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モルフォ蝶の憂鬱

作者: 河居
掲載日:2026/05/06

 塾の帰り、参考書を買いに行った本屋で綾瀬さんを見かけた。



 彼女は華があって、クラスの上位層の人だ。

 校則をやんわりと無視した淡いメイクと短いスカート、地毛だと言い張る長い髪は栗色で、癖のない人工的な艶があった。

 彼女の周りの友人達もみんなそんなふうで、クラスの隅で机に齧り付く僕とは生きてる世界も吸ってる空気も違う人だった。



 彼女はわずかに周りを気にしている風だったので、万引きでもするつもりかと目が追った。

 でも、予想に反して彼女はレジに向かった。


 あっ――。


 レジを済ませた彼女が自動ドアに向かうところで、目が合ってしまった。

 思わず彼女も僕も固まってしまったけれど、彼女の方が先に我に帰った。

 買った本をぎゅっと胸に抱いて、小走りに本屋を出て行った。


 彼女が買ったのは『ソフィーの世界』だった。




「ちょっと、相澤」

 次の日、下校途中で綾瀬さんに呼び止められた。

 彼女はクラスの上位層。世界の違うその人に話しかけられて、喜ぶよりも怖かった。

 光と影みたいなものだ。対消滅で消えちゃうんじゃないかと思った。

 でも、あいにくと消滅は免れた。

 そしたら、モブの僕には彼女について行く以外に選択肢はなかった。


 人目についたら嫌だから、と、彼女と喫茶店に入った。


 ショッピングモールや駅がある方とは逆方向。住宅街の細い路地を進んだ先に、小さな釣り看板だけがある喫茶店だった。

 マホガニーのテーブルに、揃いのソファ。緑の濃い大きな葉の観葉植物の向こうにサイフォンを磨くマスターが見えた。


 学校の近くにこんな店があるなんて知らなかった。


「おや、今日はボーイフレンドを連れて来たんですか?」

 老紳士といった風のマスターが目尻を下げて綾瀬さんに話しかける。

「違います。いつもの席で、紅茶、下さい」

 綾瀬さんはよく来てるみたいだ。

 場違いみたいな短いスカートを揺らしながら、店の奥にスタスタと歩いていくのをついて行った。

 綾瀬さんが腰掛けたのは、奥まった窓から遠い席だった。

 ……僕は親鳥についていく雛みたいだ。


「ふふ、ボーイフレンドくんの分は僕がご馳走しましょうね」

 マスターの弾んだ声に綾瀬さんが違うったら!と高い声をあげた。



 マスターが綾瀬さんと僕に紅茶を出してくれた後、彼女がテーブルに一冊の本を出した。

 あの日買ってた本だ。

「誰にも言わないで」

 綾瀬さんはぶっきらぼうに言った。

「……へ?」

 思わず間抜けな声がでた。

 綾瀬さんの頬は少し赤みがさして、居心地悪そうに視線を逸らしている。

「え?……あの……」

「ああもう焦ったい!ガリ勉だと思われるの嫌なの!本なんて、読んでるなんて知られたくないのよ!」

「ええぇ!?」

 聞けば、綾瀬さんはかなりの読書家だった。

 僕が詰まりながら聞けば、綾瀬さんが機関銃のように答えた。

「な、何を読んでるの……?」

「なんでも。気になったら片っ端から読んでるわ。東野圭吾も京極夏彦も……三島由紀夫も好きよ。あと、柳田國男も。哲学も面白そうだったから、ソフィーの世界を買ったの」

「凄い……でも雑食」

「大きなお世話よ!」

 テンポの合わない会話は存外に途切れなくて、いつのまにかマスターが紅茶のおかわりを入れてくれていた。

「なんで、秘密にしたいの?」

 2杯目の紅茶がぬるくなった頃だった。

「言ったでしょ?ガリ勉だと思われるの嫌なの」

「うん、でも、それがなんでかなって」

 彼女は世界が違う人。

 非日常をそのまま場所にしたみたいな喫茶店。

 僕も少し浮き足立ってしまったのかもしれない。

 踏み込んだ事を聞いたな、と聞いてからアワアワと慌てた。

「……今が、楽なの」

「楽?」

「そう。私、メイクも好きだし、遊ぶのも好き」

 同じものが好きで、同じように遊ぶ友人。彼らが居れば、一人になる事は無い。

 移動教室の時も班別行動も昼食の時も。

「みんな、”同じ”だから一緒にいるのよ。本が好きなんて異分子よ……距離取られちゃうわ」

 そう言った綾瀬さんは視線を落として指先で空になったスティックシュガーをいじっていた。

「そしたら、ハブかれちゃうかもしれないじゃない……もうみんなグループ出来てるし、一人になったらどこにも入れてもらえないわ」

 さっきまでの勢いはなりを潜めて、声は消え入りそうだった。


「綾瀬さんて……モルフォ蝶みたいですね」

「モルフォ蝶?なにそれ?」

「えと、検索、してみて。そうそれ、青い蝶なんだけど、本当は青く無いの。構造色って言ってね青色の光だけを反射するから青く見えるだけで、ほんとはこんな色」

「え、めっちゃ地味」

「そう!凄いよね。こんなに綺麗に見えるのに」

「……相澤、私の事地味だって言いたいの?」

「あ!ごめ……ごめんね!そう言うわけじゃない……」

「って言うか、蝶の事になった途端めっちゃ喋るじゃない」

「さっき、本の事話す綾瀬さんだって、そうだったよ」

「え……」

 自覚してなかったみたいで、綾瀬さんはポカンとしてて思わず吹き出してしまった。

「ちょっ!笑わないでよ!」

「ふっはは!……ごめん、ごめんって」

 拳を作って殴るポーズをする真っ赤な綾瀬さんがおかしくてますます笑ってしまう。


「……虫、好きなの?」

「虫って言うか、蝶が好きで……」

 模様の美しさもあるけれど、その構造や生態、進化も。将来は、蝶の研究がしたい。

 けれど、公務員の両親は堅実だ。手に職をつけろとは耳にタコが出来るほど言われてる……。学者になりたいなんて言ったら、なんて言うかは火を見るより明らかだ。

 調べれば、蝶を専攻出来る大学は超がつくほど難関だ。偏差値だけ見れば、両親は受験することに反対はしないだろう。だから、今は机に齧り付いている。

 入学さえできたら、専攻は強行突破だ。

 親には気づかれたくない……だから、図鑑を買ったり眺めたりは難しい。

「なんだ、相澤もモルフォ蝶みたいじゃない」

「僕はただ地味だよ……」

「違うよ。綺麗な色を出すために今地味なんでしょ?」


 ほんとだ――。


 なんだかちょっと違うけど、そう言われたら、なんだか違う世界の綾瀬さんが身近に感じてしまう。


「……ねぇ、ここ、私の秘密の場所なの。だいたい毎週火曜日はここで本読んでる」

「うん?」

「相澤も来なさいよ。私は本を読むから、相澤は蝶の図鑑を眺めるの」

「へ?」

「ここなら邪魔されたりしないわ。図鑑は図書館から借りてくるか……買って置き場所に困るならマスターに匿ってもらえる」

 え?と、マスターの方を見ればグッと親指を上げてくれた。

「ふ、ふふ……」

 思わず笑ってしまった。

「じゃあ、綾瀬さんの秘密基地に間借りさせてもらうよ」

 そう言えば、綾瀬さんはほころぶように笑って……かわいいと、思った。



 僕は図鑑を、綾瀬さんは小説を……それぞれ楽しむ秘密基地での時間に、羽を伸ばした。

 時折、綾瀬さんが今何見てるの?と図鑑を覗き込む。いい匂いがふわっと香って思わず頬に熱が集まるけれど、話しているうちに気にならなくなる。一通り話し終えれば、今度は僕が綾瀬さんにどんな話読んでるの?と聞く。綾瀬さんは待ってましたとばかりに小説のあらすじから感想まで話してくれる。

 二人とも、そんな相手が居なかったから……気づけば本を読む時間より、話してる時間の方が長くなる事もしばしばだった。



 テストが近くなれば、一緒に課題をやる事もあった。綾瀬さんは地頭がいいのか教えれば理解が驚くほど早かった。特に古文はそもそも得意なようで僕が教えてもらう事もある程だった。

 逆に理系は二人とも苦手だったけれども、意外にもマスターが教えてくれた。マスター曰く、サイフォンは理系の極地らしい。意味がわからなくて、二人で顔を見合わせて笑った。


 同じ世界の人じゃないと思っていたのに……。

 いつの間にか、彼女と居る時間にひどく安らいでいた。


 彼女もそうかもしれないと思うのは、欲目だろうか――。




「私、相澤と同じ大学受けるわ」

「え?……嘘でしょ?」

「ほんと。国文科あるでしょ?司書になりたいの」

「司書……凄く合ってると思うよ!」

「でしょう?……だからさ、同じ大学受かったら…………一緒に住もうよ」

「うぇえ!!」

 変な声が出て、思わず飛び上がった。

 テーブルに膝が当たって、ティーカップがガチャンと大きな音を立てた。

「え、えっと!ちょっと待って!」

「あ、ごめんね!いきなりこんな事言ったらびっくりするよね!忘れて!」

「そうじゃなくって!!」


 確信になった。

 秘密基地に来たのは綾瀬さんに流されたからだ。きらきら綺麗な綾瀬さんの、外側が凄く怖かった。


 でも、今は――。


「僕、綾瀬さんが好きなんだ」


 綾瀬さんがクシャっと笑った。

 ちょっと歪で、いつもの綺麗な笑顔じゃなかった。

「……良かった。私も、相澤が好きだよ」

 声は震えていて、鼻が赤い。



 モルフォ蝶の本当の色を僕は、見た――。



 桜を眺めながら、いつかの会話を思い出した。


 春休みの終わりに、マスターに匿ってもらった本を引き取りに行った。

「火曜日の夕方。あの席は空けておくから、いつでも訪ねて来てください」

 潤んだ目のマスターに礼を言って店を出た。


 山のような本を抱えて、綾瀬さんと歩く。

 春先の空気は少し冷たかったけれど、足取りは軽かった。



 もう、本当の色を知っているから――。


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