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あれからしばらく経った。
美雨からの連絡は無い。
両親も、余計なことを言ってしまったとわかったのだろう。あれ以来、美雨のことが話題に上ることはなかった。それは嬉しかったけれど、余計に彼女の存在を思い出させた。
このまま、また美雨から離れていくのだろうか。
離れていけるのだろうか。
そう思い始めた頃、携帯がかわいらしい音色を奏でる。場所は自室。行儀悪くベッドに寝転がって、マンガを読んでいるところだった。両親は外出していて、僕しか家にいない。
半分寝入っていた耳に、聞きなれた音色が進入する。
――美雨専用の着信音だった。
しばらく迷って、僕は通話ボタンを押す。
「もしもし……」
『あ、起きてた?』
聞こえたのは、いつも通りの美雨の声だった。
あの日に僕が見た姿は、全部悪い夢だった気がするほどに。
『あのね、私の家わかるかな?』
「わかる……けど」
『じゃあね、ちょっと来てほしいの。屋上まで来てね』
「え……屋上?」
『家にはパパとママがいるもの。……じゃ、待ってるね』
通話が途絶える。僕はまだ行くとも行かないとも答えていない。まるで、来ないはずがないと信じきっているような感じがした。そして、彼女のその考えは……見事正解する。
これという用事も無く、いずれ美雨に会わなければと思っていた。
いい機会だ。
僕は携帯と財布を手に家を出る。親にはメールを出しておいた。美雨の名前は出さず、友達のところに遊びに行くと。けれど美雨のところに行ったというメモ書きは、部屋に残した。
なぜだろうか。
生きて帰れないかもしれない可能性を、僕は考えていた。
電車を乗り継ぎ、一度だけ訪れた美雨が住むマンションにたどり着く。いつ見ても、高級という言葉しか当てはまらない、豪華な佇まいの建物だ。全部で何階あるのだろうか。
アパートに入ってすぐの機械の前に立ち、僕は美雨の部屋の番号を押す。
しばらくして。
『先に屋上で待ってるね』
ずいぶんと息の弾んだ、美雨の声が聞こえた。かすかなブザーの音がし、ガラスでできた扉が開いた。僕は扉の向こうに見えるエレベーターの前に立ち、ボタンを押す。
昼前とはいえ、人気の無いマンションだ。見たところ、美雨の家以外にもそれなりに入居者はいるようだったが、通勤通学の時間からずれるだけでこうも人がいなくなるものなのか。
すぐに降りてきたエレベーターに乗り、一番上の階のボタンを押す。
一度も止まることなく、まっすぐに目的の場所に着いた。
僕は屋上に向かう階段を上り、その先にある鉄でできた扉のノブを回す。ぐりり、と濁った音を立てて、ノブは綺麗に回った。このまま押し開けば、僕は屋上に到着できる。
だが――何とも言えない違和感があった。
こういう場所は普通の場合、厳重に施錠されて、階段だって封鎖されているはずだ。少なくとも、僕が住むアパートはそうなっている。間違っても何かが起こらないように。
しかし階段の閉鎖は誰か――おそらくは美雨が取り除き、ドアも開錠済みだった。どこで鍵などを手に入れたのか分からないが、美雨はどうしても家ではなく屋上で話をしたいらしい。
その用意周到さに、早く来て、という彼女の声が聞こえそうだった。
だからこそ僕は、ノブを回したまま動けなくなる。
罠ではないかと――意味も無く疑ってしまう。とはいえこのままでは、何も始まらないし終わらない。僕は静かに息を吸って吐き出し、ゆっくりと扉を押し開く。
太陽の光に目を細め、かすんだ視界の中に彼女はいた。
僕に背を向けて立っている美雨。
振り向いた彼女の、白地のワンピースに――緋色の花が咲いていた。わずかに黒を帯びる赤い花が、薄い花をねじり伏せるように、彼女の前面を埋め尽くすように飛び散っている。
「ごめんね」
美雨はそういって、少し悲しそうに笑う。
片方の腕を後ろに回して、何かを隠すようなポーズをとって。
「パパとママが、貴方のお父さんとお母さんに余計なことを言ったみたい。ちょっと気が早いだけだと思っていたから。本当にごめんなさい。もう二度とないように説得したから」
美雨は笑っている。
「ねぇ、これからどこかに出かけましょう? 何でもしてあげる。うん、何でも。だって私は貴方がだいすきだし、だから好きなことをしていいんだよ? 誰もジャマなんてしないし」
「美雨、服は」
「ごめんね。ちょっと汚れちゃったの。出かけるなら着替えなきゃダメだよね。どうせワンピースだからすぐに済むよ。下のロビーで待っててくれる? 何なら着替え、見てもいいよ」
「そうじゃなくて……」
「……?」
彼女は、美雨は、不思議そうに笑っていた。
無言で問いかけてくる。
――どうして動かないの?
美雨はただ、不思議そうに僕を見ているだけだ。
僕が扉の前から移動しないからだ。僕が移動しないと、彼女はここを去れない。着替えとやらのために部屋に行くことさえ。けれど美雨はわかっているのだ。
体力で、僕に勝つことなど絶対にできないと。
無理やりに押しのけることは、できないと。
同年代の男子と比べ、僕は小柄で華奢な方だと思う。それでも、同年代の女子と比べて圧倒的に華奢で体力も腕力も無い美雨に、跳ね除けられたりするほど弱くはない。
「美雨、キミは」
何をしたんだ。問いかけた。
問われた美雨は少し目を見開き、そして。
「――だって、パパとママが、貴方を遠ざけてしまうんだもの」
にっこりと笑った。
そして、うしろに回していた手を前に出し、手のひらをゆっくりと開いた。
かららん。
そんな軽く高い音を立てて、それは屋上の硬い床を何度か跳ねた。
それはナイフだった。たぶん、果物ナイフだ。そこには、明らかに果肉とは似ても似つかない赤いものが、べっとりと塗りたくられていた。刃だけでなく、その全体にだ。
僕は、彼女の言葉の意味を知る。
果物ナイフの意味。
彼女の衣服に裂いた赤い花の意味。
そして、ここに僕をわざわざ呼びつけた意味。
部屋がダメだという意味。
電話をする前かした後かは、わからない。だが彼女は、きっと僕が拒絶したあの瞬間にこうすることを決めたのだ。僕の拒絶は、自分の両親の『要らぬお節介』のせいだと確信し。
これ以上、邪魔をされないために――。
「……どうして」
「え?」
「美雨は、そんなことをするような子じゃ、なかった」
優しい子だったのに。
記憶の中からそっと取り出した、初めて見た彼女の姿は、最初の言葉は。
こんなことをするような、考えるような子ではなかったのに。
美雨は表情をくるくると変えた。葛藤と微笑みと無を、何度も繰り返す。見たことが無い表情もいくつか浮かんでは、何も無かったように消えていった。表情が表情を押しつぶした。
彼女は最終的に――微笑を浮かべる。
いつも通りの、けれどいつもよりも透き通った笑みだった。
これが、彼女の本当の姿、なのだろうか。
変化に戸惑い、何も言えなくなった僕を他所に、彼女はその足を動かし始める。
ゆっくりと後ろへ。
美雨は、僕を見たまま後ろへ歩き出した。
「私ね、今までがんばったんだよ? がんばって、貴方と再会しようとした。だけど貴方は帰ってこなかった。あんなに苦労したのに、がんばったのに、あんなに、あんなに」
かつん、と靴音がする。
美雨が遠ざかる。
「何度も何度もがんばったの。あんまり混ぜちゃうと、バレちゃうかもしれないから慎重に量を計算して、時間をかけて……だけど貴方は戻らなかった。来てって、狼煙まで上げたのに」
ゆっくりと遠ざかる。
「だから、待っているだけではダメだと気づいたの。それでパパとママに頼んで、ここに引っ越してきたのよ。貴方と同じ学校に通うために、またがんばって勉強だってしたんだから」
美雨が遠ざかっていく。
僕は、動けない。
「でも……ダメだった。貴方は離れていくばかりだった。だけど一緒にいたいの。ずっと一緒にいたいの。愛されたいの愛したいの。貴方だけのモノになりたい、貴方を独占したいの」
くるんと彼女が身を翻す。
「私に残された手段は……もう、これだけ」
美雨はまるで踊るような足取りで――ふわりと、屋上の淵に立った。
一瞬で、彼女の意図を僕は理解した。
「美雨……こっちに。僕の手を」
ゆっくりと歩み寄りながら、僕は彼女に手を差し伸べる。
あと少しで届く。
「これで貴方はずっと私のモノだね。だって貴方は私のことが好きだもの。私を愛してくれているもの。だから貴方は私から逃れられない。永遠に私たちは、強い愛で繋がれあうの」
美雨は泣きじゃくるように、ただ微笑んで。
「――ばいばい、大好き」
今度もまた踊るように後ろへ飛んで、ゆっくりと僕の視界から消えていって。
彼女は、陽炎の中へ飲み込まれていった。