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決意してしまえば、少し気が軽くなった。
僕は美雨を呼び出した公園の木陰の下にいた。
彼女は少し遅れるかも、という返信を最後に沈黙している。公園の時計を見る限り待ち合わせた時間までもう数分とないが、美雨の姿はどこにも見当たらなかった。
思えば、いつも呼び出されるままだった。まさか自分からする始めての呼び出しが、こんな用件になってしまうなんて。複雑な気持ちのまま、未だ見えない美雨を思う。
彼女はきっと、おめかししてくるだろう。
僕からの呼び出し――デートの誘いなのだから。
それに最悪の一手を繰り出すことを、今更ながら後悔し始める。彼女の笑顔や気体を叩き壊す行為に、罪悪感を感じないと言えば嘘になってしまう。だが……もう決めたのだ。
仮に、僕が彼女を好きだったとしよう。
今は自覚をしていないだけで、僕はちゃんと彼女が好きだったとしよう。
けれど今は自覚をしていないのだから、好きではないと同じことだ。そんな状態で彼女に流されることは、彼女に対しても失礼に当たるだろうし、きっと遠くない未来で破綻する。
それだけは避けたい。
たとえ恋愛感情が芽生えなくても、僕にとって美雨は大切な存在だ。
失いたくは無かった。
「ごめんなさい、遅くなって……!」
そこへ、美雨が走ってくる。想像した通り、いつもよりずっと着飾っていた。白地にシンプルな柄がプリントされたワンピースは同じだが、髪留めなどがいつもより気合が入っている。
ずくり、と心のどこかがきしんだ。
今からあの笑顔を、曇らせなければいけない。
それでも僕は、美雨に言わなきゃいけなかった。
僕のために――そして彼女のために。
「お願いがあるんだ」
「なぁに?」
美雨は無邪気に首をかしげる。
何でも言って、という幻聴を感じさせる笑顔だった。
「僕は美雨と付き合っているわけじゃない。もしかすると、お付き合いすることになるかもしれないけど、でも今は違うんだから、付き合ってるみたいにいうのはやめてくれないか」
僕は極力感情を込めないように、淡々と言いたいことだけを口にする。
「……え?」
美雨は何度か大きく瞬きをして、小さくそう言った。……と思う。あまりに小さな、吐息のような声だったから、空耳だったような気さえするほどだ。
「あの……それって」
彼女は動揺し、引きつった笑みを浮かべた。
そんな笑みをさせてしまうことを、僕は心の中でわびた。
「……あ」
しばらく視線をさまよわせていた美雨だったけれど、ある瞬間、それが止まった。まるで探していたものを見つけたようで、それは明らかに『豹変』と呼んでいい規模の変化だった。
ぎゅうう、とワンピースを握る。
怒りなのか、それとも悲しみなのか。
うつむいてしまった美雨は、僕には聞き取れない小さな声で何かを呟く。そのたびに手に力が篭っていって、ただでさえ白いその指が、生気さえなくすほどの勢いで白くなる。
たまっていた何かを吐き出し、指をゆっくりと開き。
「……パパとママが、何か言ったの?」
美雨は、声を発した。
僕はゆっくりと首を横に振る。
すると美雨はゆっくりと顔をあげて、何も篭っていない瞳を僕に向けた。いつも喜怒哀楽のいずれかが篭る目をしていた美雨。その美雨から初めて、表情や感情が失われた。
その黒い瞳を見ていると、心の中を覗かれている気分になった。視線を合わせ続けることができなくて、僕は思わず視線をそらせてしまう。彼女にどう受け取られるかも考えずに。
やるんじゃなかった、と僕は心で呟いた。
美雨への罪悪感ではなく、美雨への恐怖から、僕は己の選択を後悔する。
だが、時はすでに手遅れだった。
「……パパとママが、何か言ったのね」
その声色は、明確な確信を持っていた。
僕はとっさに何も言えなくなり、彼女の考えを肯定してしまう。先ほど、あからさまに視線をそらせたことで彼女に植え付けた疑念に、今度は魔法のような栄養を与えてしまった。
僕の反応で彼女は、自分の両親が元凶だと思っただろう。
それは間違いではないのだが、僕はそれを彼女に知られたくは無いと思った。特定の誰かを元凶にするのは、今回の場合はよくないと思ったからだ。結果は、見事大失敗だが。
「わかった……」
美雨は低い声でそう呟き、僕に背を向ける。
その様子に、昔、彼女を拒絶する直前に感じた気配を見た。けれど、僕はまたぴくりとも動くことができなくて、ゆっくりと去っていくその背中を、ただ見送るしかなかった。