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【短編】不倫未満

営業部のフロアは、夕暮れのオレンジ色に染まり始めていた。

パソコンの排熱と、コーヒーの匂いが混じり合う独特のオフィス臭の中に、最近、もう一つ別の香りが加わった気がする。甘く、少し挑発的な、若い女性の香り。

それは、入社三年目の後輩、高橋あかりのものだった。


俺の名は佐々木健太、40歳。妻と3人の子供に囲まれ、都心から少し離れた郊外に建つ一軒家で暮らしている。絵に描いたような「普通の幸せ」を享受しているはずの俺の日常に、高橋あかりは静かに、しかし確実に波紋を広げ始めた。


「佐々木さん、今日もお疲れ様です。もしよかったら、この資料、一緒に見てもらえませんか? 佐々木さんの意見が聞きたいんです」

残業で人がまばらになったオフィスで、彼女は俺の席の隣にやってきた。

上目遣いと、少し潤んだ瞳。

その資料は、別に二人で見るほどのものではない。

でも、彼女はいつもそうやって俺を誘った。なんてことない用事でもすぐに「佐々木さん、佐々木さん」と屈託のない笑顔を寄せてくれる。

最初は後輩の指導だと思っていた。

それが、いつの間にか俺にとって「秘密の時間」のようになっていた。


ある日のことだ。

仕事の話を終え、雑談になった。

執務スペースには他に誰もいなかった。定時後の定例会議があり、こういった光景は珍しくない。

そんな時、かならず彼女は俺に話しかける。

だが、今日は一段と距離が近かった。

「佐々木さんって、いつも穏やかですよね。私、そういう人、すごく尊敬します」

彼女の声は、普段よりも少し甘かった。

そして、少しだけ、俺のパーソナルスペースに踏み込んできた。


心臓がドクリと鳴った。


こんな感情、妻と出会って以来、いや、もしかしたらもっと長い間、感じたことのなかった種類のドキドキだ。会社の飲み会では、なぜかいつも俺の隣に座り、会計を済ませて店を出ると、「もう少し、お話ししたいです」と、二次会をセッティングしてくれる。

それが二人きりになることも増えてきた。

彼女の笑顔を見るたび、優しい声を聞くたび、俺は、もしかしたらこの感情は「好き」なのかもしれないと思い始めていた。

40歳にして、まさかこんな経験をするとは。

家族の顔が脳裏をよぎるたび、罪悪感と興奮が同時に押し寄せ、胸が締め付けられるようだった。


またある日のことだ。

デスクで翌日の会議資料を準備していると、高橋あかりが俺の席までやってきた。

「佐々木さん、これ、どうぞ。出張のお土産なんですけど、佐々木さんっぽいなって思って」

彼女の手のひらに乗っていたのは、小さなフクロウのマスコットキーホルダーだった。

丸い目をした、どこかユーモラスなフクロウ。

手渡された瞬間、ほんのりと甘く、フローラルな香りが鼻腔をくすぐった。

それは、高橋あかりがいつも身につけている香水の香りだった。


「佐々木さんに似てると思って。なんだか目がクリクリしてて可愛いですよね」

そう言って、少し照れくさそうに微笑んだ。

別に深い意味があるわけじゃない。

彼女は誰にでも分け隔てなく接する、明るい性格の女の子だ。

きっと、純粋にそう思っただけだろう。それでも、妙に印象に残った言葉だった。

俺はそれを、とりあえず鞄のサイドポケットにしまった。鞄のちょっとしたアクセントになって、見かけるたびに少しだけ、彼女の笑顔が脳裏に浮かんだ。

そして、鞄を開くたびに、あの甘い香りが、ごくかすかに漂うのを感じた。


ある日の昼休み。

同僚たちが集まる休憩室で、ひそひそ話が聞こえてきた。


「ねえ、高橋さんと、企画部の佐藤さん、なんか怪しくない?」

「え、まじで? 昨日、駅の近くで二人で腕組んで歩いてたって」

「ああ、あの佐藤さんね。既婚者なのにねぇ」


耳を疑った。高橋あかりと、企画部の佐藤が——不倫。


信じたくなかった。


いや、信じたくないというよりも、自分のこの数週間の感情の揺れ動きは一体何だったんだ、という複雑な気持ちの方が大きかった。

まさか、俺が経験していたドキドキは、彼女にとっては単なる「社内営業」の一つに過ぎなかったのか?


数日後、その噂は確信に変わった。

高橋あかりと佐藤が、不倫疑惑で会社から呼び出され、あっという間に二人とも自主退職していったのだ。嵐のような出来事だった。

社内は一気に不穏な空気に包まれたが、俺の胸には、奇妙な安堵感が広がっていた。

正直、ほっとしていた。


自分が、犠牲にならなくてよかった。

あのドキドキが、ほんの一瞬の気の迷いで済んで、本当によかった。

もしあのまま、彼女の誘いに乗っていたら、俺の「普通の幸せ」は、一瞬で崩壊していたかもしれない。家族を、家を、仕事を、すべて失っていたかもしれない。

そう思うと、背筋が凍る思いだった。それと同時に甘くどろりとした何かが胸の中に残っていた。


その日の夜、俺はいつもより早く会社を出た。

電車に揺られ、最寄りの駅に着くと、見慣れた道が、なぜかとても愛おしく感じられた。

玄関を開けると、子供たちの賑やかな声が聞こえてくる。

「パパ、おかえり!」

小学3年生の長男が、飛びついてくる。その後ろから、小学1年生の長女と、まだ幼い保育園児の次男が「パパー!」と声を上げながら、駆け寄ってきた。

キッチンからは、妻の「おかえりなさい。ご飯できてるよ」という優しい声が聞こえてきた。

テーブルには、温かい湯気が立ち上る味噌汁と、子供たちが好きなおかずが並んでいる。


「今日の味噌汁、美味しいね」

俺が言うと、妻がにこやかに「ありがとう」と返した。

子供たちは、今日あった出来事を、我先にと話し始めた。

くだらない話ばかりだけど、それがたまらなく愛おしい。


食卓を囲んでしばらくすると、リビングからテレビの音が聞こえてきた。

ワイドショーだ。

「――続いては、巷を騒がす芸能人不倫騒動です。先日、写真週刊誌で報じられた既婚者の人気俳優と共演相手の独身女優の不倫関係ですが、ついに今日、双方が謝罪会見を行い、活動休止を発表しました」


画面に映し出されるのは、憔悴しきった芸能人の姿。

彼らの失意に満ちた表情と、家族の顔を思い浮かべながら、俺は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

その時、隣に座っていた妻が、ふっと息を吐いた。

「いやだな、こういうの。家庭があるのに……どうしてこういうことするんだろう」

妻の声は、決して俺を責めるようなものではなかった。

むしろ、他人事のように、当たり前の日常を慈しむような響きがあった。

だが、その言葉には、どこかすべてを見透かしているかのような、それでいて何も言わない優しさがにじんでいた。

俺は一瞬、言葉に詰まり、「……そうだな」としか言えなかった。


風呂から出ると、鞄をソファに置いたままだったことを思い出し、俺はリビングへ戻った。

ふと、鞄のサイドポケットに手を入れる。

いつもそこにあるはずのフクロウのキーホルダーがないことに気づいた。

指先が空を掻く。


——あれ?どこに行った?


その時、リビングでテレビを見ている妻がふいに俺に、

「そういえば、あなたの鞄に入ってた変なキーホルダー、アレ、使ってなさそうだから捨てといた。なんだか変な香りがついてたし、趣味悪いし、あのフクロウ、目がギョロっとしてて気持ち悪かったから。ごめんね。私、嫌な匂いのものが家にあるのが嫌で」


妻の言葉に、ばくんと動悸がした。

脳裏に高橋あかりの少しはにかんだ笑顔と、あのフクロウのクリクリとした目が鮮明によぎった。

リビングのテレビ画面の中の芸人が、大げさに転んで笑いを誘っていた。


俺の心には、小さなフクロウの目が、あのクリクリとした瞳がいつまでも焼き付いていた。

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