非常識者
岩盤を砕きながら猛然と突進を繰り出した化物。
鮮血のように赤い双眸には喰い殺せと生物の原始的欲求を宿し、側頭部からヤギのように伸びた鋭利で長大な偏角は全てを貫かんと怪しく光る。
異様なまでに発達した体躯を包むのは鉄にも引けを取らない黒い剛毛とのたうつように根を張る赤い筋。
一番の特徴であるはずの長い耳は剣身のように鋭い刃を付け、可愛らしい丸み帯びた尾はモーニングスターのように凶悪に進化を遂げている。
どこにもEランクの魔物・角兎の面影を残していない賞金首。
その存在がいるだけ、空間は重苦しく支配されているかのように錯覚してしまう。まさに異様な雰囲気を発する化物。
「か、彼は……何者なの?」
空気がヒリつき、肌が刺されるように痛む。
茫然とクロードに抱きかかえられ運ばれていく中、アイリスは目を見開いたまま固まる。
耳に届くのは硬いモノが衝突したような鈍重な音。腹の底へ響き、その衝突がどれほどの威力だったのかを嫌と言うほど知らしめる。
だが実際に目の前では誰も傷ついていない。それどころか吹き飛ばされた者もいない。
鼻先数センチまで迫る鋭い双角。しかしそれが人を貫くことはなく、拮抗するように止まっている。
――――ガルルルルッ
怒気を孕んだうなり声が響く。
原始の欲求を宿していた赤い瞳に怒りの炎が灯り、受けとめる者を射殺すように睨む。常人ならば心臓が止まっても可笑しくないほど迸る殺気。
だが平然と少しばかり鞘から抜かれた剣の柄受け止める男は一切おびえた素振りも見せない。
――――あり得ないっ
その光景を間近で見て、目を見開くアイリス。
職人として鞘から抜かれた剣身には確かに目を奪われる。
見た事もない形。片刃で剃りがあり、美術品のような流麗な紋が浮かぶ刃。
一見すれば貴族が好みそうな飾り物。だが感じる雰囲気は美術品ではなく、実戦を想定した、正しく生命を奪うために造られたと言っても過言ではない風格。
しかし、真にアイリスの目と言葉を奪ったのはソレではない。
目の前で繰り広げられる非常識的光景。ソレを見て思わずその言葉が喉から漏れだしそうになる。
あの階層門番に近い潜在能力を有する化物の突進を何事もなかったように受け止めている。ソレがどれだけ異常なことか、階層門番討伐集団に参加したことのあるアイリスならよく分かる。
(そんな無茶苦茶なことをできる人を私は見たこと無いっ!!それこそ悠久なる大楯が一人で受け止めたことがあるという逸話を聞いたことがある程度……なのに――――)
種族的にも力の強い炭鉱族で選りすぐりの上級冒険者ならそれくらいの非常識できても納得できる。
だが盾も持たぬ普通の人間がそんなことできるはずがないっ、と目を疑いたくなる。いっそ実は死んでしまっていて、夢でしたと言われた方がまだ納得できそうである。
「何者と聞かれても正直俺に答えられるだけの情報はない。あいつは俺を以前訪ねてきた冒険者と言うことしか分からないからな……」
だがアイリスの実は死んでいましたという謎の期待は、己の身体を地面へとゆっくり下すクロードに良い意味で裏切られる。
(……名前も見た事もない冒険者。だけどその実力は明らかに私より上。それどころか、この都市最強と謳われる三人にも匹敵する……?)
クノスに存在する冒険者軍勢の中で頂点に立つ3つの派閥。それらを束ねる団長3人。
勇猛なる心槍
万物不倒
秩序の天秤
それぞれが栄えある二つ名を持ち、Sランク以上の実力を有する都市最高戦力。
その力は下級龍と単独で斬り結び合え、地形を変えるとまで恐れ囃されるほどの実力者。世界でも十人もいないとされる実力の持ち主たちの姿と目の前の非常識者の姿が脳裏で並び、重なる。
そんなことはあり得ないし、きっと気のせいと強く否定する。
「ただ、言えることは――――」
茫然と暗赤色の外套を羽織る後姿を眺め否定の言葉を募らせるアイリスの耳に、掠れるクロードの声が届く。
「――――俺たちはあいつに救われ、あいつが勝たない限り俺たちは地下迷宮から脱出することができない」
一拍置いて、情けなさを嘆くように、困惑したように震える言葉が聞こえる。そっとそちらに視線を戻せば、唇を噛みしめながらも恥じるように頭を掻くクロードの姿が目に映る。
アイリスにはその心情が一部だけだが察することが出来た。
冒険者として希望的観測など持ってはいけない。いかなる時も自分と信用できる者力だけを頼るべし、それが冒険者として心に置くべきこと。
だからこそ冒険者として何もできず、ただ助けられるのが情けない。手を出すことは助けになるどころか、邪魔にしかなれない。何もしないことこそ、救いとなる。そんな状況が許せない。
職人としてもそうだ。せめて自分たちが鍛え上げた武器を使って助けてもらえたどれだけ気持ちが軽かったか。どれだけ共に闘えていると胸を張ることが出来たか。
(……私も分かるからね、その気持ち)
冒険者としても、職人としても未熟さを突き付けらている、そんな感じが心を苛める。歯痒さだけが積もる。
歯痒さを紛らわすように、アイリスはそっと握り拳を作るクロードの手を包み込む。
岩のようにゴツゴツとした手。武器を握った男の手と言うより、職人としての年月が作り上げた硬い手。
――――生き残ることが出来たら今度は縋るのではなく職人として、冒険者として共に胸を張れるように頑張ろう
アイリスはそんな想いを手に乗せ、優しく包み込む。
じんわりと伝わる暖かい想い。ソレがクロードに伝わったのか、握られていた拳は弛緩し、答えるように指を絡ませてくる。
互いが互いの熱と想いを求め共有するように絡み合う指。恋人同士が最後の瞬間を共にに興じている、そんな風にも見える。
「安心してください、お二人とも。ハヤト様はあんなのに負けませんよ」
「ええ、だから大丈夫ですよ。それとこちらをお飲みください。血は戻ったりしませんが、良くなりますよ」
いつ殺されても可笑しくないほど緊迫した空気が漂う中、一切の悲壮にも憑りつかれない明るい二つの声。まるで彼の勝利に疑念の余地がない。
そちらを二人そろってみれば、恐れた様子もなく笑みを浮かべる双子姉妹が悠然と立っていた。
アイリスは二人にあの化物の恐ろしさが理解できていないのではないか、と一瞬考えた。それなら二人の態度にも納得できると、そう思った。
だが、姉妹の瞳を見てソレは違ったとすぐに理解させられる。しっかりとこのヒリつく空気を感じ取っている。その上で冷静さを保ち、大丈夫だと判断している。それは圧倒的な信頼感、それこそ全幅の信頼を彼に寄せていると言っても過言ではない。
「これは……?」
ソレをおぼろげに読み取るアイリスに、尻尾が一本の狐人族の少女――フィオネが何かを手渡してくる。
渡されたのは赤い液体で満たされた試験管。容器から察するに薬の類に違いないのだが、このように熟れたリンゴのように赤い液体の薬は見たことがない。
受け取ったアイリスは思わずと言った感じで首を傾ける。
飲むべきなのは分かるが、一応彼女たちとは初対面で本当に信用していいかは正直判断が付かない。だからこそ少しの間でも一緒に行動していたであろうクロードにそっと視線を向け問いかける。コレはいったい何なのか、と。
「見たこと無いから不安だとは思うが、大丈夫だ。俺もソレを貰って傷がきれいに塞がったからな」
グイッとボロボロのつなぎの袖を捲り、そこに隠されていた逞しい腕を晒して見せるクロード。
同ランクの冒険者と比べても太く筋肉質な腕。それをみてアイリスは鍛冶師の腕だなと恍惚とした表情を少しばかり浮かべながら、本来の目的である効能を目にして顔を驚きに染める。
傷どころか傷跡すらない綺麗な肌。何も事情を知らない人物から見れば本当に怪我をしたのか、そもそも冒険者なのかしら怪しんでしまいそうな状態。
Cランク冒険者として活動してきた彼女ですら見たことがない回復効果。
上級回復薬でもありえない回復力じゃないかとか、どこで手に入れたのかとか、そもそもこれは何なのかとか様々な疑問がアイリスの中で沸き上がり、混じり合い、膨らんでいく。
「あ、ありがとうございます……」
だがそれらの言葉をいったんすべて棚上げして、ありがたく謎の回復薬を頂き呑むことを決めたアイリス。
恐る恐る蓋に手を掛け、キュポンと軽快な音とともに開栓する。中から回復薬にそぐわない甘酸っぱい果物に似た香りが漂い、鼻腔を優しく刺激する。
再び湯水のように疑問が次々と沸き上がるアイリスだが、それらを飲み込むように、手に握る試験管の中身を煽った。
「っ!?」
飲むと同時に、本日何度目か分からない非常識が容赦なく脳を襲う。
口に広がる果実に似た甘酸っぱさ。それこそ果実水を飲んだと誤認してしまいそうなほど整った味。
だが果実水ではないと否定するかのように、じわりと身体の奥から熱が溢れ、鈍っていた感覚が研ぎ澄まされていく。
流れていた血も止まり、傷口は綺麗に塞がる。赤黒く変色していた肌も健康な黄色肌に戻る。時間が逆再生されているかのような状況に、アイリスは感謝の言葉すら忘れてしまう。
「どうやら塞がったみたいですね」
「ただ、先ほども申し上げた通り血や消費した魔力などは戻りません。それなのでここで大人しく座っていてください」
言外に治っても動くなよとアイリスに一応釘を刺しつつ、治ったことに満足げに頷いて見せるフィオナとフィオネ。
そのままクルンッと半回転してみれば、獣人特有の尻尾が元気よく左右に揺れている。さしも状況に似つかわしくない光景に、クロードとアイリスは当惑してしまう。
全幅の信頼を寄せる人が単身で戦うことに心配はないのか、と誰しもが疑問に思うだろう。それは正常な判断で、常識的な疑問。
だが、非常識と不名誉な烙印を押された隼翔と共に過ごし行動するフィオナとフィオネ。その彼女たちもまた、常識が鈍化してしまうのは当然かもしれない。
もちろん双子は否定するだろうし、隼翔のことだって当然心配している。
それでも、だ。それ以上に隼翔がかっこよく戦う姿を見れるのは彼女たちにとって至高の時間の一つであり、彼のお手製回復薬で人が助かったというのは自分のことのように喜ばしいこと。
もちろんそんなことをクロードとアイリスには予想だにしないことだろう。だが二人は結局なぜかを質問をすることは叶わなかった。
――――バチッ
全ての耳目を集めるように空気が弾け飛んだ。
一泊おいて、ブワッと遠くで見守る4人の髪が勢いよく舞い上がる。
「くっ!?」
「「「きゃっ!?」」」
思わず襲いかかる空気の弾丸から顔を防ぐように顔を覆うクロードとアイリス。フィオナとフィオネも顔を隠さないまでも嫌がるように目を細める。
その彼女たちの視線の先では猛牛のように突進するウサギを先ほどと同じように刀の柄で受け止める隼翔の姿。
だが決して、脳内にある先ほどの映像と全てが重なることはなかった。
「……っ。さっきより力が上がったな」
「「ハヤトさまぁっ!?」」
ズザザッと滑る両足にわずかに歪む唇。
動かされた距離は1mもない。だが、先ほどよりも明らかに増した突進力と純粋な膂力に隼翔としても無視できず思わず小さく言葉を漏らす。
だが、小さい呻き声をかき消すようにフィオナとフィオネは悲痛な声を上げる。
「大丈夫だ、問題ない」
「で、ですがっ!?」
「これくらいかすり傷だ。それよりお前たちはそこから動くなよ……」
今にも駆け出し、近寄ろうとする姉妹。だが隼翔の厳かな声が響き、二人はビクッと動きを止めてしまう。
しかし姉妹の瞳から憂いは消えない。その理由は隼翔が動かされたから、ではない。もちろん動かされたことには驚きだが、それ以上に細くも逞しい腕の中ほどまで埋まった角が彼女たちに悲痛な金切り声を上げさせる。
貫通はしないまでもしっかりと埋まる剛角。
血は噴出することはないが、真っ赤に染まった角。それはゆっくりと角から顔に流れていき、やがて鋭い牙の並ぶ口へと流れ込む。
ペロッと血をなめる化け物。そして――――。
――――グラァァァァァァアアアアアアアアアアッ!!
空気が振るえ、体が痺れるほどの音圧。
それはまるで極上の料理を見つけたかのような歓喜の咆哮。
全身が鎖で締め付けられ、地面に押し付けられるような感覚が襲い、ただ一人を除き膝を着き動きを止める。
「俺の血は美味いか、化け物?」
唯一の例外である隼翔は一切苦痛の表情を歪めることなく、化物のその動作を見て獰猛に笑ってみせる。
そして腕に角が刺さったまま、隼翔は牙を剥こうとする怪物の顎を下から思い切り蹴り上げる。
ドゴッと鈍重な音を上げ、天を仰ぐ化物。ただ、角が刺さったままだったので隼翔の腕の傷は大きく抉られる。
ブシュッと血を噴出す右腕。だ、隼翔は傷口を抑えないまま刀を鞘に納め、回し蹴りをかまし距離を取る。
「さて、それじゃあ始めようか……命を懸けた殺し合いを」
先ほどの化物と同様に今度は隼翔が腕の血をぺろりと舐めて見せる。
「「っ!?」」
相対していた化物は反射的に鉄のような毛皮を逆立て、低く唸り警戒態勢を取る。
だがそれは化物だけの変化ではない。
ゾクッと背筋が凍るような感覚にアイリスとクロードは襲われ、警戒するではなく怯えている。唇が青く振るえ、知らず知らずのうちに手で自分の体をさする。
完全に怯えきる二人の横で、フィオナとフィオネはその様子を見せない。ただ、ずっと心配しながらも期待するような視線を隼翔に送り続けている。
「どうした?こないのか?」
周囲に警戒と恐怖を与えるほどの殺気を放つ隼翔はといえば、傷のない左腕を深紅の鞘に伸ばす。
スーッと現れる流麗な刀身。それは迸る殺気を鋭く研ぎ澄ませ、不可視の刃となり化物の魂と本能に恐怖を刻み込む。そして静かに紡がれた言葉は化物に死を予感させるのだった。
次回本格的な戦闘とエピローグになるかな?って感じです




