プロローグ 怪しい契約にはご注意ください
人里離れ、瘴気の渦巻く山岳の頂き。
剥き出しになった岩肌が寒々しい光景の中で、その一角がゆっくりと動き出した。
遠目には、岩山が突如崩れ落ちたように見えるのだろう。
だが、山のように巨大なそれには、牙があり、鱗があり、翼があった。
――彼の者の名は『ファフニール』。
黒々とした鱗から瘴気をまき散らし、眼前に存在するものを無差別に喰らう、貪欲なる巨竜である。
どうやら、巨竜は飢えているらしい。
ヒクヒクとノコギリのような鼻を動かすと、ぎょろりとした邪眼で一睨み。
続けてつんざくような歓喜の咆哮を上げ――
大地を揺るがしながら、一方向へと歩み始めた。
◆
『え!? まさかアキ、本当にソロで挑むつもりなの?』
「勿論。つーか、高位召喚士からすればソロの方が楽なんだって何度も言ってるだろーが。じゃ、そろそろ戦闘が始まるから通話切るぞ」
荒涼な風が吹き付ける、山岳のすぐ下にある開けた場所。
アキと呼ばれた少女は強引に会話を打ち切ると、エメラルド色の瞳を向けた。
「おっと……」
大地が割れんばかりの振動が伝わってきて、ぐらりと身体が揺れる。
巨竜が眼前まで押し迫ってきている。
それは、藍を基調にしたローブの裾だけでなく、空色のポニーテールが風圧で靡いていることからも明らかだった。
『ファフニール』とアキは、象と蟻をも思わせる体格差だ。
一撫でされただけでも華奢な体躯はひしゃげ、物言わぬ躯となるだろう。
だが、アキは平然としたまま表情を崩さない。
それどころか、酷く獰猛に笑みを深めると
「――――ッ!」
瞳を閉じ、厳かに呪文を唱え始める。
――バチバチバチッ……!
小気味よく爆ぜる音がして、呼応するかのように、少女の足元に幾何学的な紋様が描かれていく。
数は五つ。
魔法陣である。
色も大きさもてんでバラバラではあるが、どれも眩い光を湛えている点だけは共通していた。
――次第に光は収束し、魔方陣はうっすらと消えていく。
だが、同じく五体。
虚空から現れた影は消えはしない。
一体は、白銀の物言わぬ巨人。
また一体は、獅子の身体に漆黒の翼を持つ合成獣。
姿形は様々だが、どれも最高ランクの召喚獣だった。
アキはそれらを満足げに一しきり眺めると、おずおずと近寄ってきた一角獣に飛び乗り、身の丈ほどもある杖を掲げて号令をかける。
「行くぞ、てめえら!」
すぐさま勇ましき咆哮が上がり――。
こうして、戦いの幕が切って落とされた。
◆
それから小一時間ほど経過しただろうか。
白銀の巨兵の一撃が巨竜の眉間を捉え、ゆっくりと――ゆっくりとだが、崩れ落ちていく。
響くのは断末魔。
アキは、その光景に安堵の息をつき、額を拭おうとして――
「いってー……!」
ゴツン。
手のひらを勢いよくぶつけ、小さくだが悲鳴を上げた。
もっとも、少女の額には何も装着されていない。
艶やかな青髪と、上質な魔力糸で縫われたローブのフード部分があるだけだ。
「……携帯端末とVRディスプレイでプレイ出来るのはいいんだけどよ。こういうとき、うっかりしちまうんだよな」
それもそのはず。
少女の手が触れたのは、この世界に存在する物質ではない。
現在、アキがプレイしているのは、『Patchwork online』というネットゲーム。
継ぎ接ぎの名を冠する、世界初のVRMMOである。
つまりは、全て仮想現実での出来事。
『ファフニール』は最近追加されたボスキャラだし、呼び出された召喚獣たちも所詮はAIでしかない。
それを証明するかのように、アキの耳元では軽快なファンファーレが鳴り響いていた。
「ん? 結構メッセージが来てんな」
アキは取得アイテムを確認しながら別のウィンドウを開き、それらを逐次確認していく。
もっとも、殆どが取るに足らないものだ。
ギルドの勧誘、誹謗中傷、そして先程話していた友人からの私信――。
中には告白染みた文章もあり、アキは童顔気味の顔を大きくしかめた。
「……面倒くせーな」
何故ならば、アキのプレイヤーは男性なのだ。
本名は東野 秋彦。
友人に誘われてゲームを始めただけの、若干暇を持て余した健全な男子高校生である。
容姿に似つかわしくないぶっきらぼうな口調もそのため。
しかし、それでも変に邪推するものはいるらしく、非常に不本意なことだが、「男避けのために性別を偽っている」なんて噂までたってしまっていた。
「……全部アイツのせいだ。ログアウトしたら改めて文句言ってやる」
彼としては重要なポイントなのだが、ネカマがしたくて女性アバターを選択したわけではない。
致命的な機械音痴のため、幼馴染に導入を頼んだ結果、悪戯で設定されてしまったのである。
調べてみたところ、どうやらキャラクターの作り直しには別途課金が必要らしい。
流石にそれは癪だと弁償を請求したのだが、幼馴染にはズルズルと無視され続け、いつの間にやら数年が経過している。
『ま、リアルの評判に反してアバターがそれじゃ恥ずかしいんでしょうけど。私が手塩にかけただけあって、中々可愛いでしょ? じゃあいいじゃない』
悪びれない幼馴染の姿を思い出して辟易しながらも、逐一全てのメッセージに目を通していく。
そんな中、一瞬だけ指が止まった。
「なんだ、これ?」
『――クエストクリア、おめでとうございます。新クエスト、「リンドヴルム討伐」が発生しました。新たなる冒険の舞台へ旅立ちますか?』
……このように個人宛のメッセージでクエストが始まったことなど、今まで一度もあり得なかったことだ。
例え連続クエストだとしても、絶対に街の酒場で受注してからイベントが開始されるのだから。
「悪戯か?」
疑念を抱きながら差出人を確認する。
幸運――といっていいのかはわからないが、何度見ても専用の刻印が表示されていて運営からだった。
しばしの逡巡。
公式なのは間違いないのだが、前例のない事態なのも確か。
仮定に仮定を重ねれば、サーバーがクラッキングされてこんなメールが送られてきた可能性もある。
だが――
「……アプデは当分先だったっけな」
アキはすでに古参と呼ばれる部類で、レベルはカンストしているし、実装分の召喚獣は全てコンプしている。
その上、最近は更新頻度も鈍く、モチベーションが下降しているのも確かだった。
「……どうせやることがねえんだ。騙されてみるのも一興だろ」
アキの指は「受注」と表示されたアイコンへと伸びていき――
『――ようこそ、「Patchwork online」の世界へ。どうか、あなたの旅に幸福と喜びがありますように』
女性の声が聞こえてきた瞬間、バチリと音がして、彼の意識は闇に呑まれた。