ゴーストハンド
二階建ての民家、その屋根の上に一人の男が立っていた。薄暗い色の半纏を羽織り、自身の腕に視線を送っている。
男は幽霊だ。とは言え、足先が薄くなっていたり、宙に浮いているわけでもない。一目見ただけでは、彼が死者であるか生者であるかの判断はつかないだろう。
男は掌の開閉を繰り返し、その後に空を仰いだ。そんな時間がしばらく続き、やがて視線を下に向けると、両膝を軽く曲げて屋根から飛び降りた。
物体は重力に逆らうことはできない。その法則は幽霊の身にも適応されるらしく、男は垂直に落下し、知らぬ家の芝を踏みしめた。
男は顔色一つ変えない。
やせ我慢などではなく、物質的な質量を持たない身である為か、痛みを感じていないだけだった。
男は疑問に思った。
なぜ、質量を持たない我々が重力の影響を受けるのだろう、と。
長い幽霊人生の中で、このような疑問は何度も抱いてきたが、いつも納得のいく答えは出なかった。
男は歩き、門扉の前で止まる。
防犯意識が低いのか、片側の門扉は半開きになっており、風になびいている。
男は利き腕で扉に触れ、押し開こうとする。が、ピクリとも動かない。どれだけ力を入れようと、前のめりになって体重をかけたところで、風にすらなびいていた門扉は不動を貫いている。
幽霊にも法則がある。
生きた人間にその姿や発声を認識されることはなく、幽霊であるその肉体はあらゆる物質に干渉することはできない。
男は再び疑問を覚えた。
扉を押すことが出来ないのであれば、ドアノブを回すことが出来ないのであれば、この腕はなぜ存在するのだろうか?
バットを振るう。ペンで文字を書く。本を読む。それらすべては、物質に触れ、移動させる行為だ。だが幽霊には、その、『移動』が行いない。『触れる』行為すら、自身と他者に感触を残さない。
男は、押すことを諦め門扉を乗り越えた。
我々を幽霊とした何者かは、なぜ無用の長物となり果てたこの腕を残したのだろうか?
疑問は尽きず、その答えも見つからない。
「相も変わらず、ひねくれた脳みそしてんねえ」
幽霊の男は苦く笑うと、腕を組んでやや考えた。
「やっぱ、これの為だろ」
組んでいた腕を解くと、幽霊の男は右手で中指を立て、左手の親指で地面を指した。
「感情表現」
幽霊の男はケタケタと笑う。それに対し、半纏の男は感心するように頷いた。
「ぱっと浮かぶのは、登攀かしら」
そう言うと、幽霊の女は背を預けていた木を掴む。そのまま、手足を使って器用に登り始めた。
「足だけじゃ大変でしょ?」
思い返せば、半纏の男が民家の屋根に登った時も、排水パイプをその手足で伝っていた。
半纏の男は、自身の思慮の浅さに猛省する。
「え、幽霊の手の意味、ですか?」
大学ノートとシャーペンを弄んでいた青年は、困惑を隠しきれずに聞き返した。半纏の男が頷くと、青年は自身の手をジッと見つめる。
青年にとって、死後の世界は見聞きしただけであり、その言葉の意味を理解することにすら、時間を要していた。
男は微笑み、静かに返答を待った。足音も出せない靴で部屋を進み、青年のベッドに腰を下ろす。当然、スプリングが弾むこともない。くつろぐように背を倒し、倒れこまないように腕で支える。負荷がかかっているであろう腕に、重みや痛みは感じない。
「人の字です」
瞼を閉じ、思案に耽っていた男の耳に、そんな言葉が入る。
「僕の方から見ると、その体勢、『人』って文字に見えます」
男は小首を傾げた。だが、すぐに青年が言わんとすることを察した。
「よく、人の文字の由来で、『人と人とが支えあってこの文字になった』って聞きますけど、僕は、『ちょっとベッドに腰かけて、休憩するために腕で身体を支える』の方がしっくりきます。その為にも、幽霊の方も腕が必要なんじゃないですか?」
なるほど。と、男は心の中で呟いた。
思いがけない角度からの切り口に、男は不意の笑みを零す。自身が笑っていることに気付くと、それを受け入れ、爆笑してみせた。
想像以上の反応に困惑する青年を尻目に、男は開いたままの窓に足を掛けた。一度、青年に手を振り、力の限り跳躍する。
庭を超え、塀を超え、道路で受け身を取ると、何事もなかったかのように立ち上がる。
半纏の男は思案する。
感情表現、登攀、支え。人の数ほど答えは変わり、そのどれもがユニークだった。だが、それでも、それらは腕でなければならないのだろうか?
幽霊と言えど、言葉は発せられる。表情筋を動かすことも。
幽霊の筋肉は疲労を覚えない。全力疾走も、跳躍も、限りなく無限に近く行える。
触覚を無くした身体は、極端に言えば、思い切り転倒したところで何も得られない。
反論材料を探せば、いくらでも湧いて出る。
完璧な答えはまだ出ない。そんなものはないのかもしれない。
「……不要なものなど、あるのだろうか」
それでも、男は考え続けた。
腕を伸ばし、虚空の先にあるなにかを掴もうとした。