貴士
貴士目線です。
困ったことになった、と安斎貴士はそっと溜息をつき、隣を歩く少女の顔にちらりと目を遣った。
話し掛ける言葉が浮かんで来ない。
多岐川都は、艶やかな黒髪を背中まで伸ばした華奢な日本美人だ。
今どき珍しい、古風なセーラー服がよく似合う。物静かなので目立たないが、男子生徒から多大な人気を集めていることを貴士は知っている。皆の注目を常に集めている、積極的で可愛い女子がもてるかといえば、案外そうでもないらしい。派手な言動の高校のアイドルをちやほやしつつ、目立たないけれど美人で、気遣いが細やかな都が本命だったりするのだ。貴士は友人からその事を打ち明けられる度に、皆よく見ているのだなと感心していた。
久し振りに、二人で歩いている。
都とは、幼馴染だ。家が隣同士で、生まれた時から一緒にいた。貴士の家は歴史のある旅館で、都の家は少しだけ敷居の高い郷土料理屋を営んでいる。
幼い頃は、よく遊んだものだ。
桧内川の河川敷で転げ回り、古城山公園を駆け回った。受付の目を掠めて武家屋敷に入り込み、怒られたりした。飽きもせず、毎日、二人で夢中になって遊んでいた。
そんな日々が終わりを告げたのは、高校に入ってからだった。クラスも部活も離れると、下校時間も全く違う。あまりに仲が良かっただけに、たまに顔を合わせると気恥ずかしくて、次第に挨拶程度の言葉しか交わさなくなった。この三年間で、随分、疎遠になったものだと思う。
一緒に帰ろう。
帰り支度をしていると、都がそっと近づいてきて、そう声を掛けられたのだ。
久し振りに二人で歩いてる。
貴士は、緊張している自分に気付いた。
都はこんなに背が低かっただろうか。こんなに横顔がきれいだっただろうか。
「貴士は、今年の桜、見られないのね。」
ふいに、都が前を向いたまま話し掛けてきた。貴士は、自分の動揺を悟られないよう願いながら答える。名前を呼ばれるのも久し振りだった。
「桜が咲くのは入学式の後だろ。」
「私は、日帰りで帰って来られるもの。」
「俺だって帰って来られるよ。頑張れば。」
頭一つ分は背が高い貴士の顔を見上げて、都はくすりと笑った。
「飛行機で?」
「新幹線だっていけるだろ。」
今は三月の初め。雪が深く降り積もり、道も建造物も木々も真っ白に染まっているが、北のこの町に遅い春が訪れると道沿いに見事な桜が咲き誇る。観光客が最も多い季節だ。
その頃には二人とも高校を卒業し、貴士は東京の大学へ、都は県庁所在地の大学へ進学している。
「部屋、まだ決めていないんでしょう?」
「うん。寮の抽選外れて、母親にぶうぶう文句言われたよ。いや、進行形かな。まだ言われ続けてる。おばさん、言ってなかった?」
「聞いた。東京は家賃高いのねぇって、貴士のお母さんの話聞いて驚いてた。」
子どもたちが疎遠になっても、両親同士は変わらず親しくしているので、親づてにいろいろな話を聞く。そのため、お互いの状況はわりと細かく知っていた。
「高いんだよなぁ。収入が高いんだから、当然なんだろうけどなぁ。もう、決めたんだって?」
「ワンルーム。今の私の部屋より狭いの。」
「秋田でそのサイズかぁ。そしたら、俺はその半分くらい?ベッド置けるのか?」
ぼそりと貴士が呟くと、あはは、と声を出して都が笑った。その声につられて都の顔を見た貴士は、懐かしい気持ちになる。昔はいつも、この笑顔が隣にあった。都はよく笑い、よく喋り、男の子顔負けの行動力を発揮していた。そんな以前の都と、現在のおしとやかな都の印象を繋ぐことが、貴士にはどうしても出来ない。こんなに大人しくなったのは、いつからだったろう。
まぁ、都ちゃんもすっかりきれいな女の子になっちゃって。お父さんは心配でしょうねぇ。
ふと、最近耳にした母親の言葉を思い出す。
おしとやかな都といるのは、どうにも落ち着かない。
「どうしたの?」
顔を見つめられて不思議に思ったのだろう。都に尋ねられて、貴士は我に返った。下から顔を覗き込まれて、思わず目を逸らす。都の長い髪が、風にさらりと揺れるのが視界に入る。
「ガキ大将が、女の子っぽくなったなぁと思って。」
貴士が努めて軽い口調で言うと、都はふと足を止めた。貴士の顔を真っ直ぐに見つめる。
「貴士がいたからね。」
どう解釈していいのか分からずに立ち尽くした貴士に小さく首を傾げ、都は再び歩き出した。
今のは、どういう意味なんだ。
前を歩く都の頭に、肩に、先ほどからぱらつき始めた雪が積もっていく。
彼女の頑固さは身に沁みてわかっている。この迷いのない歩き方では、聞いても答えてくれそうにない。仕方なく、貴士は大股で歩いて都と並んだ。
「看板娘がいなくなって、おじさんもおはさんも困るだろうな。」
「四年経ったら帰ってくるんだもの。何だか、四年で料理の鉄人レベルになれると思ってるみたいで、すごくプレッシャーなのよね。」
「鉄人になったら、『雪代』に行列が出来るな。」
「やめてよ、貴士まで。」
雪代とは、雪解け水。都の家の料理屋の名だ。
都は家政科に入り、調理師と栄養士の免許取得を目指すらしい。更に、経営マネジメントも勉強するつもりだそうだ。母親からの情報だから、一体、どこまでが都の意見で、どこからが都の母の希望なのかはわからない。
誰かさんと違って、しっかりしているのねぇ。雪代は将来も安泰ね。
母親は厭味を付け足すのを忘れなかった。
『花暖簾』はどうなるのかしらねぇ。
目的も持たずに東京への進学を決めただけの跡取り息子に、わざとらしく溜息をついてみせる。自分の頼りない進路を自覚している貴士は、母親の嘆きに言い返すことが出来ない。
東京に行きたい、という息子に父親は言葉少なに頷いた。
行ってみればいい。
反対されるものと覚悟していた貴士が、拍子抜けして思わず父親の顔を見つめると重ねて言った。
行かなければわからないだろう。
この町で生まれ、お見合いで隣の町から嫁をもらい、家業を継いでもくもくと働く寡黙な父親。
都会に出たことのないはずの父親は、何を知っているというのだろう。東京に行けば、息子が何を知ると思っているのか。
「おばさん、今でも反対なんでしょう?」
落ちてくる雪を見上げながら、都が物静かに尋ねた。
いつ、こんな話し方をするようになったのだろう。昔は、思ったことを感情に任せて言葉にしていたのに。
「毎日、小言だよ。昨日は、東京に何しに行くんだか、この放蕩息子、だってさ。あ、放蕩息子って生まれて初めて声に出して言ったかも。」
最後の方は独り言のように呟く貴士の横顔を、都はじっと見つめた。視線に気づいた貴士と目が合う。
こいつ、黒目が大きいんだなぁ。
「何しに行くの?」
唐突でストレートな質問に、貴士は咄嗟に返事を返せなかった。言葉を交わすのも久し振りの都に、こんな踏み込んだことを聞かれるとは思っていなかったのだ。
貴士の顔を見つめ続ける都が、何故だかひどく真剣な目をしていたので適当にはぐらかすことも出来ない。
簡単にごまかされてくれる相手ではないし、ごまかそうとしたら激怒するに違いない。
黙り込んだ二人の頭上で、みしっと音がした。次の瞬間、大量の雪が貴士と都に降り注ぐ。雪の重みに耐えかねた桜の枝がしなり、積もっていた雪が一気に落ちてきたのだ。
「大丈夫か!?」
自分の頭や肩の雪はそのままに、貴士は固まっている都の肩を掴んで、頭に積もった雪を丁寧に払う。
「?」
それでも無言の都を怪訝に思って顔を覗き込むと、くすくすと笑っていた。
「何だよ?」
「ありがとう。」
にこり、と都が笑った。そして、笑いながら、かがんだ体勢の貴士の頭に積もった雪を払う。
それはそれは綺麗な、一瞬の笑顔。
今の都の笑顔は、この十八年の人生で見た誰のどんな笑顔より完璧だった。
顔が熱い。ひどく赤面しているに違いない。それを見られまいと顔を伏せて、まだ、くすくすと笑い続けている都に尋ねた。
「何がそんなにおかしいんだよ?」
「だって、貴士があんまり変わらないんだもの。」
雪を払う手を止めて、都は少し先の道端を指差した。
「あの辺りで昔、同じようなことがあったのを覚えてない?」
都との思い出は多すぎて、よほど印象深いことしかすぐには出てこない。貴士が首を傾げると、当時を思い出したのか、都はまた、くすりと笑った。
「小三の時かな。岩橋家に入り込んで、かくれんぼをしていたの。貴士が鬼。私はずるをして、外に出て困らせてやろうと思ったのよ。それで、こっそり門の外に出たところで、雪しずりがあって埋まったの。そうしたら、貴士がすっ飛んできて助けてくれた。」
そんな出来事があったと言われればあった気がするけれど、はっきり覚えていない。武家屋敷に入り込むことも、かくれんぼも、よくしていた遊びだ。同じ出来事を体験しても、思い出は違うのだなと貴士は実感する。自分にとっては、二人で遊んだたくさんの記憶の中の一つでも、都には特別なものになっている。もちろん、その逆もあるだろう。
この思い出はなぜだろう。
なぜ、都はこの時のことを、こんなにはっきり覚えているのだろう。
「さっきの貴士の顔、あの時に助けに来てくれた時の顔と全然変わってない。」
都は足早に、指を差していたところまで歩いて振り返った。
「ちょうど、この辺。」
江戸時代末期の武家屋敷。岩橋家の門の前。
貴士にとって、都は昔から不思議な生き物だった。
頑固で自分に正直で、傍若無人。口先だけの言葉が言えない。
そのせいで、四方八方に人当たりの良い貴士からすれば、大変に損をしてきている。そんな性格はよく知っているけれど、何を考えているのかが、さっぱりわからないのだ。予想していないところで怒るし、意外なところで笑う。どんなに仲良くなっても反応が読めない。もちろん、今でも。
だから、わかるはずがない。
何が、この出来事を特別なものにさせたのか。
貴士の返事を待たずに、都は再び歩き出した。貴士も歩調を速めて都と肩を並べる。
岩橋家を通り過ぎ、この先は黒板塀が延々と続く。
「修学旅行がなかったら、貴士は東京に行かなかった?」
またもや不意打ちの質問に、貴士は言葉に詰まる。
何だ、変わっていないじゃないか。
唐突な質問。回り道を知らない話し方。核心をつく勘の良さ。真っ直ぐな視線。
嘘を吐けない都。
それは時に周囲から、傍若無人と受け取られてきたけれど。
安堵のような拍子抜けのような溜息を吐き出して、貴士は微笑んだ。
「そうだと思う。」
都の揺るぎない正直さが、いつも眩しかった。
今も少しも失くしていないんだな。
おしとやかになっても。どんなに綺麗になっても。
飾らずに、率直に歩いている。それは、貴士には無い強さだ。
「そっか。」
吐息のように呟いた後、都はかがんで雪を掬った。歩きながら、それを丸く固める。
「貴士は何を見つけるのかな。」
「東京で?」
「…私の知らないところで。」
都は、手元の雪から目を離さない。貴士も、都のクリーム色の手袋が雪を丸めるのを見つめていた。
「もう見つけたの?」
この場所にないものを。
「みや。」
言おう、と思った。
両親にも、誰にも言っていないこと。
上手く伝えられないとわかっているから、誰にも言わなかったこと。
都には、伝わる。
不意に確信して、名前を呼んだ。
都が小さく肩を揺らす。そして、貴士の顔を見上げた。目が合ってから微笑んだ都を見て、随分久し振りに名前を呼んだことに気付く。昔、呼んでいた愛称で。都は気付いているだろうか。そういえば、今日、久し振りに都に名前を呼ばれて、動揺した自分を思い出す。
「なあに?」
「東京駅に貼ってあったポスターを覚えてる?」
「いっぱい貼ってあったでしょう?」
都には伝えたい。
伝えなければ、二人はどこまでも離れていくだろう。こうして隣を歩くことは二度とないだろう。
それは、嫌だ。
「原宿にも貼ってあったな。電車の中吊りにもあった。キャンペーン中らしくて。」
都は目を合わせたまま、首を傾げている。目を逸らさずに、貴士は言った。
「駅にも貼ってあるよ。」
最寄りの駅の方向を指差すと、都は目を瞠った。
「…貴士。」
「うん。ここのね。」
真っ直ぐに見つめる都の頬が、寒さでさっきよりも赤くなっている。
かわいい、いやいやそうじゃなくて風邪ひかないかな。
あさってなことを考え始める頭を振って、貴士は話し始めた。
「都もそうだと思うけど。親戚も東北以外にいないし、家が旅館やってるから遠くに旅行したこともない。」
都が声を出さずに頷くのを目の端に捉えながら、貴士は今歩いてきた道を振り返った。
真っ直ぐ続く、白い道。
「東京のことを知りたかったわけじゃない。」
雪がいつの間にか、本格的に降り始めていた。しんしんと、という表現は言い得ていると思う。音はしないが気配がする。家の中にいても気付く、雪の降る気配。
東京に行ったら、感じることは格段に少なくなるのだろう。
「ここがどんなところなのか、外から見てみたかったんだ。」
与えられた場所。
当たり前の場所。
小さな町だ。みちのくの小京都と呼ばれ、大勢の観光客が訪れる。そして、その観光客を相手に商売をする家で育った。
きっと何年か後には自分もそうやって暮らしているのだろう。
「まぁ、東京じゃなくても良かったんだけどさ。大阪でも名古屋でも。でも、ここと真逆のところを選ぶなら東京かなって思って。」
大阪も名古屋も大都市だけれど地方だ。地方に生まれて育った人は、その場所に誇りと強いこだわりがある。たとえ、本人がそこを貶していても、他人に貶されると腹が立つのだ。その気持ちは貴士にも良くわかる。だから唯一、地方ではない東京から見てみようと決めた。
「どんなところか客観的に見て、知って、それからどうするの?」
貴士を見つめたまま、都が静かに問い掛ける。
その質問に答えようと口を開きかけた時、都が唇を噛みしめた理由はわからなかった。
「…選びたかったんだ。」
都がじっと自分を見つめている。
ちょうど眉あたりで切り揃えられた厚めの前髪。黒目がちの瞳。小さな鼻。赤い唇。白く丸い頬。
彼女の視線を独占していることが嬉しい。
「ここは、俺にとって当たり前の場所だよ。でも、生まれたからなし崩しに、じゃなくて選びたかったんだ。自分でここを。」
自分が生まれた場所が好きか嫌いかなんて考えたことがなかった。便利で華やかな都会に憧れ、ここは何もないと嘆く友だちが、貴士には不思議だった。ここは、そんなに不便な場所だろうか、と。きっと、流行にさほど興味がないのも理由だろう。
だが、進路を選択する時期が訪れ、様々な場所に進むことを決めるクラスメイトの話を聞くうちに、ふと修学旅行で目にしたポスターを思い出した。
あれは、奇妙な感覚だった。
旅館を営む家に生まれた貴士は、ここが観光地であることを身をもって知っている。桜が綺麗だったとか、郷土料理が美味しいとか観光客のお喋りを耳にするのも日常だ。
だが、東京駅に貼られていたここのポスターを見た時、通りすがる人々にはこの写真がどう見えるのだろうと疑問に思ったのだ。
忙しなく歩く人々の目に、このポスターは留まるのだろうか。
休日を使ってお金を払って、行ってみたいと思うのだろうか。
自分にとって当たり前の場所は、一体どんなところなのだろう。
「ここが好きだよ。でも、自分がずっと過ごしてきたから好きなんじゃなくて、誇れる理由を見付けたい。そうしたら、もっと大切に思える。これから生きていく場所を。」
帰ってくるために、外からこの場所を見てみたい。
真っ直ぐに目を見て話す貴士に、都は目元を和らげた。
「私は、ここで過ごしてきたからここが好き。振り返ったら、貴士との思い出ばかりだから、ここにいたいと思えるの。」
そう言って微笑む都に、貴士は左手を差し出した。その手を一瞬見つめてから、都は自分の右手を重ねる。
そうして、二人は再びゆっくりと歩き出した。
また少し雪が強くなっていた。
都の家である「郷土料理屋 雪代」の前には誰もいなかった。
貴士は繋いでいた手をそっと離して、都の頭に積もった雪を払う。
「貴士。」
「ん?」
「いってらっしゃい。」
ほんの少し震えた声で、けれど笑顔で告げた都に愛おしいという気持ちを初めて知る。
この場所をもっと大切にしたい、と考えたのは、振り返ったら都との思い出ばかりの場所だからなのだろう。
都と過ごした日々を大切にしたかったんだ、と貴士は今更ながらに気付いた。
「ただいま、を言いに帰ってくるよ。」
自分の声がひどく優しい。こんな声が出せることに内心、驚いていた。
「うん。おかえり、を用意して待ってる。」
都の声も甘い。
自分を見上げる都の頬を両手で包む。幼い頃は躊躇いなく触れていただろう。久し振りの白い頬は、たまらなく柔らかかった。
きっと、お互いに会いに休みの度に、この町に帰ってくるに違いない。
たまには都のいる秋田を訪れたり、都が東京に遊びに来るのも楽しいだろう。
そうして四年経ったら、この角館に帰って二人で過ごそう。
料理屋も旅館も続けていくことは大変だ。助け合って、わかり合って、ずっとずっと都といたい。
確信する未来が本当に訪れるように。
願いを込めて、貴士は都にそっとキスをした。
次話、都のターン。