トモキ・7
踊るように、キーボードの上で指が動く。申し訳なさそうに頭を下げ続ける中年男が8時間かかっても出来ない書類を、先ほどトモキとぶつかった男は、2時間もかからずにまとめ上げてしまった。
「出来ました」
「ああありがとう!助かるよ!」
「至急印刷します」
「あ、印刷なら私が」
「いや、大丈夫だよ。ありがとう」
男が笑顔で去っていき、いなくなると、女子社員たちが小さく騒ぎだし、上司が咳払いをすると、慌てて黙るが、それでも、小声の興奮は止まらなかった。
「格好いいねえ、エミヤさん!」
「芸能人よりよっぽど格好いいし、仕事出来るし、優しいし!」
「笑顔がいいのよねえ…ああ、彼女いるのかなぁ、いるよねえ、いっつも仕事終ってすぐに帰っちゃうしね」
「ああ、あれね。猫飼ってるって、営業の子が教えてくれたよ」
「「やだ、かわいいー!!」」
五月蠅いなあ、エミヤは盛大にため息をつきながら、貼り付けていた笑顔の仮面のようなものを脱ぎ去り、珈琲を一気に飲み干した。
願ってもないのに恵まれた容姿、何の努力もなくついた必要以上の仕事技術、勝手に盛り上がり勝手に充実していく人間関係。どれもこれもエミヤにとってはつまらなく、どこか現実といった感じがなかった。彼にとっての現実は、この世で一つだけだった。
電話が鳴り響き、エミヤはふっと笑って電話を取る。今日も定時で帰らなければならなくなってしまった。
今日は少し眠れたかな、肩をこきこきならしながら、トモキが廊下を歩く。それでもやはり授業中は眠い、今日も授業中思い切り寝てしまった。課題を追加されることはなかったが、雑用を押しつけられてしまった。クラス全員分のプリントを職員室に持ってくるように言われたのだ。
失礼します、と呟いて職員室に入る。休み時間に入ったため、室内に緊張感は全くなく、着席している教師もまばらで、立ったり、生徒と話したりしていた。
数学タヌキの机どこだっけートモキが探していると、ふと、あれ、と呟いた。あれはクドウの上着だ。椅子からずり下がってしまっている。
拾っておいてあげよう、トモキがそのまま机にプリントを置いて上着に手をかけると、それを結局床に落としてしまった。クドウの机上には、グラフがあった。一瞬授業で使うものかと思ったが違った。
誰かのデータ。何月何日どこにどのくらいの時間いたのか、分刻みで記録され続けている。GPS靴の成せる技だろう。どうしてこんなものがクドウの机の上にあるんだ、信じられないトモキは詳しく資料を見ようとすると、そのまま目を疑った。
「お、持ってきてくれたかね」
「あ」
タヌキ、思わず呼んでしまいそうな口をつぐみ、プリントを促されるまま渡すと、もう寝るなよ、と彼が笑った。教室より穏やかだ、もうタヌキと呼ぶのは止めよう、そう思いながら、職員室を飛び出したトモキの心臓は早鐘だった。
何を、何をやっているんだろう。
ポケットの中で握り締めているのは、クドウの机上にあったグラフ表の一部だった。絶対に関わらない方がいいに決まっているが、トイレに流すことも出来ず、結局中を開けてしまった。息が止まってしまうかと思った。
「キサ、ばいばーい」
「じゃあねー」
「うん」
スカートを翻し、キサが下校していく。その様子をトモキがそっと後ろから尾行していた。
クドウのグラフにあったのは、全てキサのデータだった。なぜ彼女だけのデータなのか、そして更に自分は何をやっているのか―前者はとにかく、後者に理由をつけるとしたら、興味だ。野次馬根性に似ている。それでなくてもキサは、トモキにとって少し特別な女子だったのだ。
キサは髪を染め、派手に化粧し、教師のいうことを全く聞かない、ちょっと荒れている女生徒だった。その火の粉は気の弱いコズエが標的になっていた時期もあり、報復こそしなかったものの、トモキは彼女を怨まずにはいられなかった。
しかしあるときからパタリ、何事もなかったかのように、キサは髪を黒くし、化粧も取り、素行にも問題がなくなり、コズエには何と謝ってきて、一緒に昼食を取ったりしている。
これには男子も驚いた。何より彼女は、派手な化粧を取ったら、十二分に可愛かったのだ。男子内でキサの株の上がりようはいうまでもなかったが、トモキは今でもキサが嫌いだった。
なぜクドウがキサの動きを気にしてるのか、今でも素行を心配しているだけなのか、それならそれでいい。何もないならそれでいい。
馬鹿馬鹿しくも、理由は分からなくても、トモキの尾行は止まらなかった。しばらく歩いていくと、キサはふいに公園のトイレに入った。さすがにすぐ近くで待つわけにもいかず、少し遠くで待っていることにした。
「…遅い」
まさか美少女がこんなところで、トモキが小学生のように笑っていると、トイレから女子中学生が出てきて、その子にトモキは目を疑った。
有名中学の制服を着たキサだった。嘘だろ、トモキは何度も目をこすってみるが、目の前にいるのは間違いなくキサだった。子供っぽい髪の縛り方をしているし女子中学生の格好に着替えたが間違いなくキサだ。
コスプレ趣味か、トモキが呆気に取られていると、彼女がまた歩き出した為、慌てて後を追った。
どこまで行くんだ、いい加減に疲れてきたトモキが恨めしそうに、少し前を歩くキサの背中を見る。もういい加減馬鹿馬鹿しくなり、もう帰ってしまおうかと思った矢先、動きがあった。キサが建物に入っていった。
ついていくと、どう見ても高級マンション、暗証番号がないと入れない。今度こそ諦めようとしていると、掃除婦らしいおばさんが入っていき、トモキはさっとすり抜けるように続いて中に入った。
キサの名字はないし、目的地も分かりようもない。もう本当に帰ろう、エレベーターのボタンを押した。何だかここに乗るだけでお金を取られそうだ。
「あれ」
なぜか最上階を押してしまった。慌てて連打するが、ここは取り消せないタイプのようだ。仕方なく最上階まで登り、すぐ降りようとするが、その指が止まった。奥の部屋へ入っていくキサが見えた。
自宅か―美少女、金持ち、お約束。
はいはい、トモキが下りるボタンを押そうとするが、また失敗した。
「いや…っ」
ふらり、と、また勝手に足が動いた。行くな、と心臓が早鐘のように鳴るのに、足が速く動く。奥の部屋まで足が進む。鍵がかかっていなかった扉をそっと聞き耳を立てる。
「 」
阿鼻叫喚とは、こういうことを言うのだろうか。男に乱暴に犯されているのだろう、キサの悲鳴が聞こえる。助けを呼ぶ声に混じったあえぎ声、トモキはたまらず膝をついた。
警察、警察?
トモキが携帯電話を手に取ると、汗で滑ってしまい、そして、信じたくないことに気付いた。自身が勃起している。軽く死にたくなりながらもトモキが携帯電話を取る。
「 」
先ほどの阿鼻叫喚とは変わり、今度はAVのような愛らしい、誘うような声に変わる。下半身も落ち着いた為、トモキは歩き出した。
通報しようと思ったが、どうもそういうプレイらしい。信じられない、何やってんだ美少女。
学校中に言いふらしたら、キサファンの男子たちはどんな顔をするか興味があったが、それを言えないからこその自分なのだと、また自棄気味に笑い、トモキは今度こそ本当に帰り始めた。
その夜、トモキはやはり眠れずにいた。ベッドの上で、何気なく、クドウの机上にあったグラフを見ていた。よく見ると、鉛筆書きで詳しくメモ書きまでしてある。
三日前もキサは似たような行動を取っていたようで、その時間帯には『E宅』と書いてある。自宅、と書いてあるのはずいぶん遅い時間だ。
彼氏かな。女子高生にあんなプレイさせるってどんな彼氏だよ。
馬鹿馬鹿しい、そんなこと考えたってしょうがない、グラフを捨てようとしたトモキはあることに気付いた。キサは自宅にまっすぐ帰ったり、ショッピングモールに寄ることの方が多い。E宅にいる日の方が珍しいみたいだ。
彼女などいないが想像は出来る。恋人同士というものはもっと会いたいものではないのか。あまりに頻度が少なすぎる。何となく会った日を点で繋いでみるが、全く一貫性がない。感覚もまばらで、時間もばらつきがある。何だか仕事のシフトみたいだな、大あくび一つ、トモキは目を閉じた。今日もまた、眠れないだろうけど。