神の手
ブォン、と空気が叩かれる音が耳の真横で鳴る。
通り過ぎたのは円筒状に切り出された粗雑な石の塊――――棍棒とでもいうべきものだ。
それを振るうのは豚顔の魔物・オーク。指定ランクはDと中堅冒険者が一人で戦うのは少しばかり辛い相手。
しかし刀を握るひさめは間一髪のところでひさめは避けるが、やはり冒険者ランクが同じDということで、命の危険を感じ思わず冷や汗を流す。
ここは地下迷宮・岩窟層――――第8層だ。
「そうだぞ、ひさめ。下手に打ち合おうとはするな。膂力じゃ叶わないし、何よりもその刀はあくまでも普通だ。切れ味は保障するが、脆いぞ」
「は、はいっ」
強張る体、心臓は早鐘のように鳴り響く。ひさめは取り乱し、思わずといった感じで手に握る刀で再び差し迫る棍棒を防いでしまいそうになる。
だが隣から聞こえてきた声がその手を止めさせ、棍棒を身を屈めて再び避ける。手を止めさせたのは隣に立つ隼翔の声だ。
いつも通りの平坦で、どこにも焦りを感じさせない声色。普通ならそんなもの聞かされても平常心になれるはずはないのだが、こと隼翔の恋人たちは別だ。
その声は少女たちに勇気を与え、瞬く間に心を落ち着かせる。
通常、刀というのは切れ味が鋭い反面、惰弱な武器として知られる。それこそ人を斬るだけでも刃毀れや折れてしまうし、チャンバラのように打ちなうなどもっての外だ。
もちろん隼翔が持つような瑞紅牙や矛盾刃といった超がつくほどの業物や異世界的な補正のかかったものなら別だが、生憎とひさめが握るのは切れ味は鋭いが、打ち合いなどしてしまえばまず折れてしまうほどの強度しかない。
それゆえに、ひさめに許される選択といえば回避か逸らすのどちらか。といっても、今のひさめに刀に負担をかけずに逸らすなどという技量はなく、とどのつまり回避しか選んではいけないのだ。
(危うくその言いつけを破るところでした……)
とっさの判断とは言え、隼翔の教えを破りかけてしまったことに内心で焦りを覚える。
おそらくは仮に刀で防いでいても隼翔は怒らないだろうし、むしろ怪我をした方が隼翔は心配してしまうだろう。
それでも一途なまでに憧憬の背中を追い続ける少女は決して妥協などしない。刀で防ぐことなく、さらには傷つかずして目の前のオークを倒しきってみせる。そんな強い決意を瞳に宿し、攻勢へと転じる。
「まだまだ拙い部分が多いが……少しは肝が据わったのか」
オークに接近しすぎず離れすぎない距離で必死に回避しながらも、その漆黒の瞳だけは決して敵から逸らさないように戦い続けるひさめを見ながら、聞こえないようにそっと隼翔はつぶやく。
言葉通りひさめの刀を扱う技術というのはまだまだ及第点と言ったところで、刀本来の良さを活かせておらず、間合いの取り方も拙いの一言に尽きる。
それでも決して無闇矢鱈に振り回さず、しっかりと確実に斬れるタイミングで踏み込んでいるのは褒めるべき点である。
オークとは豚の特徴をしっかりとトレースしているようで、意外と筋肉質で表面を程よい脂肪が覆うため、深く斬り込むあるいは突き刺すというのは熟達しないと刃が筋肉層で止まり、抜けなくなってしまうのだ。
そのような事態に陥れば、まず命はない。
しかし地下迷宮での戦いにおいて長期戦はあまり好ましいものではなく、並大抵の冒険者なら簡単に焦りから致命傷を狙いにかかり、結局は隙を作ってしまう。
だがひさめは冷静に、致命傷にならない表面を切り裂く程度の傷しか作ることが叶わなくとも必死に他オークの体表に切り傷を刻み込み、弱らせる。
(ひさめの才能に起因するのか、冒険者としての経験が知っているのか分からないけど……正しい判断だ)
最初こそ、オークは蚊に刺されたかのような傷だと気にした様子もなく、ただ力任せに棍棒を振るっていたが、その動きは段々と陰りを見せていく。
棍棒の振るう速度は目に見えて遅くなり、オークの足元には血の雨で真っ赤。もともと荒かった鼻息も苦しげになり、反面目は血走って理性を失っている。
まさに満身創痍。こうなってしまえば後は命の灯が消し去られるのを待つことしかできない。
このような結果をもたらしたのは、ひさめが冷静さを失わずにいられたからだ。
隼翔はそこを評価しているが、何よりも成長したと感じていたのは彼女がずっとオークの瞳を恐れずに逸らさなかったことだ。
その優しすぎる性格か、はたまた死に際に宿る生物の本能としての瞳に恐れを抱いてしまうのかは分からないが、ひさめは魔物との戦いだけで無く修練の際もあまり目を合わそうとはしなかった。
もちろん絶対に合わせないといけないわけではないが、"目は口ほどに物を言う"と諺があるように戦いにおいては多くの情報を提供してくれる。ましてや強敵との戦いになれば、なおその差は大きい。
そのことを以前に隼翔は指摘はしていたのだが、昨日まではソレができていなかった。なのに、今はソレがしっかりと出来ている。これは一番の成長だと隼翔は見守る中で感じている。
「これで終わりですっ」
その見守る視線に気がつかないほど集中しているひさめは遅くなった棍棒をバックステップで回避し、今まで以上に間合いを離した。
そして腰だめに刀を構え、ひさめは――――開けた間合いを疾駆し、加速。オークの力を失いつつある瞳をより一層睨む。
――――ブシュ
加速と一点に力を集約した、いわば体重の乗った刺突はオークの分厚い筋肉をいとも容易く貫いた。
刃先から伝わる確かな感触。その切っ先がコロンっと魔石片をオークの背中から体外へと弾き飛ばす。
「ふー…………」
オークの体組織を構成していたモノが黒煙へと変わり、刀の自重に任せるようにひさめの手はだらりとたれた。
思わず漏れる息。額は汗でびっしょりで、身体も暑く、刀を似言う腕が少しばかり重い。
ひさめの体感時間としては30分は戦っていたのではと思ってしまうほどなのだが、実際に戦闘していたのはたったの5分程度だ。それほどまでにひさめは集中してオークとの一対一の勝負に挑んでいた。
「お疲れ様。さすがにきつかったようだな」
一息つくひさめに歩み寄ってきたのは見守っていた隼翔だ。
もちろん、ただ立ち止まって見ていたわけではなく、ひさめが一対一になれるように周囲の魔物を間引き、ついでに刀の使い方の勉強となるような"見せる"戦いをしていた。
「あっ、ハヤト殿……すいません。情けない姿を見せてしまって」
「情けないなんてことはないさ。誰だって最初は苦戦するもんだ……あの二人だって同じように苦戦していたんだし」
隼翔に声をかけられた時こそ、嬉しそうに表情を綻ばせたひさめだが、すぐさま表情を曇らせ肩を落とす。
彼女の視線の先にはこの場所で戦う別の冒険者たちの姿がある。
完全に息の合った連携。筆の穂先のような尻尾を躍らせるようにして、魔物を切り刻んでいくのはフィオナとフィオネの姉妹だ。
彼女たちの相手はひさめのようにオーク一匹……ということは無く、むしろオークの群れと混じるオブリンだ。
それらを呼吸を乱すことなく、当たり前のように相手取る姿を見せられては自分がオーク一匹に梃子摺っていたのが情けなく感じれても仕方の無いことだ。
しかし、隼翔は励ますように小さくかぶりを振った。
本来は階級指定Dの魔物を同じ階級の冒険者が一人で倒すというのは相当の労力を要することだ。だからこそ、冒険者たちは基本的にパーティーを組み魔物を狩って、強くなっていく。それが普通だ。
対して目の前で二人がやっていることは異常で、それを当たり前だと思い込んでいはいけなし、少女たちだって最初は苦労していた。
「何よりも、だ。一人でオークと戦ったのは初めてだろ?なら良くやったよ」
フィオナとフィオネのことを引き合いに出した上で、隼翔は少女の濡れ羽色の髪が乱れるほどに、ワシャワシャと撫で回した。
あうあう、と髪が乱れるのを気にした動作を見せつつ、その表情は花咲いたように明るくなった。
「「あっ、ずるいですっ!!ひさめちゃんだけでなく私たちも平等になでて下さいっ」」
すちゃ、っとひさめを撫でる隼翔の後ろに並び、声を上げるフィオナとフィオネ。
抗議するような声を出してはいても、実際は撫でてもらう気満々なのだろう。撫でやすいように少しだけ頭を下げて、いつでもどうぞとばかりに尻尾を左右に振りながら待っている。
「もちろん撫でてやるさ。良くやった、お疲れ様」
ひさめと同じようにワシャワシャと髪が乱れるように姉妹の頭を撫でると、その表情は一転、ほにゃっと至福そうに綻んだ。
だが撫でる隼翔はどこか苦笑い気味。
姉妹ならまず問題ないと視線を外し、感覚だけで動向を探っていたが、その殲滅速度が突如として上がっていた。
そのタイミングというのがまさしくひさめの頭を撫で始めたときだ。
それまでも十分に早く見事な手際で倒していたのだが、撫でてからの加速のしようは末恐ろしいモノ。現にそのときはまだ数体は魔物が残っていたはずなのに、上級冒険者顔負けの速度でそれらを殲滅して見せた。
(……実はゴッドハンドだったりするのか)
恋人たちの頭を撫でていた、ごつごつとした己の手を眺める隼翔はそんなことを思う。
だが、すぐさま苦笑いの色をより濃くすると小さくかぶりを振った。
「「「あっ……」」」
「さて、それじゃあ帰るか。クロードもさすが二日酔いから脱してるだろう」
最後にもう一度恋人全員の頭を平等に撫でると、それ出終わりだと告げるように時計を取り出す。
頭を撫でるのをやめると、フィオナやフィオネだけでなく、ひさめすらも残念そうに声を漏らした。
しかしこれ以上繰り返しては霧が無いと、心を鬼にしたまま時計を覗き込めば時刻は月の5時。午後から地下迷宮にもぐり始めたとはいえ、切り上げるにはそろそろ良い頃合い。
何よりも屋敷で死にそうな表情で見送ってくれたクロードと看病として残ったアイリスを待たせるわけにはいかないので、隼翔は未だに未練がましく上目遣いをしてくる三人の背中を押しながら地上を目指すのだった。




