-2-
何度目かの夏が来た。
祖父母の家で過ごすいつも通りの夏だ。
もちろん彼女もいる。僕がいない間に仲良くなったのか、今年は普通に家まで遊びに来るようになった。縁側で一緒にスイカを食べていると、祖父母の優しい視線を感じた。
「あのね、今日もあの場所にいこっか……」
川原で遊んでいるのは秘密だから、小さな声で耳打ちされる。
あの場所、とはもちろん二人だけの秘密の場所だ。二人で見つけたいろんなものに、適当な謂れをでっちあげて飾り立てた、橋の下の小さなスペース。
「お茶を持っていかなきゃね」
くすり、と笑う美雨に、僕の心は跳ね上がる。何だか息苦しくて、頬が熱くて、僕は思わず美雨から目をそらせてしまった。ちらりと伺うと、美雨は不思議そうに僕を見ていた。
目があうとまた笑う。
そらす、笑う。そらす。笑う。
そうしているうちに、僕はこの感情を『恥ずかしい』と言うのだと気づいた。彼女の、僕と同じ色のはずなのにずっと綺麗な黒い瞳で見られると、なぜだかすごく落ち着かなくなる。
なのに、僕は嬉しかった。
美雨が僕を見てくれるのが、嬉しかった。
笑ってくれて、それが嬉しかった。
二人で過ごす時間が増えていき、祖父母との時間が減っていき。
祖父母は少しだけ寂しそうだったけれど、同時に嬉しそうでもあった。僕に友達が少ないことを聞いていたのかもしれない。美雨と一緒にいるのを見て、安心していたのだろうか。
きっと、僕は全身から美雨と一緒にいることを喜んでいたのだと思う。
けれど僕は、同時に何とも言えない気持ちを抱き始めた。
美雨はどこにでもついてくる。まるで影のように、ちょこちょこと。さすがにトイレにまではついてこないけれど、それでも彼女は入り口でしっかりと僕のことを待っている。
あまりに待ってくれるから、僕は一度だけ、イタズラをしたことがあった。携帯ゲームをそっとトイレまで持ち込んで、時間にして十分程度、ここに篭ってみることにしたのだ。
さほどの悪気はない、ちょっとしたイタズラのはずだった。しかし、ついついゲームの方に集中してしまって、喉の渇きでそれに気づいた僕は慌ててトイレから飛び出す。
薄暗いトイレから明るい場所に出て、僕はそれを見た。
「遅かったね」
顔を真っ赤にした美雨が、少し疲れた様子で木の下に佇んでいた。
浮かんでいたのは、いつもの笑みだ。目をうっとりと細め、満面ではないが、けれど心からの喜びを表現している形。普段なら恥ずかしさからそらしてしまう視線を、外せなかった。
その時の衝動を、僕は言葉にできなかった。
それは間違いなく『恐怖』であったけれども、相手は美雨で、仲良しの友達で。そんな相手をお化けか何かと同じように扱うなんて、僕にはどうしてもできなかった。
それから美雨を、彼女の自宅まで送っていく。明らかに足取りが危うい彼女を、連れまわすなんて僕にはできなかった。……何よりも今日は、一緒にいたくなくなってしまったから。
だから、必死に言い聞かせて、説得した。
しばらくの間は拒否していた美雨だったけれど、最終的には帰ることを選んでくれた。その妥協案が僕に送ってもらうこと。じゃないと帰らないと、美雨は言った。
その道中、当たり前のように手を握られた。本当に美雨なのかと思ってしまうほど、指に篭った力は強かった。でも僕はこれは美雨だと言い聞かせ、必死に気にしないようにした。
そうしないと、許されないほどのひどいことをしそうだったから。
美雨の家は新築らしく、すごく綺麗で大きかった。後で祖父母に聞いた話だと、この周辺でもかなりのお金持ちの家なのだという。つまり、美雨はちょっとしたお嬢様ということだ。
「……ねぇ」
自宅の門扉を開け、美雨が振り返りながら言った。
今まで見せたことが無い、それはどんよりとした色の声で。
瞳は、あんなにもキラキラしていた瞳は、まるで値踏みするようにじとりとしていて。
「また……一緒に遊ぼうね」
いつもの別れの挨拶も、その時ばかりはまったく違うものに聞こえた。僕は答えられずに息を呑む。美雨は、ゆっくりと僕に向かって歩き出した。いや、飛んだ。
彼女が押し開いた門扉は、数段の階段を上った上にある。彼女はその階段から、はねるように飛び降りて――僕にぎゅうっと抱きついた。やわらかい香りが、肺の中に染み渡っていく。
よろめきながら、僕は彼女の軽く細い身体を支える。
「み……」
名前を呼んだ。
呼ぼうとしたと思う。
けれど、彼女はその声を自分の唇で吸い取った。
ぬるりとした舌が僕の口の中でうごめいた。
舌が舌で弄ばれて、こすられて。
不快感に全身が震えて、僕は思わず美雨の肩を掴んだ。けれどなぜか、彼女を自分から引き剥がすことだけが、どうしてもできなかった。掴んだ手に、力は伝わっているのに。
どうして、美雨を引き剥がせないのか。
「……っ」
その時だった。
僕の中で渦巻く葛藤の中心を、唇が生んだ痛みが走り抜けていく。
微笑みながら僕から身体を離す美雨。
その薄紅色の唇が、緋色に染まっていた。
僕の唇はズキズキと痛み、かすかに熱さえも集まってきた。うずく場所を舌でなめるとちくりと痛みが走って、そこがかすかに抉れているのを知る。まるで鋭い物を突き立てたように。
舌にじわりと広がる鉄の味。
僕はようやく、美雨に『噛まれた』と知った。
彼女の唇の赤の意味を理解した瞬間、僕はやっと彼女を『拒絶』した。突き飛ばされたその身体が、冷たく硬い門扉にぶつかる。けれど美雨は、痛みを浮かべることは無かった。
ただ『理解できない』といった様子で、不思議そうに首を傾げるだけだった。
けれどその眦に、うっすらと見えた涙の粒。
女の子を、美雨を泣かせてしまった――その事実に一瞬、躊躇う声が僕の頭の中で必死の説得をしてきたけれど、それより先に喉から飛び出した声を止めることはできなかった。
「もう美雨とは遊ばない!」
そして僕は、彼女に背を向けた。美雨は何度か遊びに来たけれど、適当な理由をつけてそれを断った。数日もする頃には、彼女は僕の周囲から完全に、存在しなかったように消えた。
季節は巡り次の夏休みになって――僕は祖父母の家には行かなかった。
その次も、次も。
僕は、美雨に会いたくなかった。
会ってしまえばきっと、僕は後戻りできなくなる気がしたからだ。僕が進むのではなく、僕の手をしっかりと握って離さないであろう美雨が、どこかへ連れて行く気がして。
怖かった。
違う世界を覗くのが、僕はまだ怖かった。