長き夜 驚き
生ぬるい風が相変わらず頬を撫でる。すっかり夏が本番に近づいてきているんだな、と現実逃避気味に思考を巡らせる隼翔。
しかし、いつまで現実逃避をしても事態は好転しないな、腹の底から深く息を吐き出す。そしてそのまま、血の滴る黄金の三爪から視線を杜若色の瞳に向ける。
視線の先にいるのは女神のごとき美貌を持つ踊り子。瞳と同じ杜若色の艶のある髪を夏の風に靡かせ、白いうなじがチラッと顔をのぞかせる。この暑さに加え、動き回っていたはずなのに、そのうなじどころか額にすら汗は滲んでいない。
(……睨んだ通り、かなり高名な冒険者だな。だが同時に戦闘を好む性格みたいでもあるが、な)
どちらも予想通りとは言え、やはり後者は隼翔にとってあまり好ましくない。確かに隼翔はこの都市に強くなるために、より強者と闘うために訪れたが、好んで人を斬りたいとは思わない。
もちろん人を斬ることに今更罪悪感を感じるのは間違っているというのは理解しているし、何よりもそんな罪悪感は大昔に無くなった。けれども、無暗に人を殺し喜ぶような愉快犯でもない。あくまでも人を斬るのは自分にとって有害か好ましくないと感じた相手だけ。
目の前にいる踊り子は確かに隼翔に戦意を向けるが、不思議と殺意はないため、完全に有害と判定できないし、隼翔も男の悲しき性ゆえに、踊り子にどこか心が惹かれてしまっているため好ましいとすら思っている節がある。
そういう理由で隼翔は戦わない、と宣言したはずなのだが、踊り子の瞳は爛々と輝き、まるで獲物を見つけた肉食獣のように今にも襲い掛かってきそうにすら思える。
「あら?私が欲しいんじゃないの?自分で言うのもなんだけど、満足させることはできると思うけど?」
「……余程特殊な奴じゃない限りはそうだろうし、俺も特殊な奴じゃないから、惹かれるモノはある。ただ、生憎と危険なモノには慎重に触る性格なんでね」
戦意が無いことを体現するために、再び肩を竦める隼翔。だが、それを見せても尚、踊り子の瞳に宿る戦意は衰えず、むしろ余計に燃え上がったようにすら思えるほど、ギラギラと輝きを増す。
「その立ち振る舞いと言い、一切気負わず、腹の底を見せない豪胆さ。まさしく、私が求めていた相手だ………わっ!!」
言い切ると同時に、先までとは比べ物にならない速度で地を蹴り、隼翔に肉薄する。数舜で彼我の距離を詰めた踊り子は、肉食獣のように襲い掛かるが、隼翔は未だに微動だにせず、それどころか、踊り子の姿を目で追ってすらいない。
(うーん……これは期待外れだったのかしら?)
黄金の三爪が漆黒の長い前髪と頬の薄皮だけを切り裂くように調整しながら踊り子はつまらなそうに内心で呟く。
自分に全く気が付かせずに背後から現れた隠形に加え、全く実力の底を見せない風格。初めて店で出会ったとき、彼女はすべてがどうでも良くなってしまうほどの衝撃を受けた。
隼翔は知らないが、彼女は踊り子であると同時に、本業は"戦華の舞姫"という二つ名がつけられるほどのAランク冒険者でもある。そんな彼女だからこそ、Bランクのグランドよりも圧倒的に相手の力を感じる力はある。それだからこそ、目の前で黄金の三爪の餌食になりかけている隼翔には少なからず失望している。
踊り子は隼翔から何も感じることはできなかった。それは即ち、非戦闘市民かもしくは圧倒的な強者に限られる。そしてこのファーブラにおいて、戦闘をしたことのない人間などほとんどいるはずが無く、それこそ貴族や王族と言った特権階級の人間程度である。それ以外は少なからず戦闘を行ったことがあるため、上級冒険者にはその残り香とでも言うべき、強さを感じることができる。
だが、隼翔からはそれが感じることができなかったために、踊り子はとても楽しみに喜々として襲い掛かった。おそらくは自分よりも圧倒的な存在として……。
しかし躱すどころか、反応すらできていないので踊り子は失望を禁じ得ない。
(……まあ、仕方ないか。それこそSランクよりも上じゃない限り私には分かるものね……)
残念そうに笑みを消して、この戦いを終わらせるべく、容赦なく黄金の爪を振り抜く。だが――――。
「なるほど、スタンガンに近い原理か……道理で簡単に男たちを無力化できるわけだ」
「え……?」
黄金の三爪は薄皮どころか、漆黒の髪の一房も切り裂くことは無く、空を切る。驚き、見開く瞳の先にはギリギリ爪先が当たらない場所で、興味深そうに黄金の三爪を眺める青年の漆黒の瞳が見える。
一瞬、何が起きたか理解するのに時間がかかったが、すぐに思考を切り替え、どこまでも豪胆で、どこまでも冷静に観察するその姿に消えていた笑みがより獰猛の浮かび上がる。
「やはり最高の相手だったわねっ!!」
中空で身体をクルッと捻ると、隼翔の側頭部を踵で打ち抜くように加速させる。だが、隼翔はそれを相変わらずギリギリ当たらないように首を少しだけ捻り、やはり興味深そうに観察しようとする。
だがそれを許さないとばかりに、踊り子は身体を変幻自在とでも表現するほど多彩に捻り、動かすことで四方八方から爪と蹴りの乱舞を繰り出し、阻止しようとする。
(……っ!すごいな。単なる身体の柔らかさだけじゃ、この動きはできない。おそらくは職ってやつも関係しているんだろうな……)
しかし隼翔も対抗意識は無いが、まるで張り合っているかのように、こめかみを打ち抜こうとする蹴りも、胸を貫こうとする拳も、頬を切り裂こうとする爪も寸前のところで躱し、興味深そうに観察を続け、心の中で冷静に分析を続ける。
躱す隼翔と、攻撃を続ける踊り子。両者はいつしか言葉を交わすことは無くなり、辺りにはヒュン、ヒュンっと空気を鋭く切り裂く音だけが木霊する。
その静かなぶつかり合いはどちらも決して距離をとることは無く、ほとんど同じ間合いのまま5分以上も続いていたが、踊り子が急に我慢の限界とばかりに攻撃を止め、距離をとる。
「満足した……ってわけじゃなさそうだな。何がそんなに不満なんだよ?」
息一つ乱さず、暗赤色の外套に着いた土ぼこりをパッパッと手で払う隼翔。相変わらず戦意は一切放たず、嵐をモノともせずに受け流す柳の如く振る舞う隼翔に踊り子は少しだけ不満を滲ませた声をかける。
「貴方は私じゃ不満なのかしら?それとも私じゃ役不足なの?」
「はぁ……そんなに俺が手を出さないことが不満かよ?」
ため息を吐き出しつつ、どことなく倦怠期を迎えた夫婦のような勘違いされそうな会話になってるな、と内心で嬉しそうに苦笑いを浮かべる。
「当り前よ。斬られるかも、殴られるかも、蹴られるかも、そんなギリギリの中での駆け引きこそ、人を昂らせ、楽しませ、喜ばせる甘美な蜜なのよ。なのに、これじゃあ空気を相手に戦っているようなモノだわ……」
大人びた容姿をしているが、頬を膨らませ、少しばかり口を尖らせ拗ねる様子は幼さを感じさせる。だからと言って、彼女の妖艶さが一切損なわれることが無いことに隼翔は少しばかり内心で首を捻る。
(器用なのか……それともこれが女の魅力と言うやつなのか。俺にはよくわからないな……)
やはり俺には経験が足りないんだな、と内心で結論を出しながら、空をチラッと見上げる。赤い三日月はすっかり中天を超えようとしている。
隼翔の予定としては地下迷宮に潜り、夜明け前までには新居に戻り、多少の仮眠をとる予定だったことを考えるとかなり時間をロスしている計算になる。
(これ以上時間を取られると、それこそ地下迷宮に潜る時間もない……か。仕方ないな)
頭の中でこの後の予定を即座に練り直すと、今まで一切の戦意が無かった隼翔から、スッと戦意とは違う何かが湧き出し、雰囲気が少しだけ変わる。
それを正確に察知できたのは踊り子が高名な冒険者だからであろう。不満に尖らせていた唇を、一気に笑みの溢れるモノへと変貌させる。
「……あんまり無益なことはしたくないんだけどな。だけど、これ以上時間を消費するわけにもいかないからな。後悔だけはすんなよ?」
「ふふっ!!」
隼翔が言い終えると同時に、地を蹴ったのは踊り子。彼女は笑みを零したまま、一気に肉薄し、先までと同様にこめかみや鳩尾と言った急所を正確に狙う。
だが、隼翔はそれらを一切視線を向けずにギリギリで躱す。その闘い方は先程までと全く同じなのだが、踊り子としては何か違和感を覚えた。
(……動きが読まれてる?いえ……どちらかと言えば、私の動きが鈍い感じかしら?)
まるで海の中にいるかのように、手足に抵抗感を感じる。その正体が何なのか、内心で首を捻るが一向に答えが出る気配が無い。ただ、この不可思議な現象を引き起こした張本人だけはすぐに理解できた。それでもなお、手を引こうとはせず、むしろ答えを教えなさいと言わんばかりに攻め手を増やし、加速させ、重くする。
(……今まで見た冒険者の中では間違いなく、実力も潜在能力も最上級だな)
ここにきてギアを一段上げたように動きに切れが出始めた踊り子に内心で感心しつつ、隼翔にとっては無益としか言いようのないこの戦いを終わらせるべく動き出す。と言っても、隼翔は手も足も出すことは無く、相変わらず避けているだけなのだが……。
「え……っ!?」
空中で側頭部を目掛け、蹴りを放とうとしていた踊り子の視線の先から急に隼翔が消えた。いや、正確には消えたのではなく、踊り子の視界が急転したというのが正しいだろう。なにせ、踊り子は受け身すらとる暇もなく、背中から地面に叩きつけられたのだから。
踊り子がそのことを理解するのに、数秒の時間を要した。その数秒の間、彼女はただただ急転した視界に目を見開き、悠然と浮かぶ赤い三日月に照らされる一人の大きな背中を呆然と眺めていた。
「……終わりでいいか?」
そのどこまでも平坦で、戦意を一切感じさせない声にようやく踊り子は今の状態を理解し、背部に痛みを感じた。同時にバッと軽快に起き上がり、そのまま数mの距離を取って視線を正面に立つ背中に向ける。
(何が起きた?何をされた?……いえ、何も起きてないし、何もされていない……けど、どうして?)
殴られたり、蹴られたり、投げられたりしたならまだ分かる。もちろん、その動作を一切見切ることが出来なかったという問題もあるが、それならまだ踊り子が地面に叩きつけられた理由が分かる。
だが、痛むのは地面に叩きつけられた背中だけ。他はどこも痛まないし、掴まれた形跡もない。つまり、手や足だけでなく、指一つ動かさずに投げたと言うことになる。
(そんなこと可能なのかしら?いえ、もう投げられたのだからそこを考える意味はないわ。それよりも……っ)
何をされたのかも分からないし、どうすればいいか対策も練れない。だが、それは過去に戦ってきた魔物や冒険者たちと初めて相対した時と条件は同じ。そう思い直すと、踊り子は再び地面を強く蹴り、隼翔に肉薄する。
それに対し、隼翔はやはり泰然自若な態度を一切崩さない。
「はぁ……。豪胆と言うか何というか……。お前ほどの実力者なら今のやり取りでもう理解出来ただろうに……」
「理解したからこそ、よっ!!」
心底めんどくさそうな表情を浮かべる隼翔に、上下左右から乱舞が襲い掛かる。そのどれもが鋭く、おそらくAランクの冒険者でも捌き切るのが困難を極めるであろう一撃なのだが、一切表情を歪めることなくギリギリで躱す。
そして――――。
「っ!?」
「……いい加減諦めないか?」
幾度どなく襲い掛かる踊り子を隼翔は先ほどと同じように指の一本も動かさずに、叩き伏せる。周囲から見れば立っているだけの状態で踊り子を叩き伏せるその姿は、正に妖術としか言いようがない。
だが、隼翔は妖術どころか既存の魔法すら使えない欠陥人間。故に隼翔が行っているのは武術の行使。もちろん普通の剣や槍と言った武器を使うモノでもなければ、肉体を行使する類のモノではない。
(本来の行使の仕方とは違うんだろうけど……まあ使えているし、問題ないか)
隼翔が使っている技は柔術の技の極みの一つである"空気投げ"という技である。空気投げとは足や腰、剰えは手さえも使わずに、相手を殺気だけで崩し投げるという技である。
確かに隼翔は二度目の人生の際に柔道についても学んでいた。だが、達人と言われるほどまで極めるには至っていない。だから、本来のような殺気だけで相手を崩すということはできない。
しかし、隼翔にはそれを補う以上に優れたモノがある。それは剣客ゆえの先を"読む"力。双天開来流はその読む力を最も重視した剣術であるがために、隼翔は他の剣客以上にその力が強い。
今回の空気投げも殺気での崩しと並行して先読みにより相手の間合いを潰し、姿勢を悪くすることによって、踊り子に触れることなく地面に叩き伏せているのである。
「……コイツが強いから助かってる部分のあるんだけどな」
数回投げたにも関わらず、未だに衰えない戦意を宿す杜若色の瞳を見ながら聞こえないようにボソッと呟く。
殺気で崩すということは、言い換えれば微弱でも殺気を察知できないといけないということになる。つまり、それなりに相手が強くないと使えず、逆に相手が強ければ強いほど危機察知の力も強い分、効きやすい。もちろん与える衝撃はたいしたことは無いのだが……。
「確かにいつまでやっても埒が明かないわね……。仕方ないわ、今は諦めるわ」
この問答をいつまで続けても踊り子の戦意は折れないな、と思っていたのだが、予想外に踊り子が手を引いたことに思わず軽く目を見開く。
「随分と急だな?……と言うか、今は、か」
「そう……。貴方ともっと対等に戦えるレベルになったら、また挑ませてもらうわ。だから……これは約束の代価、ね」
またいつか挑む、というその言葉に苦笑いを浮かべる隼翔だが、次の瞬間、その表情は一変した。あるいはその戦意を放たない雰囲気に油断していたのかもしれない。
ふわりとした軽い足取りで隼翔に歩み寄る踊り子。人とのコミュニケーションに慣れていない、あるいは女性との交友を知らない隼翔は握手でもするのか、と純粋に考えていた。
だが、握手するにしてはやたらに近い距離―――それこそ鼻と鼻が触れ合う―そんな距離にまで杜若色の瞳は接近し、思わず心臓が早鐘のように鳴り響く。
流石に近い、と言葉を口にしようとしたのだが……。
「っ……!?」
紅色の月光のもと、二つの影は知らぬ間に重なるのだった。
今回の話の中で登場する空気投げという技ですが、実際の技とは異なり、仮想の技となっております。
格闘技がお好きな方には不快な表現となっていたかもしれません。ご了承下さい。