森を抜けて……
ふわりと不思議な肌触りのする濃霧の中を進む三人。誰も一言を発していないが、決して空気が悪いというわけではない。その証拠に隼翔の後ろを行く姉妹の表情はとても穏やかで安心している。
それもそのはずで最後の方は弱まっていたとはいえ、恐ろしいほどの殺気が充満する管理迷宮・ヴァルシング城からようやく離れられた、というのが大きいだろう。
「ん?出口か?」
先頭を歩く隼翔がその沈黙を突如破る。
彼の視線の先には濃霧を払うかのように一筋の光が差しこんでいる。
「きっと出口ですよ!」
「急ぎましょう、ハヤト様!」
その光に向かって姉妹は嬉しそうに小走りになり隼翔を追い抜いて行く。隼翔はやれやれと言った表情を浮かべ後頭部を触りながら、変わらぬ足取りでそのあとを追う。
歩みを進めるに連れ光は徐々に強くなり、温かく体を包み込んでいく。そのまま光が三人の身体を完全に包み込んだとき、周囲の様相が一変した。
「……ここは?」
濃霧が晴れたあと、三人がいた場所は原生林を思わせる森の中にできた陽だまりであった。
差し込む陽光の熱量から推測するに今は大体昼前後と言ったところか。
先ほどまでいた管理迷宮との雰囲気や温度、湿度と言った周辺環境に違いに多少困惑した様相を伺わせながらも隼翔はとりあえずとばかりに天に向かって軽く伸びをする。
「なんだかんだ、濃い一日だったな。……半日以上は動き回ってたのか?」
日本にいた頃の癖で思わず手首を見て、そこに腕時計が無いことをどこか不便に思いつつ推測を並べていく。
思い返せば今回の事の始まりは森の中を暗躍していた盗賊たちと第六感を阻害した何かだった。
(そこから無思慮に森を駆けまわり、臍を噛まされ……)
チラッと連れ去られた姉妹に視線を向ける。
あの城での出来事は今まで戦ったことのなかった二人には心身ともに疲労とストレスになっていたに違いなく、フィオナとフィオネは陽だまりの中央でいつの間にか座り込みウトウトと船をこぎ始めていた。
「まあ死にかけて、挙句の果てにあんな真祖と相対したら仕方ないよな」
今にも夢の国に旅立ちそうな姉妹を隼翔は珍しく微笑ましげに見守りながら、自分も少し身体を休めるべく木を背もたれ代わりにしながら木陰でゆっくりと瞼を下した。
「ふむ……やはり魔帝と言われるだけあって魔王なんかとは比較にならないな。これはやはり一度は死合ってみたかったな」
心底残念そうに呟く灰銀の髪をした男。
この男は現在、過去の遺物と化したヴァルシング城の二階・隼翔たちが玉座の間と勘違いした場所に佇んでいる。
当然そこは隼翔が盗賊たちを壊滅させただけあり血の海と化している。その部屋の中央で男はぼんやりと天井を眺めている。
「俺の力ならこの結界を破ることも可能だが……それは無粋だな。これも巡り合わせという事だろう。ところで……」
男は言葉を区切ると、そのまま視線を右手に向ける。
そこには一人の盗賊風の男が苦しみ藻掻きながら声にならない声を必死に上げている。その掴まれている男は何を隠そう隼翔が峰打ちで済ませた男である。
「ここに来た者がどこに行ったのか、本当に心当たりはないのか?」
「――――っ!!――――っ!?」
「ん?ああ、そうか。首を掴まれては声が出ないと言いたいのか」
悪い悪い、とどこも悪びれた様子も無く軽い調子で手を放す。盗賊風の男は尻餅を着きながらも苦しそうにゴホゴホッと喉を抑える。しかし、その瞳に映る感情は怒りや憎しみではなく純然たる恐れ。
その理由はもちろん軽々と自分を持ち上げていたということもあるが、それ以上に感情や心ではなく本能が目の前に立つ男を恐れている。それはまるで人ではない異次元の存在を目の当たりにしていると言った感じか。
灰銀色の髪をした男はそんな盗賊の恐れなど当たり前だと言わんばかりに一歩だけ歩み寄る。
「あ、あぁぁ…………」
「全く……俺は殺気も何も放っちゃいないんだけどな」
盗賊は今にも気を失いそうに奇妙な声を出す。その様子に男は呆れたと言わんばかりに考え込む素振りを見せる。
「ここで気を失わずに、俺の聞きたいことを放してくれればすぐに解放してやれるんだが?」
"開放する"その甘美な響きに盗賊はなけなしの精神力を総動員し、必死に気を失わないように耐えながら喉の奥から声を絞り出す。
「ど、どこに行ったのか、分からない……けど、さっき宝物庫に行ったら地図、が無くなっていた。だから、きっと、こ、この……近くの都市に……」
「この近く、か。ふむ……いくつか都市があるからな、ほかに情報は?」
灰銀の髪をした男は普通に視線を向けたのだが、向けられた盗賊からすれば蛇、あるいは龍にでも睨まれたかのように感じられ、ひぃっ!?と情けない声を上げる。
「え、え、えと……。そ、そうだっ!そいつは獣人を助けに来ていたっ!!だから獣人が嫌厭されない都市に違いないっ!!」
「獣人か……。すると、中立都市・ノイトラルの可能性が高いな」
男は顎を触りながら推測を口にしていく。そしてとりあえずは次の目的地が決まったとばかりに踵を返し、血まみれの部屋からのんびりとした歩調で去っていく。
その後ろ姿を見て盗賊の男は心底安心したかのように、はぁ……、と大きく溜め息を吐いた。しかし盗賊はそれをすべきではなかった。
「ああ。そう言えば解放する、と約束していたな」
ピタッと脚を止めて振り返る男。その表情は清々しいまでに穏やかで何を考えているか全く読めない。そんな逆に恐ろしさを感じさせる表情を向けられたとあって、盗賊は心の底から危険を感じた。
「ひぃっ……。よ、寄るなぁ~~~っ」
バタバタと足を縺れさせ、あるいは滑りながら部屋の隅に走ろうとする盗賊。そんな醜い動きをする盗賊を灰銀の髪の男は呆れたように眺める。
「何を恐れる?俺は解放すると約束した。ならばそれを通すのが筋というモノだろう?」
そう言うと男は音も無くその場から姿を消した。それに驚きつつも脅威が去ったことに安堵し、へなへなと座り込む盗賊。だが次の瞬間、盗賊の男の視界は何の前触れも無く静かに黒く塗りつぶされた。
「これで貴様は恐怖から永遠に解放された。よかったな」
いつの間にか姿を現した灰銀の髪をした男は、かつて盗賊の男だったモノを眺めながらまるで救済したと言わんばかりに呟き、その場を静かに立ち去った。
「ぅ~……ん?」
パチパチと乾いた木が小さく爆ぜる音を耳にしてフィオナは目を覚ました。今にも下がりそうな瞼を閉じさせないようにと目元を頻りに擦る。それでもやはり眠たいのか、コクンッコクンッ、と頭がししおどしのように上下運動を繰り返す。
「まだ眠たいなら寝ててもいいぞ?」
未だに眠たそうにする彼女の姿を見かねたように静かな声が焚き火の向こう側から聞こえてきた。
「……ほぇ?」
思わずと言った感じですっとんきょんな声を出すフィオナ。そして急にその声に聴き覚えがある、もとい忘れてはいけない人の声だと気が付き、ぎこちない動きで周囲を見回す。
空はすっかり様変わりし、燦々と照っていた太陽は姿を消し、代わりに赤い三日月が空を怪しい雰囲気へと誘っている。またすぐ隣には自分の妹であるフィオネがかわいい寝息を立てている。
そこまで確認し、意を決して焚き火の方に視線を向ける。
「……どうした?」
陽炎が立ち上るその奥から、訝しげな視線が向けられる。
その人物は太めの丸太に腰を掛けている。立ち上る炎越しにも分かる長めの漆黒の髪と瞳。身を包むのは暗赤色の羽織りに似た外套。
そこまで確認したフィオナはというと――――。
「も、申し訳ありませんっ」
がばっと勢いよく頭を下げた。
いくら仮の奴隷という立場とは言え、奴隷は奴隷であり、主人に見張りをさせるなどもってのほか。そのような常識がこの世界にはあるためフィオナとしては、やってしまった、という気持ちが強い。
「ぅん……?フィオナ、どうしたの?眠たいんだけど……」
「フィオネっ!!さっさと起きなさい!」
「いたっ!?」
フィオナの謝罪声で起きたのか、フィオネがうるさいと文句を言いたげに姉に問いかける。しかし、今のフィオナにはそんなこと構っている暇もないとばかりに文字通りフィオネを叩き起こす。なぜなら主人である隼翔を目の前にしてこれ以上恥の上塗りするわけにはいかないから。
「はぁ……。そんなの気にする必要ないと何度言えばいいんだ?」
しかし、当の隼翔はと言えばそんなこと全く持って気にした様子もむしろ無く呆れたように呟く。
確かに江戸の時は穢多非人というこの世界で言うところの奴隷的階級が存在していたのは事実だが、隼翔はどこまでも他に無関心だったためそのような身分差別に興味がなかった。
それどころかどちらかと言えば隼翔は偉い人物に遣える側の立場だったため敬われると言った状況を苦手に思っている節もある。
そのような理由があるため、姉妹にそんな事気にするなと強く言いつける。
「で、ですが……」
「そんなこと気にするよりも、今を生き残ることを優先しろ。明日にはこの森を抜ける予定なんだからな」
食い下がるフィオナを言い含めながら、手元の地図をじっくりと眺める。
この世界には地図の書き方に決まりがないのか、なかなかアバウトで分かりにくい地図ではあるが、目標物や街などは記されているため、それを頼りに隼翔は悪戦苦闘しつつ頭の中で明日進むべき方角に当たりを付ける。
そしてある程度方角などが決まるとそれを畳んで、外套の中に仕舞い込む。
「ほら。しっかり食べて、しっかり休んで気力を回復させておけ」
そう言いながら木の枝に刺さした肉の塊を二人に差し出す。フィオナとしてはそれを受け取っていいのか、非常に悩ましい状況だが、いかんせん香ばしい匂いと滴り落ちる肉汁に食欲がそそられる。
その横ではようやく隼翔の前で寝てしまっていたという不覚に気が付いたフィオネが申し訳なさそうにしながらも、視線はちゃっかり肉に向いている。そして――――。
――――ぐぅ~~
とお決まりとで言うべき可愛らしい音が鳴り響く。だが、これも仕方ないと言えば仕方ないだろう。
昨夜攫われてからひたすら動き回った挙句、今日結界の外にでてからはずっと寝ており、口にしたものといえば城で出された紅茶だけなのだから。
しかしそれを仕方ないと割り切れないのは淑女故か、はたまた恋する乙女だからか。フィオナとフィオネは羞恥に顔を染め上げ、完全に俯いた。
「……ったく」
そんな姉妹を見て隼翔は頭をガシガシと掻いた後、おもむろに手に持つ肉にかぶりつく。そのまま無言で食べ続ける。その光景に圧倒されたように、あるいはどこか羨ましそうに眺めるフィオナとフィオネ。
手元の肉が半分ほど無くなったところで、チラッと羨ましそうにしている二人に視線を向け、同時に枝に刺さった別の肉を差し出す。
これで心置きなくくえるだろう?、と視線で訴えかける。そんな隼翔の意図を察したフィオナとフィオネは「ありがとうございます」と小さくお礼を言って、肉を受け取り食べ始めた。それを見た隼翔は一安心とばかりに一息ついた。
(……全く俺らしくも無い)
奴隷としての矜持をどこまでも頑なに貫こうとする姉妹を気遣うような行動をした自分を嘲るように心の中で呟く。
確かに二度の前世に置いても誰かのために行動をしてきたが、それはあくまでも恩を返すあるいは喜ばせると言った目的があってのことである。
しかし今回は今までの事とはわけが違う。そのことを一番よく分かっているからこそ隼翔はらしくないと評したのである。
「……ほんとうに幸せってやつは難しい、な」
目の前でおいしそうに肉を頬張りながら、笑顔を浮かべる姉妹を見ながら隼翔は寂しそうにそっと呟いた。
あくる日の昼前、三人はついに森を抜けだしていた。
眼前にはどこまでも続くような新緑の草原。どの草丈もゆうに50センチは超えており、一般的な成人であればその膝下を簡単に隠してしまう。振り返れば原生林を思わせるどこまでも高く濃い緑をした木々が立ち並ぶ。
そんな草原地帯に脚を踏み入れた三人。
隼翔は鴇夜叉の外套を風に靡かせながら広大な草原を悠然と眺める。
「……ウルフェン、か」
草原地帯を眺めているとカサカサと草をかき分けるようにしながら進んでくる灰色の影が視界に入る。それを見つけて隼翔は気負いのない口調で言葉を漏らしながら目をスッと細め、そのまま深紅の鞘に手を掛け、鯉口を切る。そして、一気に地面を駆けると音も無く新緑のキャンバスに真っ赤なバラの花が咲いた。
「ま、待ってください。ご主人様~」
「早いですよ~」
納刀する隼翔の元にそんな可愛らしい声を出しながらフィオナとフィオネが近づいてきた。
ちなみになぜ"ハヤト様"から"ご主人さま"に変わっているかと言うと奴隷は基本的に主をそう呼ぶのが一般的らしい。もちろん中にはお兄様などと言った酔狂な輩もいるのだが、生憎そのような願望も無くごく自然な怪しまれないモノにとのことで森を今朝変更したのである。
ただ呼ばれる側も呼ぶ側もまだ慣れてないとあって、どこかやり取りにぎこちなさがある。
そんなぎこちなさを紛らわすためか隼翔は二人に向けていた視線をすぐに草原の先に向けた。その先にはうっすらとだが、漆喰を思わせる色合いをした外壁が見える。
「やっと街が見えたな……」
「はい!」
「長いようで短かったですね……」
爽やかな風が吹く中で隼翔の態度はいつも通り冷静そのものだが、姉妹は抱き合い、きゃっきゃと声を出しながら街が見えたことを喜んでいた。
(この世界に来てまだそんな経過していないが、かなり色濃い時間だったな……)
この世界に来る前のことをぼんやりと思い出しながら、感慨深げに街を眺め、心の内でそっと呟いた。
この後に待ち受ける過酷な運命を知らずに……。