第5話
張は龍峨に用件を伝え終わると、大急ぎで龍峨の家に向かったようだ。きっと張の事だ、上手く話をまとめてくれるだろう。しかし、だからと言って大人しく引き下がるような龍峨ではない。一旦は張の話を素直に聞いて、何処かで時間を潰そうかとも思ったのだが、やはり自分が蒔いた種。自分だけ知らん顔をしてやり過ごすことは出来ない。出来るだけばれない様に、張の後ろから自らも家に向かうのだった。
既に、龍峨の家の前には大勢の人が集まっており、それは5人の人物を取り囲むように出来ていた。5人の人物とは龍峨の両親である龍風と龍芙、街一番の大商人であり役人でもある袁承威とその息子袁鍾楽。それにこの前の喧嘩の仲裁を行った門番であった。龍峨が人垣の外側から様子を伺っていると、こんなやり取りが聞こえてきた。
「龍風!我が息子がお前の息子から一方的な暴行を加えられたと申しておる。おかげで息子はこの有様だ。お前たちは袁家に対して、何か恨みでもあるのか?」
そう言って袁承威は息子を指し示す。杖に縋った姿のその様子は、どうやら右足を負傷した模様だ。
「恐れながら承威様。龍峨は不肖の息子ではございますが、決して理由もなく人様に暴力を振るうような子では御座いません。まして、我々がこうして生活していけるのも承威様のご尽力があればこそ。家族一同感謝こそすれ、決して恨みを抱くような気持ちなど毛頭御座いません。」
そう言って妻である龍芙と共に跪くと、自らの額を地面に擦り着け平伏すのであった。
「しかし、我が息子からはその様に聞いておる。それに相違ないな、鐘楽。」
「はい、父上。実は本日、龍峨が盗みを働く現場を目撃したのです。そこで龍峨から盗品を取り上げると“生活に困窮しようとも人としての礼節を失ってはならぬ”と厳しく戒めてやりました。龍峨も一度は己の犯した罪を悔いた様子だったのですが、“友達の誼で今回だけは見逃して欲しい”と許しを請うのです。私が構わず“小事とは言え見逃すことは出来ない”と諭すや“父親の権威を嵩に着た小僧が偉そうに意見するな!お前の父親は今の地位を手に入れるのに巨額の大金を積んだとの専らの噂だぞ!”と暴言を吐き私に飛び掛ってきたのです。」
袁承威がその財力を使い役人の地位を手に入れたというのは周知の事実ではあったが、面と向かってそれを口にする者はいない。たちまち、袁承威の顔色が変わる。
「私自身の事は何と言われようが構わないのですが、父上の名誉を汚すような発言を黙って見過ごす訳には参りません。さすがの私も我慢の限界に達したため少し懲らしめてやろうと思ったのですが、卑怯にも地面の砂を掴み目潰しを仕掛けてきたのです。それでも抵抗を試みたのですが、私の力が及ばずこの様な有様。このお方が止めに入ってくださらなければ、右足の一本では済まなかったかもしれません。」
そう言って袁鐘楽は、この前の喧嘩の仲裁をした例の門番に目配せする。門番も袁鐘楽の言葉を受けてこう言う。
「子供同士の喧嘩と思い、軽く見ておりました。まして目潰しなどという邪道な手を使い、相手に一方的に暴力を振るうとは言語道断。私が止めなければ、一体どうなっていたのか想像するに恐ろしいことです。」
野次馬の大半は袁承威の力を恐れるあまり、真偽がどうであれ非は龍峨の方にありと考えていた。袁鐘楽の話しだけでは半信半疑であった野次馬も、門番の話を聞くや次第に今回の件については一方的に龍峨が暴力を振るったのではないかと疑い始める。
「龍風。息子の責任は親たるお前の責任でもある。それ相応の覚悟は出来ておろうな。」
事実無根の出鱈目に堪らず龍峨が飛び出そうとした矢先、何やら竹籠を手にした張が人混みを掻き分けて登場した。
「ちょっと御免なさいよ。承威様、お話中のところ大変申し訳ありません。」
「何だ、お前は。余計な口出しをすると、お前も同罪と見なすぞ。」
「私は張及雨と申すつまらない者です。承威様はご存じないと思いますが・・・・・・おや、あなたは確か、柳家の門番の方で御座いますよね?先ほどはお世話になりました。」
そう言って門番に向かい会釈する。門番の方は張及雨の顔にまったく見覚えがない様子であった。
「いやね、柳家で先ほどまで結婚式が行われていましてね、“誰でもお祝いに駆けつけた者にはお菓子とお酒を振舞うぞ!”って言うんで、私もお邪魔させてもらったのですよ。あの大きなお屋敷に入りきれないくらいの数の招待客がおられましたもので、私なんかは挨拶を済ますと早々に退散してきたって寸法です。しかも驚いたことに、お屋敷の周りは全て綺麗に掃き清められていましてね。塵一つ、砂粒一つ落ちていなかったんですよ。さぞかし大変だったことでしょうね。」
興奮した様子の張及雨の話す勢いは、なおも止まらないようだった。
「驚いたのはそれだけじゃないんです。お祝いの品が本当に立派でしてね。あまりにも見事な品だから、帰る道々出会う友達に“やい、及雨。お前もとうとう盗みにまで手を染めるようになったのか”なんて事を言われましてね、誤解を解くのに一苦労しましたよ。そうそう。こんな銘酒滅多に手に入るものじゃないので、蛇酒にしようかと思って先ほど百歩蛇(※毒蛇)を捕まえたんですが・・・。」
そう言って手にした竹籠を振ってみせる。
「・・・・・・あれ、おかしいな。音がしないぞ。まさか、ちょっと目を放した隙に・・・。」
そう言って張及雨が周りを見渡し始める。
「あっ!鐘楽様、危ない!足元に何かおります!」
突然の張及雨の大声に驚く一同。袁鐘楽の近くに歩み寄った張及雨が拾い上げたものは、濃褐色のただの布切れだった。再び張及雨が口を開く。
「いや〜、皆様お騒がせしてすみません。鐘楽様も申し訳ありませんでした。蛇の奴、籠の中で大人しく眠っておりましたわ。」
そう言って竹籠を覗き込む張及雨。そして文句を言っている群集に向かってひたすら頭を下げるのだった。そして袁承威に向き直ると、平伏してこう告げるのだった。
「承威様。この度は龍峨がご迷惑をおかけした上、私もこのような騒ぎを起こしてしまい申し訳ありませんでした。本日は柳家のお祝いの日。どうか平にご容赦頂きますよう、私からも重ねてお願い申し上げます。」
袁承威は相変わらず不機嫌な顔をしたままであったが、一つ咳払いをするとこう告げるのだった。
「本日は柳家の結婚式が催された特別な日であったな。本来であれば龍風、お前には厳重なる処罰が必要なのだが、今日は目出度い日ゆえ特別に許してやろう。鐘楽、帰るぞ!」
そして袁承威はこの場を立ち去ろうとする。
「父上、一体どうしたって言うんです。こんな奴の言葉に惑わされてはなりませんぞ!」
そう言って食い下がる袁鐘楽に袁承威が一喝する。
「黙れ、鐘楽!これ以上、儂の顔に泥を塗るつもりか、この馬鹿息子が!そこの門番と一緒に先に家に帰っておれ。」
そして張及雨に向かってこう言った。
「張及雨と言ったな。お主、一体何者じゃ。」
「龍峨の兄弟みたいな者です。龍風殿には色々とお世話になっておりますもので、出すぎた真似をしてしまいました。どうかお許しを。」
「ふん、お前といい龍風といい、気にくわん奴らだ。今度余計な揉め事を起こしおったら、ただでは済まさんぞ。よく覚えておけ。」
それだけ言うと、袁承威もこの場を立ち去るのだった。それを見送った張及雨。
「さあ、皆さん。色々とお騒がせしましたが、これにて一件落着です。いつまでもこんな所で突っ立っていたって仕方がないでしょう?どうぞお引取り下さい!」
そう言って、集まっていた野次馬を追い払うのだった。
龍峨は未だ跪いた姿勢でいる両親の元に駆け寄り、助け起こしてこう言うのだった。
「父さん、母さん。おいらのせいでこんな目に遭わせて御免。」
「袁承威の嫌がらせじゃ、気にする事はない。それに、先ほどの話は一つも信じておらん。心配するな。」
「こら!龍峨。お前には大人しく身を潜めていろと言っただろうが。まったく仕様のない奴だな。」
張及雨が怖い顔で龍峨を睨みつける。
「そんな事言ったって、知らん顔出来るはずないじゃないか。・・・どっちにしても何の役にも立たなかったけど。」
「今にも袁承威に飛び掛りそうな勢いだったからな、まったく。ここは俺に任せておけと言っただろうに・・・はっは〜ん、さては俺の事を信用してなかったんだな?まったくひどい奴だ。」
先ほどまでの怒った様子から一転、冗談めかして言う張及雨。慌てて話題を変える龍峨。
「正直、おいらには何が何だか良く分からなかったけど、柳家で結婚式が行われていて良かったよ。そうじゃなかったら、一体どうなっていたか分からなかったからね。・・・・・・待てよ、元々柳家で貰った品が今回の騒動の原因なんだから、結婚式なんて無ければこんな騒動なんて起きなかったのかな?」
そう言う龍峨に一同は大笑い。
「何が可笑しいんだよ!袁承威も言っていたじゃないか、“今日は目出度い日ゆえ特別に許してやろう。”てね。」
「龍峨。あれは奴の本心ではない。奴の体面を汚さぬように及雨殿が暗に仄めかした言い訳を、そのまま口にしただけじゃ。及雨殿、この度は色々とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。」
そう言う龍風は張及雨に向かって深く礼をするのであった。
「礼には及びませんよ、龍風殿。袁承威の振る舞いには常日頃から横暴なところがありましたからね。いい機会でした。」
笑いながら答える張及雨であった。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った夜空には、四方を明るく照らし出す満月が昇り、その周りには幾多の星が瞬いていた。それらの光が地上に降り注ぎ、清冽な小川の川面に反射するその様子は、まるで国中の宝石を散りばめたかのように美しかった。その美しさを自らの手の内に留めておかんと、一度川に足を踏み入れればそれは揺らめき崩れてしまい、手で掬おうとも掌中から零れ落ちてしまう。月は誰に従う訳でもないが、誰にでも分け隔てなく公平だ。何処からでもその姿を確認出来る程に近くもあり、決して手が届かない程に遠くもある。
龍峨は月が好きだった。太陽のように自らの力で強く光輝く訳ではないが、その姿は古くから人々に愛でられてきた。蒼天に掲げられた孤高の存在であるよりも、誰の目にも直接触れる事が可能で、多くの星と共存出来るその存在を好ましく思うのだった。
屋敷の窓から差し込む光に誘われるように、寝付けなかった龍峨は、老人と出会った川の畔へと歩いていき、岸辺に寝転がって空を見上げた。今宵の満月も、そんな龍峨を優しく包んでくれる。目を閉じると小川のせせらぎが聞こえて、岸辺に生えた草の青い匂いがした。
ふと、昼間に老人に言われた言葉が思い出された。
(自分自身がこれから先どういう風に生きて行きたいのか。)
閉じていた目蓋を開くと、その目に飛び込んで来たのは漆黒の闇に浮かぶ黄色の月だった。そして、それを取り巻くように輝く星達だった。
「月・・・か。いいなぁ。太陽にはなれなくても、月にはなれないかな・・・。いや、星でもいいけど。」
月の光は清廉でありながら、どこか人の心を惑わす妖しさも兼ね備えている。そのせいか、不思議と感傷的な気分になってしまう龍峨であった。夜気が身に沁みたのか、今頃になって袁鐘楽にやられた傷が痛み始める。
「くっそ〜、こんなことなら本当に目潰しでも仕掛ければ良かったかな。今度からはそうするかな・・・って、それじゃ袁鐘楽と同じか、ハハハッ。」
何故だか分からなかったが、涙が頬を伝わるのだった。別に誰かに見られる心配もないのだが、極まりが悪くなった龍峨は起き上がると、顔を洗いに川に向かった。水は清潔で冷たく気持ちが良かった。掌中に掬った水に月光が映る。
「満天の星空に浮かぶ、あの夜空に輝く月になれずとも、この体内にその霊力を注ぎ込もうぞ!」
そう言って掬った水を飲み干すと、昼間の疲れが出てきたのかそのまま寝てしまうのだった。
作者の都合により、ここで打ち切りにしています。改めて『紅梅記【黎明編】』として再構成して書いておりますので、そちらをご覧下さい。




