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2話 濁流と回想

黒々とした階段にワマウは足を踏み出した。階段の勾配は緩やかで、デンと二人並んでも落ちる気配が無い程度には一段が大きい。灯りに照らされていない空間から冷たい風が吹く。

ワマウは急に恐ろしくなって歩みを止めた。足元は湿気のせいかぬめっている。ごうごう、という遠くから聞こえるかすかな濁流の音に、胃の腑が縮むような気がした。この闇はどこまで続いているのだろう。手元の灯りで見えるのはせいぜい数歩先だ。気を抜けば、足を滑らせてどこまでも落ちて行ってしまうのではないか。今すぐに城に駆け戻って居室に閉じこもってしまいたい。けれど、そんなことをしてももう日常はこの手の中に帰っては来ないのだ。父が亡くなったという早馬が来た時、何が起こっているのかさっぱり分からなかった。大陸最強の要塞と聞かされていたカンザの王城が明日にも落ちるだろうと家臣に言われ、とにかく急かされるままに逃げ出した。--今になって、全てが現実の重みを持ってこの身にのしかかってくる。父にはもう会えないのだ。血が繋がっていないのに優しくしてくれた継母も、かわいい弟と先に言ってしまった。一人でこの暗闇を通り抜けなければならないのだ。

せり上がってくる恐怖に歯をガチガチと鳴らして震えていると、不意に片手に温もりを感じた。

「姫君、お寒うございますか?」

隠し扉をきっちりと閉めたデンが手を握っていた。

「いいえ、寒いわけではありません。壁を伝って行きましょうか、いくら幅が広いとはいえ目測を誤ってはいけませんからね」

その温かさに、心が揺れる。おかげで恐怖は少し薄れた。少し前まではこの人が自分に触れることなど許されなかった。今ではそんなことを気に留める人もいなくなってしまったのが幸いなのか不幸なのかは分からない。

早口に言い終わると左手で壁に触れながら再び歩き出す。階段と同じようにそこは水滴で濡れていた。一歩踏み出すごとに新しい階段が現れては後ろの階段が消え、数えながら進むうちにもう帰る道も見えなくなっていった。



ワマウが始めてデンと会ったのはちょうど十年前だ。ワマウは七歳で、新しく護衛士に任命されたデンは十六歳だった。今でこそしなやかな筋肉を持つ屈強な兵士だが、その頃の彼は体も細めで成長途中の不安定さの残る若者だった。護衛についていない時の訓練で、年上の護衛士に軽々と投げ飛ばされているのを幼いワマウは肝を冷やしながら眺めていたこともある。

護衛士の中に美丈夫が全くいないわけではないが、デンはその中でも飛び抜けて見目が良い。ワマウは特にその不思議な色の瞳に惹かれた。姫君、と呼ばれるのには慣れていたが、彼にそう呼ばれるといつも面映ゆいような気がした。

彼女はそういう話には早熟な娘であったから、自分が若い護衛士に抱く気持ちが恋心だとすぐに自覚した。


王族としての教育は王女でも受けなければならなかったが、お転婆なワマウは学問どころではなかった。教師が来る前に部屋を抜け出し、馬を駆って西の森の入り口で花を摘んだり、木に登ったりして遊んでいることはよくあった。カンザは名馬の産地で、その王家に献上される馬となれば最高のものだ。護衛士たちは許可無しに馬を借りることは出来ないため、全速力で駆けるワマウを自らの足で追いかけなければならなかった。デンは足が速かった。だからいつも最初にワマウを見つけては連れ帰るのだが、彼女はデンの姿を見ると恥ずかしがって木々の間に隠れては捕まることを繰り返していた。--彼女にとって、それはそれで楽しくもあったのだが。

ある夕方、ワマウが王城の廊下を歩いていると、非番だったデンが別の護衛士と話している姿が見えた。後ろから行って驚かそうか、などと近づくと、珍しく彼は砕けた口調で喋っていた。恐らく相手は同期に入隊した者なのだろう。

「最近どうだ?王族付きは随分忙しいみたいだが」

「そうだな、まさか王女付きの護衛士がこんなに頻繁に城外に出られるとは思っていなかった」

面白がっているような、笑いを含んだ声だった。

「……あのじゃじゃ馬王女だもんなぁ。お前、よくあの速さに追いつけるよな」

「ははっ、良い訓練にはなるぞ。お前も王女付きに任命されたら良かったのにな」

「それはごめんこうむりたい」

わたしの話だ!と、ワマウは嬉しくなって柱の影で聞いていた。もしかしたらデンが自分を良く思っているという言葉が聞けるかもしれないと期待しながら。

「あーあ、でも確かに羨ましいな。このまま王子が産まれなかったら、姫君の夫が次の王だろ?言い方は変だが、もしも姫君に見初められたらとんだ玉の輿だ。お前も随分気に入られてるそうじゃないか」

「ばかを言うなよ、姫がおいくつだと思っている。まだ十にもならない子供だろう。それから、俺たちみたいな下級貴族の出じゃ、国王の一言で首を刎ねられる」

まだ子供、という言葉にワマウは思考を止めた。そうか、デンにとっては自分は子供だったのだ、と今更気づく。

「まあ、身分は仕方ないがな。夢を見るくらいはいいんじゃないか?それに子供子供って思ってるうちにすぐにいい女になるぜ。うちの幼馴染なんかなあ」

話題はどうやらもう一人の護衛士の幼馴染の話に移ったらしい。声の大きさは変わっていないだろうに、何故か会話が遠くから聞こえる気がした。かあっと顔に熱が集まって、涙が出てきそうになった。ワマウは自分がとんでもない勘違いをしていたことがとても恥ずかしくなった。泣き出しそうな顔を見られたくなくて、足早にそこを去った。

それからというもの、彼女は城を抜け出したりはしなくなった。一日でも早く大人の女性になろうと背伸びをしだしたのもその頃からだ。デンがびっくりするくらい、大人になってやるんだから!と息巻いていた。

けれど、身分の高い者の現実というのは残酷だった。亡くなったワマウの母の代わりに新しい王妃が迎えられ、ラクラス王子が産まれたその頃から彼女の降嫁先の話が上がり始めた。


「お話に出てくる姫君というのは、どうやって好きな殿方と結ばれることができたのかしらね」

十四になった年、ある諸侯の息子との婚約が決まったワマウは、窓の外をぼうっと見ながら周りの侍女たち聞いた。侍女たちは口々にワマウの婚約者を褒めたたえる。

「ヤジク様はとてもお優しい方だとお聞きしていますよ。きっと姫さまもお好きになるでしょう」

「それに剣にも優れているとか!物語に出てくる騎士様のようではないですか」

そうじゃないの、とワマウは心の中でもため息をついた。どんなに剣に優れていても護衛士であるデンには敵わないし、どんなに優しくても婚約者は琥珀のような、蜂蜜のような美しい瞳を持っていない。でもそんな理由は本当はどうでもよくて、ただ好きな人に自分を好きになってもらいたかった。それだけを願うような、幼い恋だった。暗い気持ちとは裏腹に透き通るように晴れ上がった空から目を逸らし、彼女は側に控えている護衛士を見つめた。偶然だったのか、二人の目が合った。驚いたように(まなこ)を見開き、デンはすぐに(こうべ)をたれた。そして、二度と顔を上げなかった。


結局はその婚姻も戦が長引いて延期され、何も無かったことになった。



デンが一歩で降りる階段を、ワマウは二歩で降りていく。歩数が多いせいか先に息が上がってしまったのはワマウだった。数を数えるのにも疲れてしまった。既に千は下らないだろう数を降りてきたのにまだ下には着かない。だが、水流の音は段々と大きくなっていた。

「水音が近くなってまいりました。もう少しの辛抱です」

「えぇ、平らな足場になれば歩きやすくなりそうですものね」

大した逃げ道を祖先は作ったものだ。そう感心しながらワマウは前に地面が現れないかと光をかざした。


しばらく歩いて、やっと底が見えてきた。もう水の音は耳に不快なほど大きくなっており、足元を揺るがすかのような轟音が響く。水流はすぐそこにあって水しぶきが頬にかかるようになった。

最後の段を降りる。眺めると、地下水脈は想像していたよりも荒々しく、想像していたよりも大きかった。

「こんなものの上に、あの城が……!?」

絞り出すようにしてデンが叫んだが、轟くような水音にかき消され、ワマウにはかろうじて聞き取れる程度だった。水脈は対岸が見えないほど幅が広く、一つ一つの水のうねりが、まるで龍のように広い暗闇の中を泳いでいる。ぽっかりと地下に空いた空洞。その中を所狭しと暴れる水流。鉄壁の要塞とも言われたカンザ王城は、地盤が緩めば落ちて全てが流されてしまうような足場の上に作られていたのだ。

「……とにかくまっすぐ進めば出口に着くと聞きました!」

濁流の音に負けまいと、ワマウは声を張り上げた。

「承知いたしました」

ワマウを水流とは反対側にかばいながら、デンが歩き出す。

程なくして、水流が二つに別れた。ワマウたちが歩いている岸から遠い方には深い穴があり、そこから滝になってこの水流は更に地下に潜っていくらしい。二人に近い方は水量が少なく、進むほどに幅は小さくなっていた。そして天井も少しずつ低くなってくる。デンが頭を低くしなければ通れないほどだった。

ワマウも少し穴の中が窮屈に感じるほど天井が迫っていた。ふと見ると、前方の天井に空いた穴から白い光が差していた。出口だ。細くなっていた水脈は、そこで途絶えた。

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