何よりも雄弁に語る 3
烏天狗は、タンっと背後に降り立った。
正確にはひさめは相手がどこに降り立ったのか、その姿を見ていない。
ただ宙を跳ぶ姿と背後から聴こえた足音によって、そこに着地しただろうと予測しただけだ。
――――少しだけ世界の流れが元に戻った気がした。
「っ!?」
ひさめは何が起こったのか、わからなかった。
視界が何の前触れもなく、ぐるぐると回転している。
歓声が、一際大きくなったように感じる。
相変わらず視野は上下、左右を無視する世界を作り出す。
彼女は一瞬魔法でもかけられたのかと疑った。そんな風に思ってしまうほど、衝撃的なのだ。
だが実際は魔法など使われていなかった。物理的な危害も加えられていなかった。ただ、彼女自身が自ら回ることを無意識に選びとっていたにすぎないのだ。
その行動は経験から呼び出された《直感》が、反射的に右足で強く地面を蹴っていたことに起因している。
ただ反射的に右足は動いたものの、ひさめ自身戦いの経験が豊富とは言えないため、身体は反射的な動作に付いていくことがなかった。
結果として、少女は意識しないまま無様に舞台を転がったのだが――――自分が転がっていると認識したと時に視界はソレを捉えていた。
「っ!?」
試合が開始されて何度目か数える暇もなく、息を飲んでしまう。
圧巻の迫力と鋭い眼光。
今日執り行われた試合に参加していた者たちでも、比較にならないほど凄まじい斬撃。
恐ろしいほどの速さ。《直感》でも避けて見せた自分が今でも信じられないほど。
(……、今はひたすらに活路を探すしかありませんっ)
だが、避けられたのは単に偶然と言えた。
たった一度の偶然、幸運。それにいつまでも浸ってられるほど、楽観視できるような状況ではなく、思考は今にも崩壊しそうなほどだ。
それでもひさめは動転しかけている思考を無理矢理押し込めて、無様に舞台を転げ回る自分の姿勢を立て直そうと、左手を石畳に着いた。次いで転げ回る勢いそのままに、両足を地面に着けた。あとは膝に力を入れて立ち上がるだけ。
一連の動作をモノの数秒でやって退けたはずだったのに膝に力を込めたち上がろうとした寸前――――烏天狗の突き出した刃が首元数センチまで迫っていたのだ。
「うぐっ!?」
ひさめは咄嗟に首を傾けた。直後、ふわっと首筋を風が撫でた。
烏天狗の刺突は決して勢いがなかったわけではない。少なくともひさめには視認出来ないほどの速度はあった。
しかし、風は優しく首筋を吹き抜けただけ。代わりに焼け付くような痛みが後から追いかけてきた。
視界の端で鮮血が舞った。
知覚してしまった痛みを堪えきれず、口から声が溢れる。
痛みは首筋だけではない。知らぬ間に、いや視認する隙もなく右肩も踏ん張ろうとしていた膝も斬られ、激痛を訴え始めている。
そうだと認識してしまえば最後――――込めようとしていた力は膝から抜けて、無様に身体は地面に崩れ落ちた。
心の奥で、何かが割れるような音を聞いた。
《恐怖》が逃げろと声を荒げる。厭らしく心を誑かす。
また世界の流れが元の速さに近づいた、そんな気がした。
「まだっ、負けるわけにはっ」
あの日、あの時抗うと決めた――――その決心で無理矢理心を鼓舞する。
自分を奮わせるために喉奥から絞り出した声は、情けないほど震えていた。
それでも諦めるわけにはいかないと、再度膝に力を込めて烏天狗から距離を取る。
不思議と烏天狗は明らかに動きが鈍くなったひさめに追撃をしなかった。少女が無様に立上がり、離れていく様を腕をだらりと下げて静観していた。
「「……」」
そして仕切り直しと、試合前の距離に戻り視線をぶつけ合う両者。
無言で互いを意識する姿こそ、時間が戻ったようにも見えるが、重ね合う視線の意味はまるで違う。
漆黒の瞳には、恐怖。諦め。逃避。
猛禽類の瞳には、落胆。虚しさ。そして――――一縷の願い。
これが最後になるかもしれない。
確約された自由はないが、自由を望むことは赦されるはず。
だからこそ、この一分一秒一瞬に全力を捧げたい。全力で楽しみたい。
そんな自分勝手な想いを直剣に乗せて、烏は跳んだ。
そこからは烏天狗の独壇場となった。
『おおーっと!流石は前回、前々回の覇者です。圧倒的な連撃により菊理選手を追い込んでいきます!!やはりこの強さは圧巻の一言に尽きます!!』
躱すことも、捌ききることも出来ないほどの剣速。
ひさめが左からの横薙を何とか防いだと腕に伝わる衝撃から悟った瞬間には、彼女の右足と肩口には堪えきれない痛みが走る。
目でも経験でも知覚出来ないほどに、縦横無尽に刃が襲いかかる。
目に見えて傷を増やすのとは対象に、烏天狗には疲れの色1つ見えず、どこか最初に感じさせていた圧も弱まっているようにも感じられる。
「さっさと倒せ、烏天狗!!」
「やれやれ!そんなやつ、ぶっ倒せ!!」
防戦一方。
片や圧倒している方からも迫力が弱まったのを機微敏く感じ取った観客たちは、そんな心も敬意もない声を叫び始めていく。
観客の野次が耳に届き、身体は全身が痛みを訴える。
心は《恐怖》にすっかり惑わされ、思考は動くことを拒絶している。
もういい。
もう頑張った。
最初から勝てないのは分かっていたことだ。
相手は強すぎた。そして自分は弱すぎた。
だから仕方ない。だから無様を晒すくらいがちょうどいい。
自分には今の姿が似合っている。
《諦め》こそ、菊理ひさめには相応しい――――そう締めくくった。
試合前に感じていた《感情》は風前之灯となった。
その《感情》の名前は、まだ見つかっていない。
その《感情》がなんなのか、分からない。
こうして、いつの間にか世界は元の流れへと戻り、少女は冷たい地面に身体を倒した。