#8 大人の男
放課後、零は急いで教室を出た。
弦からの呼び出しはあったけれど、今日はコンビニのバイトが入っている。
前回は弦のせいで遅刻をして、店長にこっぴどく怒られてしまったのだ。
バイト禁止の聖音高校。教師や生徒が利用しなさそうな、少し遠い駅の店舗を選んで働いている。
急がなければ、また間に合わなくなる。
ホームルームが長引いたことを呪う。
零が校門を出た瞬間、鮮やかな赤いスポーツカーが吸い寄せられるように滑り込んできた。
「零くん!」
運転席から身を乗り出した律が、親しげに手招きをする。
「律さん。どうしてここに?」
「バイト先まで、送ってあげるよ」
「え、でも……」
「遅刻しそうなんだよね?ここは素直に乗ったほうがいいんじゃない?」
律の穏やかな微笑み。
「じゃ、お願いします」
零は助手席に乗り込んだ。
高級車らしく、吸い込まれるようなシートだった。
「なんで、俺がバイトだってわかったんですか?」
「百々子さんが、キッチンのカレンダーに書いてるよ。零くんのシフト」
「あ――」
親子ふたり暮らしの頃の癖が抜けていないらしい。
神大寺の家でそんなものを見られたら、弦に何を言われるかわからない。
早めにやめさせないと――。
「反対、しないんですか?」
「ん?」
「俺がバイトしてること」
「校則違反は褒められたことじゃないけど、社会的なことを考えれば、ぼくは肯定派かな。学生のうちに外の世界を知るのはいいことだよ」
「意外ですね。神大寺の人だから、もっと厳しいかと思ってました」
そういえば。
今朝、髪色について話したときの詠も、そんな感じだった。
「弦は……」
零は、弦の名前に微かに肩を震わせた。
「固定観念に囚われすぎね」
律はハンドルを片手で操りながら、静かに続けた。
「彼こそ、家や学校以外のコミュニティを持つべきなんだ。視野が狭いと、大切なものを見失うからね」
その言葉に、零は思わず納得してしまった。
規律と支配で縛り付けようとする弦。
一方、律には社会に出た人間特有の余裕がある。
――大人の男って感じだな……。
零の中で、警戒心が少しずつ薄れていく。
「まぁ、父親の会社で働くぼくが言うのもなんだけどね」
「そんなこと……」
「親の七光り、すねかじり、放蕩息子。そんな言葉は、もう聞き飽きちゃったよ」
律は自嘲気味に笑った。
「今だって、こっそり仕事をサボって、零くんとデート中だ」
「デートって……」
零もつられて笑った。
けれど次の瞬間、不意に律の声の温度が下がる。
「弦はね、母親に捨てられたと思っているんだ」
「え……?」
「真面目で優秀でいなきゃいけない。そうでなければ、いつか父さんにさえ捨てられる。彼はずっと怯えてるんだよ」
零は言葉を失った。
あの傲慢で、何もかも支配したがるのに。そんな不安を抱えているなんて、想像もしていなかった。
フロントガラス越しの夕陽を見つめながら、律はぽつりと呟く。
「だから、弦は大事なものを失うことに敏感だし、好きなものにも執着するんだよ」
「好きな、ものって……?」
「さぁ、なんだろうね」
零の胸が、微かに痛んだ。
理解したくないのに、理解してしまうような――厄介な同情。
その隙を、律は見逃さなかった。
「零くんに、弦は甘えているんだよ」
「……まさか」
甘えると侵すが同じだというのか?
「これからも、弦のことをよろしくね」
律の声音は柔らかい。
「律さんは、いいお兄さんですね」
「もう、零くんのお兄さんだよ」
「……っす」
なんだか、くすぐったい気持ちで、零は視線を窓の外に向けた。
だけど、どうして弦の母親は出て行ってしまったんだろう――。




