオンと共に生きて行くことが怖い。自分が彼に迷惑をかけてしまうかもしれない、と思うだけで身が竦むのだ。
「……その」
震える唇で、ライラは必死に言葉を紡ぐ。レオンはただ真っ直ぐにライラを見つめて、こちらの言葉を待ってくれていた。
「その……申し出を断ったら、伯爵家の補佐の話はなくなる……?」
思わぬことを言われた様子でレオンは目を見開いた。それから慌てて首を振る。
「そんな風に考えさせてしまって、悪い。補佐の件は正式に国から任された仕事だから、この件とは関係ないよ。……ライラの、本当の気持ちだけで答えて欲しい」
本当の気持ち。
本心ならば、勿論Yesに決まっている。
けれど、ライラはまだただの「ライラ」ではないから、レオンの求婚には答えられないし、伯爵令嬢という身分を捨てたただの平民のライラならばそれもまた、侯爵令息のレオンの求婚に答えられる身分ではなくなるのだ。
結局、ライラはどうなっても、レオンと一緒に生きていくことなんて出来ない。
悲しくなって、ライラは僅かに微笑んだ。
その笑顔を見て一瞬光明を見出したらしいレオンだったが、ライラの瞳に盛り上がった涙を見てすぐに顔を曇らせる。
「ライラ……」
「ごめんなさい、レオン。その求婚はお受け出来ないわ。……ごめんなさい」
ほろほろとライラの瞳から涙が溢れる。
レオンも辛そうに端正な顔を歪めたが、プレスされたハンカチを差し出してくれた。
「……理由を、聞いても?」
「……ごめんなさい」
何を言っても、きっとレオンはそんなことは気にするな、と言ってくれるだろう。優しい人だから。
姉や妹達がそうであるように。
でもそうして優しくしてくれる人達を、ライラは手助けすることは出来ず迷惑ばかりかけてしまっているのだ。
もうこれ以上迷惑をかけない為に、出ていくつもりなのだから。
「他に、好きな人でも……いる?」
「違うの……」
「……ライラ」
レオンの声が苦しそうだ。それを聞くのも、辛い。
大好きなレオン。彼には絶対に幸せになって欲しい。彼の幸せを、万が一にも自分が邪魔したくなかった。
「こんなにも、好きなのに……」
引き絞るようなレオンの声。
ライラだって愛している。それでも、どうしようも出来ないのだ。
「ごめんなさい……」
涙をこぼし続けるライラにレオンは立ち上がると、くしゃくしゃと頭を掻いた。そんなぶっきらぼうな仕草を見たのは始めてで、つい見つめてしまう。
その視線に気づいたレオンは、眉を下げたまま少しだけ笑った。
「わかった。もう言わないから、どうか泣かないでライラ」
「レオン……」
癖で抱き寄せようとして、レオンが途中で腕を止める。灰がかった紫の瞳が困ったようにあちこちを見て、また視線がライラに戻ってきた。
「ライラの気持ちはわかった。……でも俺は、ずっと君のことが好きだよ」
「そんなの……駄目よ……」
「ライラが俺をフるのはライラの自由。それなら、俺がライラのことを好きでいるのも、俺の自由だろう?」
そう言われてしまうと、気持ちを捨てるように命令することは出来ない。
「ね? ……ライラのことしか好きじゃないんだ。どうか、好きでいさせて」
「……私が、応えることがなくても?」
「うん。……もしいつかライラに好きな人が出来て、その人と結婚することになっても、君のことが好きだよ」
「そんなの……!」
そんなことはあり得ないし、それではいつまで経ってもレオンが未婚で、彼を幸せにしてくれる女性が側にいないではないか。
ライラが慌てると、レオンはニコリと笑った。
「それぐらい、君のことが好きなんだよ。でもライラの邪魔は絶対にしない。だから……好きでいることだけは、許して」
許す、なんて傲慢なことは言えない。さっさとライラなんかには見切りをつけて、新しい恋をして欲しかった。
その一方で、それ程強い思いで愛されていることに、確かに喜んでしまってる自分が浅ましい。みっともない。なんという強欲さだろう。
本当にレオンのことを考えるのならば、嘘でも何でもついて、恋心を断ち切ってもらうべきなのに。
「私は、ひどい人間だわ」
「俺にとってライラほど素敵な子はいないよ」
はっきりと言いきってくれることが、嬉しい。申し訳ない。愛している。愛を返すことは出来ない。
「……ひどい人なの、なるべく早く、見限って欲しいのに」
「それは俺の自由かな」
レオンはもういつものように優しく笑って、紳士的に手を差し出した。
「そろそろ行こう。あんまり長くライラを独占していたら、またリアに叱られてしまう」
今までのレオンならばそんなことは言わなかった。オフィーリアのことなんて待たせておけばいいのだ、と断言していた筈だ。
本当にレオンは優しくて紳士だから、求婚を断られた相手としてきちんと線を引いてくれているのだろう。
それが寂しい、なんて口が裂けても言えない。
「……そうね」
ライラは泣き腫らした目蓋が少しでもマシになるように指先で目元を冷やしながら、レオンの手を取ることなく前に進んだ。