10.恐ろしい記憶と、騎士の剣
ジェラール・ゴードは、伯爵家の親戚だ。
亡くなったヴィルリア伯爵の妹が結婚した先がゴード家であり、ジェラールはオフィーリア達の父方の従兄弟にあたる。
「オフィーリアが婚約破棄されたと聞いたぜ? 俺があいつと結婚してやろうか」
「……それを言う為に、わざわざいらしたのですか」
震えながらライラはジェラールを睨む。
「伯爵家には婿が必要だろ。俺がうってつけじゃないか」
「……お姉様がお決めになることです」
ライラがそう告げると、ジェラールは不快げに眉を顰めた。そしてゆっくりと近づいてくる。
「お嬢様!」
「どけ。使用人風情が」
フーゴが守るようにライラの前に立ったが、押しのけられた。執事では、主家の親戚に楯突くことが出来ない。
「相変わらず、拾われた娘の分際で生意気な女だな!」
ジェラールにがしっと腕を掴まれて、過去の記憶が蘇ってライラは息を飲んだ。
両親が亡くなってすぐの頃、騎士として遠征に出ていたオフィーリアが戻ってくるまでの間。
屋敷に押しかけてきたゴード家の面々が、目ぼしい財産を奪っていった。ライラは必死に抵抗したが、
『お前は伯爵家の者ではないだろう』
『お前に止める権利はない』
と言われ跳ね除けられた。
無力に震えるライラに手を伸ばしたのは、ジェラールだった。
彼は嫌がるライラをベッドに押し倒し、服に手を掛けたのだ。半狂乱になったライラが悲鳴を上げ、そこに飛び込んできたアガタがライラを抱きしめて助けてくれた。
もしもあのまま、だったならば、と考えるとライラは今でも震えて何も考えられなくなってしまう。
「いや……!」
恐怖で身も心も竦み、ライラは震えてか細い声を出すことしか出来ない。
思い出される暗い室内、服越しに無遠慮に触れてくる手の平、荒い息。恐ろしくて、恐ろしくて涙が溢れた。
「離して!」
「ハッ、お前みたいな出自不明の女、誰にも相手にされないのだから有難く思えよ」
強い口調で言われてまるで殴られたかのように心が痛み、萎んでいく。抵抗しなくては、と思うのに恐怖が蘇ってきて体が思うように動かなかった。
体は硬直して身動きが取れず、ライラの緑の瞳から涙が零れる。
「何だよ、まるで俺が虐めているみたいじゃないか。泣いたところで助けなど来ないぞ」
ジェラールがそう言った瞬間、ライラの腕を掴む彼の腕が引き剥がされた。
「離せ」
片腕で抱き寄せられて、ライラの心はその力強さと体の温かさに心の硬直が解れていく。
冷たい声と強い力でジェラールをライラから引き離したのはレオンで、彼はしっかりとライラを守るように抱き寄せた。
どうやら開きっぱなしの玄関から、いつの間にか入ってきていたらしい。
「レオン……」
「取り込み中のようだったから、勝手に上がらせてもらったよ。ごめんね」
レオンはまるでジェラールが目に入らないかのように、優しくライラに微笑む。ジャックの婚約破棄の時のように、ジェラールの腕を強い力で捻り上げていた。
「離せ!!」
「ライラがそう願った時は離さなかったのに? 勝手な男だ」
冷たく言って、レオンはジェラールの腕を解放する。ジェラールは改めてレオンが誰なのかを確認して、ハッとした。
「お前……レオン・クォール……!」
ジェラールはレオンに対して何か言おうとしたが、吹き抜けの階上部分からの怒鳴り声に全てがかき消される。
「よくもその面出せたものだ、ジェラール!!」
「ヒィッ!? オフィーリア!?」
ダンッ! と盛大な音を立てて飛び降りてきたのはオフィーリアで、彼女は玄関ホールに着地するやいなやサーベルを抜刀してジェラールに斬りかかった。
「お姉様!」
ライラは悲鳴を上げたが、レオンによって安全圏へと連れて行かれてしまう。彼は途中で倒れているフーゴも如才なく回収し、階段の横手に三人で避難した。
「レオン! あのままじゃお姉様ったら、ジェラール様を真っ二つにしちゃうわ!」
「いいんじゃないか? 真っ二つ」
慌てて止めに入ろうとするライラを、レオンはニコニコと微笑んで引き留める。
「良くないわ……!」
ライラは真っ青になって叫んだ。
レオンの傍にいると、先程の心が竦むような恐怖は消えて声がまともに出るようになる。触れられた部分から、凍った心が解かされていくかのようだ。
一方ホールではオフィーリアが獲物を狩る肉食獣のように俊敏に動き、サーベルから逃れる為にジェラールはちょこまかと動いて必死に逃げていた。本気で命を取るつもりの動きに、彼は震えあがる。
「正気か、オフィーリア!? 騎士が守るべき国民に剣を向けるのか!」
ジェラールが窓辺に逃げ込んで怒鳴ると、ブーツの高い踵を鳴らしたオフィーリアは切っ先でカーテンを引き裂いて怒鳴り返した。
「この下衆が! 家族を守る為に剣を振るうのだ、騎士の誓いに悖るものではない!!」
ビュンッ、とひと際鋭い一閃が繰り出され、間一髪で避けたジェラールの頬に細い傷を作る。ゾッとしたジェラールは、レオンに抱き寄せられ守られているライラを憎々し気に睨みつけた。
「ライラ! 貴様がいるから、ヴィルリア伯爵令嬢ともあろうものが乱心しているぞ! お前の所為だ! 何もかもお前が悪い!!」
慌てて玄関扉の影に隠れたジェラールの、怒鳴り声がホールに響き渡る。その声にライラはまた硬直した。
荒唐無稽な主張だが、確かに自分が発端となってこれほどオフィーリアが激昂していることは確かだ。ブルブルと震えるライラを、レオンはさらに深く抱き込んだ。
「黙れジェラール!! 二度と妹に近づくことは許さん! 次に来てみろ、必ず貴様を潰す!」
オフィーリアはジェラールを追いつめ、その背を外へと蹴り飛ばした。
ジェラールが騒ぎながら遠ざかっていくのが、物音と遠くなっていく声で分かる。嵐のようにライラの心をかき乱し混乱に陥れた男は、こうして姉によって追い出されて行った。
ジェラールが去ってもまだ震えるライラの背を、レオンは優しく撫でて宥める。
「大丈夫だよ、ライラ。もう大丈夫」
レオンの腕の中はとても安心出来るのに、ジェラールの呪詛のような言葉が耳にこびりついて上手く笑うことが出来なかった。




