変わらなくていい
ザーッザーッと白煙とともに大量のお湯が沸き出ては、湯殿から溢れ出ていく。
壁には不揃いのタイルがぎっしりと貼られ、湯殿は5人程度ならのんびり浸かれる程度の個人宅としては大きく、共用としては狭く感じる石造り。
天井は一面曇りのないガラス張りで、天候が良ければ満点の星空を望める最高の景色だ。
「軍勢の拠点ならこの造りも納得できるが、個人が住む屋敷に風呂が二つあるとかどこの金満貴族だって感じだな」
「……風呂は日本人の魂らしい。だから別の造りの風呂が複数あっても問題ない」
白煙に映るのは二つの人影。
一人はがっしりとした上半身を湯殿から晒し、そこから伸びる腕の筋肉の付き方は効率的なトレーニングによって鍛え上げられた"魅せる筋肉"と言うよりは日常の中で作り上げられた野性味溢れる"実用的な筋肉"と言う印象を与える。
もう一人は肩口まで湯殿に浸かり、正確な身体付きは見えないが、一見すれば華奢と言う印象を与えるほど痩躯。
「そうなのか?ハヤトは随分と贅沢な文化を持つ世界にいたんだな」
「……実際はどんな大抵宅も風呂は一つだし、俺の住んでいたとこも一つだったな」
ぼへーっと惚けるように湯に浸かる痩躯の男――隼翔は驚いたように感心して見せるクロードに、何事もなかったかのように適当に嘯く。
ここは隼翔たちが拠点兼住む屋敷の二階にある風呂場だ。実は住み始めて、改装した当初から風呂場は二つあった。その理由は恋人同士になったとは言え、姉妹と一緒に入るのはどうかと思い男女別々に同時刻に入れるようにと小さいこちらの風呂場も用意していたのだ。……ただ、それが活躍することがあったかと言えば首を傾げざるを得ないのだが。
それはともかくとして、クロードとアイリスが住むようになってからはこうして連日稼働してる……主に男湯として。そのため壁をまたいだ隣の風呂場からは女性たちの楽し気な声が聞こえてくる。
それと比べれば、かなり静かな浴場。
静かな男二人の会話の流れからして、隼翔の前世では確実にどんな家庭にも風呂は複数あるはずだったのに、実際に彼が住んでいた家にすら風呂は一つしかないのだから予想は完全に裏切られ、クロードは思わず湯殿の縁に預けていた上半身ををずるりとコントのように滑らせ、危うく盛大な水柱とともに茹蛸のようになるところだった。
「……ん?何してんだ、クロード?」
「何してるって、お前のせいだろうがっ」
死ぬかと思ったという呟きとともに聞こえてくる荒げた息遣い。
湧き出るお湯が湯殿を叩く音しか響いていなかった風呂場に突然ゼェゼェと聞こえ始めたとあって隼翔は、何をしているんだと言わんばかりに横で浸かっていた男に視線を向ける。
だが向けられた方からすればその視線は甚だ不本意極まりないモノであり、視線の主に食って掛かろうとして――――盛大なため息とともにやめた。
「ハヤト、お前どうしたんだよ?」
「……なんだよ、藪から棒に」
「そんな唐突ってわけでもないぞ。お前帰ってきてからずっと変だぞ……何かあったのかよ?」
一見すれば普段通り礼儀正しく食事を済ませ、何一つ変わらない様子で会話を交わした。それは今朝・そして地下迷宮探索中と何も変わらない様子。
何を考えているかは相変わらず読めないが、それが普段通りであり、普通の人なら違和感を覚えることはない。
だからこそ、何を言っているんだと不思議に思う隼翔だが、やれやれとばかりにクロードは嘆息を吐く。
「あのな。確かにそこらの有象無象なら気づかないだろうが、俺たちは一緒に住んでいるんだぞ?お前の些細な変化くらい気が付くに決まってるだろ。フィオナとフィオネも凄く心配していたぞ?」
「うむむむ……」
分かるに決まっているだろ、と豪語するクロードに思わず謎の唸り声をあげてしまう。
確かに隼翔は帰宅してからずっとどこかイライラしていたのは事実。だがそれを表に出すほど子供でもなければ、隠せないほど感情表現が豊かでもない。
現に二度の前世を含め、誰かに自分のことを理解されるということがなかった。もちろん前世においては生みの親である母に愛情を注がれ、心配はされていたが、それに応えるように重ねた無理と無茶の数々を決して悟らせることはなかった。
それなのに、たった一か月やそこらしか共に過ごしていない恋人や友人たちにいとも簡単に心情を悟られてしまうとは精進が足りないかと思ってしまう。
しかしその反面で誰かに理解される嬉しさと気を許すことが出来る相手がいることの喜びに心が多幸感に包まれる。そしてそれを示すように、謎の唸り声を上げる口元には小さく笑みが浮かんでいる。
その姿を見て、クロードは意地っ張りな弟を見守るような優しい視線を送る。
「だから何があったのか言ってみろよ。確かに俺たちはお前からすれば頼りないかもしれない。だが、こうやって一緒に住む仲間であり、笑いあえる友人であり、共に戦うパーティーだ。何かあったなら打ち明けてみろよ、な?」
「……まあ、話せば少しは溜飲も下がるか」
年上らしい頼り甲斐のある笑みを浮かべるクロードだが、実際は隼翔が何かを抱えているという確信があったわけではない。もちろん帰宅してからその雰囲気に微かな違和感を感じていたのは事実だが、その正体が何だったのか一人ではついぞ分からなかった。
それでもこうして聞いたのは、同じようにフィオナとフィオネが雰囲気の違いを心配し、アイリスも同様の違和感を覚えていたからであった。
そのことを知らない隼翔は、観念したようにため息を吐きながら夕刻にあった出来事をポツポツと語る。
「――――と、まあこんなことがあったわけだよ」
「確かにその集団には苛立つのは分かるが……正直、お前がソレに固執するような性格とは思えないが。何にそこまで苛立ってんだ?」
その性格ゆえに、話に同意して言葉の節々に憤慨する感情を忍ばせるクロードだが、そこでふとなぜここまで引き摺っているのかと疑問に思った。
確かに憤慨するのは理解できる。だが隼翔と言う男は正義感あふれる熱血漢でもなければ、他者に甘い優男でも無い。もちろん身内には甘いが、それは本当に身内だけで、ひさめと言う少女はある程度交流があるが身内にはほど遠い。
そう考えると、冷血・冷静・冷淡と超が付く淡泊男の隼翔がこんなに引き摺るのは違和感しかない。
「……うーん、集団による不条理さっていうのもあるが、何よりもその不条理を当たり前のように受け入れてる姿勢、かな」
「つまり、襲った側じゃなくて襲われた側に未だに憤慨してるってことか?」
「端的に言えばそうなるな」
いくらお湯に浸かるのが気持ち良いからと言っても、お湯の温度は普通よりも高く、湯殿に浸かるという文化にあまり馴染みがない世界。流石にクロードは熱くなったのか、よっこらせとどこか年より臭い声とともに縁に腰掛ける。
そんな彼とは対照的に浸かるのに慣れ親しんでいる隼翔は、ようやく湯から肩を出すと、そのまま上半身だけを縁に預け気の抜けた気持ちよさそうな声を漏らす。
青夜空に映る綺羅星を眺めながら思い出すのは、一方的に悪意にさらされる少女の姿。
少女の優しさには好感が持てるし、彼女の示した人を決して殺さないという生き様には興味がある。だが悪意に抗わないのは看過できない。そんなもの優しさではないし、自分も誰かも護ることは出来ない仮初の処世術。
悪意は決して受け入れてはいけない。受け入れればそれはより増大し、滅ぼす。だからこそ、必死で抗うべき――――それが二度の死を経験した隼翔の持論。
(一人でダメなら誰かを頼る、誰に求める、誰かに手を伸ばす――――それをしないのは怠慢でしかない)
胸の内で収まりを見せていたモヤがまた大きくなる。いい加減すっきりした身としては忘れるのが一番なのだが、どうしても少女のことを心のどこかで気にかけてしまい、忘れられない。その結果、モヤ大きくなる一方だ。
懊悩に苦悶する隼翔をきょとんと眺めるクロード。だが突如、何を思ったのか大爆笑し始める。
「――――ぷははははっ」
「んだよ、急に笑い始めて」
「悪い悪い。だが、ハヤトを馬鹿にしたわけじゃないさ。ただお前は相変わらず変にわがままだと思ってな」
「……俺がわがままだって自覚はあるさ。確かに俺のは単なる考えの押しつけ。誰しも集団に対して抗うだけの度胸も力も持っているとは思わない。ただそれなら誰かに助けを求めろって言いたいんだよ、誰も助けないなんて有り得ないのに」
わがままと評され、ムッと口元を曲げる。だが自覚はあるのか、隼翔は不貞腐れたような声でそれを認める。
確かに隼翔がひさめに言ったことは正しいかもしれないが、虐げられて生きていた少女にとっては酷で価値観の押しつけでしかない。何せ彼女には隼翔のような絶望に抗うだけの力も自身も度胸もないのだから。
それでも簡単に諦めてほしくない、誰かに救いを求めてほしい――――そうでないと簡単に悪意は人を呑み込み、殺してしまう。それを隼翔はよく知っているし、二度も体験した。だからこそ、憤慨してしまう。
しかし、それがひさめと言う少女を気に掛ける理由になるのかと言えば、決して直結するとは言えない。もちろん命の恩人である女神に言われたのもあるが、それだけがここまで気にかけてしまう理由ではないのだ。
「確かに、お前の言ってることは我儘だな。だがハヤトの我儘ってのは、優しい我儘だな」
「ん?我儘に優しいも何もないだろ。所詮価値の押しつけで、周りからすれば迷惑極まりないだけ」
「お前の言う通り、普通の我儘ならそうだろうな。だがお前の我儘はさっきも言ったが優しい。そしてその我儘は、誰かを救うことにもなる――――経験者が語るんだ、間違いないさ」
果たして少女を気に掛ける本当の理由に辿りつけず、卑屈に言葉を重ねる隼翔だが、クロードは優しい我儘だとニカッと力強い笑みとともに肯定して見せる。
その真意が全く理解できずにいる隼翔だが、首を傾げる前にゴツゴツとした手が強引に濡れた彼の真っ黒な髪を撫でまわす。
「t、急に撫でるなっ。と言うかなんだ急に?」
「ははっ、ただ急に撫でたくなっただけさ!それと分からんなら、分からんでいい。ただ、ハヤトは決して変わらずにそのままいてくれればいいんだよ」
「なんだ、そりゃ?……まあ俺は変わるつもりなど毛頭ないが」
男らしい、力任せの手荒い撫で方。急な出来事に隼翔は抵抗するように声を出しながら、その実逃げようとはしないでされるがまま撫でられる。
傍から見れば仲の良い兄弟の微笑ましい一幕のようにも思える。二人がそう思っているかは不明だが、気を許しあっている様子は確固たる絆があることを証明している。
「ああ、それでいい。……――――なんだか今日は気分がいいから、風呂あがったら飲み明かそうぜ!!」
「おいおい、明日も地下迷宮に潜る予定だぞ?」
「偶には羽目外してもいいじゃねーか!それにこんなペースで潜ってるのなんて滅多にいないぞ?」
「そうなのか?」
唐突な提案に困惑する隼翔だが、そのように説得されてしまっては考えてしまう。
確かに隼翔たちの地下迷宮に潜るペースは常軌を逸している。大抵の冒険者は二日か三日に一度、下手すれば隔日で休息日を取る者たちもいる一方で、隼翔たちは6日に一度の休息しか取らない。
日本人的感覚からすれば6日に一度の急速に違和感を覚えないかもしれないが、地下迷宮探索と言うのは命のやり取りが行われるため、予想以上に身体も精神も削られ、摩耗し、疲弊する。その中で隔日と言うのは多いかもしれないが、6日に一度と言うのは普通ではない。もちろん遠征など何週間も地下迷宮に籠ることもあるが、それは例外的な出来事で今の隼翔たちには関係がない。
それでも今までメンバーであるクロードやアイリスが文句を言わなかったのは隼翔が非常識すぎたためである。
通常のパーティは安全マージンを取って行動しているが、それでも戦闘中に仮にメンバーの一人でも負傷し戦線を離脱してしまえば一気に死は身近なものへと変貌を遂げる。
その点、隼翔がいると話が変わってくる。先頭に参加しないこともあるが、メンバーの誰かが怪我しても隼翔が戦線に加わるだけお釣りどころか過剰になってしまうし、負傷者を連れて地上に戻ることすら余裕でこなせてしまう。そもそも誰かに大けがを負わせることすらあり得ない。この安心感は地下迷宮ではありがたすぎる。
そのような理由のために二人は一切文句も言わずに、6日の一度のペースで潜っていた。……ちなみに姉妹が言わなかったのは単純にほかの冒険者事情を知らなかっただけだ。
「ま別に現状の探索方法に不満があるわけじゃないが、別に稼ぎにも問題があるわけでもないから偶には羽目を外したいってわけさ」
「……そういう理由があるなら俺としてもかまわないぞ。全員で酒を飲むっていうのもあんまりなかったからな」
別に全員が酒が嫌いと言うわけではなく晩酌程度には皆酒を嗜んでいるのだが週に一度しか休日が無いとあり、宴会のように羽目を外す飲み会を催してはいなかった。
そのため折角飲むならクロードの言葉通り、騒がしくするのもありかと思う。何せ今までそんな経験のない隼翔だ、興味がないと言ったらウソになってしまう。
「おしっ!ハヤトも乗り気だし、やろうーぜ!」
「だな、偶には騒がしくするか!」
胸の奥にまだ靄が残っているが、それでも折角の初飲み会。しっかりと楽しみ英気を養おうと、火照る身体を冷ますように息を吐いた。




